20年前、声優になることを夢見て北海道から上京したというミチオさん(写真:ミチオさん提供)

現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。

今回紹介するのは「現在北海道で夜勤の施設警備員(契約社員)をして暮らしています」と編集部にメールをくれた、39歳の男性だ。

中学生のころからアニメが好きだった

東京・都心にある駅から歩いて数分。ガラス面を多用した近未来を思わせるビルがそびえ立つ。ある専門学校の声優科が入る建物だ。整備された花壇や日差しが差し込む吹き抜けのロビー──。観光スポットのようなキャンパスを行き交う若者を見ながら、私はふと思ってしまう。はたしてこの中の何人が将来、夢をつかむことができるのだろうか、と。


この連載の一覧はこちら

ここは、ミチオさん(仮名、39歳)が20年前、声優になることを夢見て、青春時代を過ごした場所でもある。ミチオさんは北海道のある地方都市の出身。中学生のころからアニメが好きで、中でもSF小説を原作とした「銀河英雄伝説」に夢中になった。地元の公立高校を卒業後、反対する両親を説得して上京した。

「学校の成績は悪くて高校は(偏差値的に)底辺校。いじめにも遭っていました。狭い町で卒業して地元の中小企業に就職できたとしても、いじめた側の人たちともどこかで顔を合わせることになると思うと、とにかく地元を出たいという気持ちもありました。今思うと、こんな理由で進路を決めたことが軽率だったのかもしれません」

専門学校ではボイストレーニングや日舞、アフレコ実習などのレッスンに励んだ。学校以外でも滑舌を鍛えるために割り箸を口にくわえながら話したり、“初見”に強くなるよう初めて目を通す新聞や小説を音読したりと、自分なりに努力もした。

声優として芽が出るかどうかは実力と外見と運次第だと、ミチオさんはいう。

「自分は太っていて、自他ともに認める“ブサメン”。主役を張れるとは最初から思っていなくて、脇役で長く演技を続けたいと思っていました。だからこそ実技の勉強は頑張ったつもりだったのですが……」

最近は人気声優が顔出しの番組に出演し、アルバムを制作することも当たり前になった。声優にもアイドル性やアーティスト性が求められる──。当時はそんな時代のはしりでもあった。実際、容姿や実力に恵まれた生徒が専門学校に通う2年の間にオーディションに合格したり、声優事務所に所属したりするケースもあった。しかし、ミチオさんにそうしたチャンスが巡ってくることはなかった。

実家からの仕送りがあったのは専門学校を卒業するまで。その後はアルバイトをしながらいくつかの養成所に通った。学費はレッスン回数にもよるが、週1、2回のレッスンで、入所金なども合わせると年間50万〜60万円ほど。この間、節約のために家賃5万円台から3万円台のアパートに引っ越した。

養成所の中には声優事務所と提携しているところもある。養成所とはいえ、将来有望な人材を発掘、選別する場でもあるのだ。そこで実力を認められて系列の事務所に所属、デビューという流れは声優の典型的なキャリアでもある。しかし、ここでもミチオさんはチャンスをつかむことはできなかった。

30歳をすぎたころに通っていたのは、あるベテラン声優が主催する私塾のような養成所。提携先の事務所はなかった。1クラスに生徒は30人ほど。ミチオさんと同世代が多く、いくつかの養成所を経てきた人もいたという。

反省会とは名ばかりの「いじめ」

ミチオさんにとって何よりつらかったのは、レッスン後に近くの公園で行われる反省会。実態は反省会とは名ばかりのいじめで、ミチオさんはたびたびクラスメートからの“口撃”のターゲットにされた。レッスン中のミスの指摘だけでなく、「演技の際に女性の肩に触れたのはセクハラだ」「先生が俺らのクラスを指導してくれないのはお前の演技がしょぼいからだ」といった言いがかりをつけられ、最後は退所を余儀なくされたのだという。

生徒同士のつるし上げもくだらないが、安くはないレッスン料を取りながら結果的にそれを放置した主催者の声優も講師としていかがなものか。

「そう言われてみれば、そうだったかもしれません。でも、自分にとっては年齢的にもここを辞めることは、声優を諦めるということでもあったので……。いろいろと見ないふりをした部分はあったかもしれません。退所した日の夜はアパートで独り、泣きました」

声優になる夢は絶たれた。しかし地獄はここから始まった。

ミチオさんは養成所に通いながらコンビニでアルバイトをしていた。退所を決めたころ、経営母体が高齢の個人オーナーから会社組織に移行。ほどなくしてその会社から店長としてやってきた上司が独立したいと言い出し、ミチオさんは副店長として引き抜かれた。

月収は20万円ほどだったが、仕事は格段に忙しくなった。人手不足のせいで夜勤をこなした後、1時間仮眠をとってそのまま日勤に入ることも珍しくなかった。1人で勤務する夜間のワンオペも当たり前。トイレで用を足している間に寝落ちしてしまい、探しに来た客から起こされたことや、レジで立ったまま眠ってしまい、客に怒鳴られたこともあったという。

こうした激務を5年ほど続けたころ、くだんの上司から「資金繰りが厳しい」と打ち明けられ、ミチオさん名義での借金を頼まれた。結局、将来会社を立ち上げたときには役員にするからという言葉を信じ、自分名義のカードローンで約100万円を貸したという。

なぜ劣悪な職場にとどまり続けたのか

いろいろと疑問点がある。ミチオさんによると、勤務時間は実際の出退勤時刻をパソコンに打ち込んでいた。“証拠”があるのだから、労働基準監督署やユニオンに相談すれば何かしらの解決策が見つかっただろう。そもそもコンビニの人手不足は、いわゆるブラック職場であることが広く知られたことが原因のひとつだ。店員が違法な長時間労働をしても、資金繰りが苦しいのだとしたら、会社経営など成り立つわけがない。ミチオさんは上司にお金を貸す際に手書きの借用書らしきものは作ったものの、すぐになくしてしまったという。

そして最大の疑問は、声優の勉強と両立する必要がなくなったのに、他人の借金を肩代わりしてまで、なぜそんな劣悪な職場にとどまり続けたのかということだ。

「養成所を退所した時点で、すっぱりと気持ちを切り替えてハローワークで別の仕事を探すべきでした。正直、声優になることを諦めきれない自分がいたんです」

ミチオさんは数年前、北海道の実家に戻った。親戚の葬式のために帰省したミチオさんの変わり果てた姿を見た両親から「お前、このままだったら死ぬぞ」と驚かれ、なかば強制的に連れ戻されたのだ。

なぜならこのとき、ミチオさんの体はぼろぼろだった。コンビニ勤務のストレスで暴飲暴食を続けた結果、体重は160キロ超。手足はむくみ、皮膚の一部は黒く変色していた。実家に戻って病院に行ったところ、深刻な無呼吸症候群とリンパ浮腫と診断された。

ミチオさんは1年ほど療養した後、契約社員として施設警備の仕事に就いた。ところがホッとしたのもつかの間、昨年、細々ながら借金を返していたコンビニ時代の上司と連絡が取れなくなった。半分ほど残っていた借金は両親が肩代わりしてくれたという。結局声優への夢は借金を踏み倒されるというオチがついたところで、今度こそ終わりを告げた。

ミチオさんは編集部に取材依頼のメールをくれた。なぜ取材を受けたいと思ったのか。ミチオさんは「40歳にもなるのにニートに毛が生えたような状態の自分の姿、自分の好きなことだけをやってきた成れの果ての姿を知ってほしかった」と答えた。

実は私もアニメ好きだ。正確には声優オタクである。時代が時代なら、私も声優を目指していたかもしれないと思う。先日、私が好きな声優の1人で、最近では「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」にも出演している関智一さんがある番組で「ほとんどの生徒は専門学校や養成所のカモ」という旨の挑発的な発言をしていたことを思い出した。

あらためてミチオさんが通っていた専門学校の華美な外観を思い出す。たしかに大勢のカモがいたからこそ、あれだけ立派な建物も建てられるのだろう。ただ関さんの発言の真意は多分、「カモで終わるな」ということにある。ほとんどの人が夢半ばで去っていく厳しい現実があるからこそ、仮に声優になれなくてもその後の人生の糧になる何かをつかんでほしい、声優を目指したことを後悔しないでほしいと、関さんは言いたいのだ。

ミチオさんに話を聞く限り、彼の心は後悔が大部分を占めているようにみえた。ただ夢を諦めてまだ数年。後悔するか否か──。その帳尻は一生かけて合わせていけばいいのかもしれない。

「できればあんまり責めないでほしい」

取材で話を聞いてから数日後、ミチオさんからメールが届いた。そこには次のようなことが書かれていた。

「YouTubeを見ていたら、生活保護を受けている元ヤクザの高齢男性が出てくる動画に対して『自業自得』『勝手気まま、好き放題にふるまってきて今さら他人の世話になるな』というコメントがたくさん寄せられていました。(こうした批判は)若いころに芸能に打ち込んで大成できなかった自分のような人間にも向けられるんでしょうね」

自身のことが記事になってバッシングされることを恐れたのか。元ヤクザとかつて声優を目指した人間とでは少し違うし、YouTubeやネットのコメント欄に書き込まれる意見が多数派であるかも定かではない。ただコロナ禍において、俳優の西田敏行さんが日本俳優連合の理事長として同業者たちの窮状を訴えたところ、SNS上で炎上したことを見ても、現在の日本社会においてゆがんだ自己責任論を振りかざす人が少なくないのは事実だろう。

私がそう答えると、ミチオさんは「そういう批判をする人はアニメや映画、ドラマ、演劇とかのエンタメを楽しまないんでしょうか」と言った。ミチオさんにいわせると、こうしたエンタメの世界は、成功者だけでは成立しないことはもちろん、脇役や裏方も含めれば成り立つというものでもない。自分のように夢破れて消えていった数えきれないほど多くの人間もいて、初めて光り輝く世界なのではないか、というのだ。

「だから、できればあんまり責めないでほしい」

本連載「ボクらは『貧困強制社会』を生きている」では生活苦でお悩みの男性の方からの情報・相談をお待ちしております(詳細は個別に取材させていただきます)。こちらのフォームにご記入ください。