日本語には「親子」という言葉がある。宗教学者の島田裕巳氏は「日本語特有の言い方だ。日本では、親子ということが他の国よりもはるかに重要な意味を持っていることを表しているのではないか」という――。

※本稿は、島田裕巳『いつまでも親がいる』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

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■「親子」という言葉は日本語に特徴的な表現

「親子」ということばがあります。

親子とは、親と子ということです。その点では、どの社会にも親子が存在するということになります。

しかし、これは日本語に特徴的な表現になっています。

日本語は、中国語の影響を深く受けています。そもそも漢字は中国から来たものです。

現在の中国語では、親は「亲」という漢字で表現されます。子は、日本語と同じく「子」です。

ならば、親子のことをさして、「亲子」と言うはずです。実際、そうした書き方もされ、「亲子关系」と言えば、親子関係のことを意味します。

しかし、あまり亲子という表現は使われていないようで、「父子」とか「母子」という表現が用いられます。日本語でも、こうした表現は使われ、父子家庭とか、母子手帳などがありますが、親子の方がはるかに頻繁に用いられています。

どうも、日本と中国では、親子ということばについての感覚に違いがあるようです。もしかしたら、日本という国では、親子ということが、他の国に比べてはるかに重要な意味を持っているのではないでしょうか。

その際の親子は、単純に親と子をさしているということではなく、親と子が一体になっているというニュアンスがあるように思えるのです。

■「親子丼」を英語に訳すことはできるのか

私たちは、親子という言い方を日常生活のなかで頻繁に使っているので、そこに特別な意味などないと考えられています。考えるどころか、それを前提にしていて、特殊性を自覚することもないのです。

「親子丼」という食べ物もあります。鶏肉と卵を使った料理で、鶏と卵が親子だということで、親子丼と呼ばれています。鮭とイクラを使った親子丼もあります。

そこからは、「他人丼」という食べ物も生まれました。肉が牛や豚に代わり、卵との間に親子の関係がないので、他人だというわけです。こうした料理は中国にはありません。

では、親子丼を英語に訳すことはできるでしょうか。

丼がbowlで、親子がparent and childですが、bowl of parent and childというわけにはいきません。これでは、何のことなのか、意味はまったく通じません。変な想像を掻き立てることになるかもしれません。

親子丼を説明的に訳すなら、bowl of rice with chicken and eggsとなるでしょう。それで意味は通じるかもしれませんが、chickenとeggとが親子の関係にあるというニュアンスはまったく反映されていません。

■「親子」と「parent and child」は違う

そもそも、parent and childということばはどうでしょうか。たしかに、parentが親で、childが子どもですから、それは親子ということばの訳語として間違ってはいません。

しかし、日本語の親子と英語のparent and childとでは、ニュアンスは相当に違うのではないでしょうか。

英語ではただ、「親と子」のことをさしているだけで、「親子」という日本語が示すような両者の密接な関係はまったく表現されているようには思えません。

日本では、親子という表現は頻繁に使われても、英語では、parent and childという言い方が日常的に使われたりはしないのです。

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「親と子」と「親子」は、さしているものは同じでも、その意味、ニュアンスは大きく異なるのではないでしょうか。

日本は、親と子を区別した上で、両者が一体の関係にあることを自覚している。そういう社会なのではないでしょうか。

■中世ヨーロッパに「子ども」は存在しなかった

そんなことは、日本に限らず、どの社会でも当たり前のことではないか。そう思われるかもしれません。

親がいて、子がいる。親は子どもを育てる立場にあるわけですから、そこには自ずと上下の関係が生まれてくる。私たち日本人はそれが普遍的であるように考えます。

しかし、どうもそうとは言い切れない。私は長くそう考えてきました。

このことに関連して思い出される本があります。それが、フィリップ・アリエスが1960年に刊行した、『〈子供〉の誕生:アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』(杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房)という本です。日本では80年に翻訳が出ますが、その当時、かなり話題になりました。私も、刊行された直後に、翻訳でこの本を読みました。

アリエスはフランス人の歴史家です、けれども、大学で研究した経験を持っていないため、「日曜歴史家」とも呼ばれました。そうした著者の経歴を含めて注目が集まりました。

アリエスは、膨大な史料を駆使して、中世のヨーロッパ社会では、大人と子どもを区別する考え方がなかったという主張を展開しました。中世には、子どもは存在しなかったというわけです。

アリエスがとくに注目したのが、教育ということです。中世の時代のヨーロッパには、教育という考え方がなかったというのです。したがって、現代なら子どもとされる年齢の人間たちは、大人と変わらないものとして扱われていました。だから、年齢が若い者たちが飲酒をしても、恋愛をしても、それは何ら問題にされなかったというのです。そして、大人も子どもと入り交じって遊びに興じていました。

■「大人」と「子ども」の間に明確な区別がない

時代区分というものは、国によって異なります。日本だと、中世は、平安時代の終わりになる11世紀から、戦国時代が終わる16世紀までをさすことが多いのですが、ヨーロッパについては、5世紀から15世紀くらいまでが中世と考えられています。

中世が終わり、近世がはじまる16世紀から17世紀にかけては、ヨーロッパで教育ということが強調されるようになります。そうなると、教育の対象にならない大人と、対象になる子どもとが区別されるようになりました。そして子どもは「純粋無垢」な、大人にとって愛すべきものとしてとらえられるようになったのです。

アリエスは、ヨーロッパにおいて学校制度が整備され、近代に向かっていくことで、子どもという概念が生み出されたという分析を展開しました。それが彼の言う子どもの誕生ということなのです。

しかし、現在のヨーロッパにおいては、依然として大人と子どもとはあまり区別されていないのではないかという印象を受けます。

たとえば、アリエスの国であるフランスでは、スーパーマーケットなど公共の場所で子どもが騒いでいると、周囲から顰蹙(ひんしゅく)をかいます。子どもであっても、しっかりと社会性を身につけていなければならない。こうした考え方が生まれてくるのは、子どもと大人との間に明確な区別がなされていないからではないでしょうか。

■フランス社会には、むしろ大人がいないのではないか

コロナ禍でも、フランスのそうした傾向があらわになったと言えるかもしれません。フランス在住の日本人が書いた「フランスのコロナウィルス感染第二波が来るのは当然だった…」(RIKAママ、World Voice)という記事を読んだのですが、コロナの感染拡大に対するフランス人の姿勢は、大人であっても、まるで子どものように思えるからです。

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まず、衛生観念が欠けています。著者は、「政府からの呼びかけのテレビコマーシャルなどでは、ビズー(頰と頰と合わせてチュッチュッと挨拶する)やハグ、握手はやめ、人との距離を取りましょう、手を洗いましょう、さらには、一回使ったティッシュは捨てましょう……などと呼びかけているのには、日頃の衛生観念とモラルの低さを感じさせます」と述べています。フランスでは一度使ったティッシュをポケットにしまって、また使う人が少なくないのです。

あるいは、フランス人が何より好むバカンスの期間に夜間の外出が禁止されると、「外出ができる地域に移動するか、もしくは家族や友人と家に集まって騒ぐのです」となってしまうわけです。

大人とは違う子どもという概念は誕生したのかもしれませんが、フランスの社会にはむしろ大人がいないのではないか。そんな気がしてきます。

■高校卒業時に待ち構えている通過儀礼「プロム」

それは、アメリカの社会にも共通して言えることではないでしょうか。

ただ、アメリカの場合には、一見すると、子どもと大人との区別に相当注意しているようにも思えます。

これは、アメリカのドラマ、物語を見ていて気づくことですが、grown upということばが重要なものとして出てくることがあります。たとえば、「ピーター・パン」では、ウェンディが母親にむかって、But, Mother, I don’t want to grow up.と言う場面が出てきます。「大人になんかなりたくない」というわけです。

あるいは、合唱の活動をするグリー・クラブを舞台にしたテレビ・ドラマの「グリー」には、シュースター先生が生徒たちにむかって、“We were all raised by different parents, but we grew up together in the Glee club.”と語りかける場面が出てきます。「皆親は違うけれど、グリー・クラブのなかで一緒に成長してきたじゃないか」というわけです。grown upは成長することであり、大人になるということなのです。

アメリカには、日本のような成人式はありませんが、高校を卒業する時点で「プロム」と呼ばれる行事が待ち構えています。プロムはプロムナードの略で、舞踏会を意味します。高校の卒業生は、正装し、カップルでプロムに参加します。プロムは、高校卒業を記念するとともに、大人になったことを確認する通過儀礼になっているのです。

■「子ども」=「大人に成りきっていない未熟な人」

プロムが重要なシーンとなっている映画に、「キャリー」という作品があります。これは、スティーブン・キングの小説を原作としたホラー映画ですが、プロムの仕組みがどうなっているか、そこに参加する若者たちがどういう気持ちを抱いているのかがよく分かります。もっとも、この映画のなかのプロムは、凄惨な結末を迎えることになるのですが。

日本の成人式に比較したとき、プロムの方がはるかに通過儀礼としての性格が鮮明に示されています。カップルでしか参加できないので、異性の相手を見つけなければなりません。その過程が試練となります。正装することも、普段とはまったく違う服装を身につけるわけですから、これもまた一つの試練です。

島田裕巳『いつまでも親がいる』(光文社新書)

試練を克服しなければならない通過儀礼が用意されているということは、それだけ、grown upであることがアメリカ社会のなかで重要視されていることを意味します。通過儀礼を経ることによって、若者は大人へと成長(grown up)するわけです。

アメリカ社会では、子どもと大人が明確に区別されている。この点からは、そのように考えることができます。

しかし、grown upということばの語感としては、子どもと大人が区別されているのではなく、成熟していない人間と成熟した人間とが区別されているように思えます。子どもというものは、大人に成りきっていない未熟な存在だという考え方が、その背後にあるわけです。

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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)