特集『セ・パの実力格差を多角的に考える』
第14回 野球に対する意識の差

 セ・パの実力格差を考える上で、ひとつの仮説を提示したい。

 <パ・リーグの野球は、イチローの出現によってレベルが上がった>

 今から27年前の1994年4月9日。オリックスの高卒3年目外野手、鈴木一朗が登録名をイチローに変えて開幕戦に2番・センターで出場。第3打席で同年の初安打を放つと、その後、驚異的なペースでヒットを量産していく。10月9日の最終戦でも2安打し、日本新記録のシーズン210安打を達成した。前年までの2年間は合計36安打の選手だった。


1994年から7年連続パ・リーグの首位打者に輝いたイチロー

 打率はパ・リーグ新記録の.385で、この94年から7年連続で首位打者を獲得。率は毎年3割4分以上で、出塁率は7年連続で4割を超えた。まして俊足、強肩で外野守備も鉄壁。野球は団体競技だが、これほど能力の高い個人が出現したら相手にとっては重大な脅威となり、個々に対策が不可欠になることでリーグ全体の野球レベルが上がったのではないか──。

 この大胆な仮説をもとに、オリックス時代のイチローと対戦した野球人に話を聞く。まずは、イチロー自身がライバルと認めていた同世代の黒木知宏氏。高校から社会人を経て95年にロッテに入団した黒木氏は、ルーキーイヤーから対戦を重ねていく。攻略法はあったのだろうか。

「まず、彼はストライクゾーンがボール1個分、広いんです。なので、そこを振らせるか、振らせないか、ということにはすごく神経を使いました。それと、アウトコースのやや高めはカットしにいくことが多いので、そこをどううまく使っていくか。勝負するうえですごく有効なポイントになるんですけど、何せ、彼の場合はそこに持っていくまでが大変で......」

 ストライクゾーンが広いだけに、ボールゾーンを有効に使う必要があった。基本的には、インコースの低めにしっかりとボール球を投げて、引っ張らせて凡打に打ち取る。そのためには対角線のアウトコースの高めを有効に使う。とくにルーキーの時は、そういう配球をするようにスコアラーから指示されていたという。

「3連戦の頭にミーティングがあります。そこで"要注意"のバッターたちを先乗りスコアラーから言われるんですけど、毎回、イチローは"要注意"バッターなんです(笑)。それで毎回『ここに投げないといけない』って言われるんだけど、なかなか投げ切れない。イチローの調子がいい時は、神経使って際どいところにボール球を投げても、反応なしに見送られますからね」

 もっとも、プロの投手として経験を積み、実績をつくるにつれて、対イチローで苦心するばかりではなかったろう。黒木氏自身、初の2ケタ勝利挙げた97年(12勝)、対戦成績は9打数2安打、打率.222。13勝で最多勝に輝いた98年は22打数8安打、打率.364だったが、14勝を挙げた99年は11打数2安打、打率.182と抑え込んでいる。

「何度も対戦するうち、おおよそ、ここに投げれば反応してくれるだろう。ここは絶対、投げちゃダメだ、ということがわかってきました。と同時に、イチローのタイミングを外したり、ずらしたり。そういう細工をしていったんです。あと、これは彼だけじゃないですけど、自分で工夫して、バッターになかなかボールを見せないフォームに変えていったり」

 力で抑え込むのではなく、制球力と、細工と、工夫で抑えていく。その点、百戦錬磨のベテラン投手はどう対していたのか。黄金期の西武でリリーフを務め、イチローが出現した94年はプロ16年目だった鹿取義隆氏に攻略法を聞く。

「出てきた頃のイチローは何十本もホームランを打つようなバッターじゃなかったので、ヒットならしょうがない、長打だけは気をつけろ。それが基本。で、長打を避けるためには、外の低めのボールでゴロならいい、という考えで投げる。長打の可能性が少ないところにボールを集めて、結果、ゴロで内野を抜かれてヒットになるなら納得がいく、と思ってたね」

 打ち取る、というよりは、得点につながるバッティングをさせない。ゴロを打たせることが得意だった鹿取氏ならではの考え方だろう。

「それで結果、イチローが出塁しても、ゲッツーの可能性があるからそれを狙ったり、二塁でフォースアウトを狙ったり。そうしてアウトを取っていかないと、とてもじゃないけど抑えられなかったね」

 ゲッツーの可能性、ということは、二遊間の守備隊形も気になるところだ。当時の西武でショートを守っていた田辺徳雄氏に聞く。

「まずイチローは足があって、内野安打があるので、当然、前進しています。けっこうショートにはボテボテのゴロが多かったので、何とかゴロアウトを取ろうと前に出る。そうすると外野との間が広くなるんですけど、そのゾーンに落とされたらしょうがない。守備範囲を広くして対応しようとすると内野安打が多くなるので、そこはもう捨てて、割り切って守っていましたね」

 広くなったゾーンに落とされたらしょうがない、という思いで、割り切って守る。そのような対処の仕方をする打者、イチロー以前にもいたのだろうか。

「いや、いなかったと思いますね。ですから、イチローが出てきて守るほうの意識は変わったでしょうし、他球団でもそうだったはずです。何しろ、彼を塁に出したら、足があるのでシングルヒットでもツーベースと一緒ですからね。だからこそ、まず出塁させないために、中途半端に守ってヒットゾーンを広げるんじゃなくて、割り切って前に出ていたんです」

 94年の西武はリーグ5連覇を達成した。それだけの常勝チームのディフェンスが、イチローのバッティングに対して「しょうがない」というスタンスを取っていた。現に当時の森祇晶監督も、「初めからイチローを封じようとするから苦しくなる。肝心なのは、彼の前にランナーを出さないこと」と語っている。

 この言葉は、ランナーなしでヒットなら「しょうがない」と言っているのと同じ。ヒットを打たれることが前提の、ある意味ではあきらめに近い考え方だろう。その点、黒木氏もそうした考え方になることはあったのだろうか。

「あきらめに近い感覚はありました。彼が3番を打っていて、ランナーが二塁にいたら、だいたいヒットで点が入っちゃうな、って考えるんですよ。もう、それだけでストレスなので、ランナーがいない状況でイチローが回ってくるように頑張るしかない(笑)。だから、いちばんストレスがかからないのは、2アウトランナーなしで彼を迎えることですね」

 当時の黒木投手に対して、イチローも「真っ向勝負してきてくれた投手」と絶賛していた。そんなライバルの言葉を、黒木氏はどう受け取ったのか。

「そう彼は言いますけど、僕がやってたことは姑息なんですよ。だいたいタイミングをずらずのもそうだし、ランナーに出たら出たで、いかにスタートを切らせないか、というところで、長く持つのか、早く投げるのか、その都度、変えて。そこまでしないと抑えられない、チームが勝てないな、と思っていましたし、そこまで特別に意識した選手は彼だけでした」

◆セ・パ投手の「差」はどうして生まれたのか>>

 ロッテのエースとして、チームの勝利のため、あらゆる手段を使ってイチローを抑えにいっていた。そこまで特別にマークし、常に真っ向勝負するスーパースターがいたことで、自身のレベルアップにつながる部分もあっただろう。

「お互いの誇りをかけて戦って、切磋琢磨していきながら、個々の力を上げていく、ということは確実にあったと思います。そうすると、チーム全体の能力も、組織力も上がっていくわけですが、いま思うと、世界一のバッターがパ・リーグにいたわけですよね。年間200本打つバッターなんていなかったわけですから。

 そのバッターをどう抑えようかって、僕だけじゃない、みんなが必死になった。でも、それでも打たれてしまう。どうしようかと、また必死になるわけですよね。その熱量が、イチローが出てきてからの7年間、パ・リーグにあったと思うんです」

<パ・リーグの野球は、イチローの出現によってレベルが上がった>。この大胆な仮説に対する黒木氏の見解が得られた。続いて、鹿取氏に聞く。

「相手5球団のバッテリーが何とかしようと考えたんだから......レベルは上がるよ。自分たちも彼を抑えることによって、自信を持って次のバッターを攻めることができたらかね。たぶん、どの球団もイチローを研究したと思うんだけど、その研究によって、ほかのバッターの攻略法が見えたところもあっただろうし」

 イチローを抑えることが、ほかの打者との勝負に向けて自信になっていた。ベテラン投手でさえそうだった、というところにイチローの特異性が感じられる。最後に田辺氏に聞く。

「スーパープレーを連発するひとりの選手が現れて、パ・リーグの若い選手には目指そうという意識があったと思います。そういった面で野球に対する意識が変わった部分もあっただろうし、リーグの野球レベルが上がることはあるんじゃないでしょうか」

 意識の変化も、レベルの向上も、そして熱量も、顕在化することは難しい。そういう意味では仮説の証明はできそうにないが、イチローに相対した野球人の見解を得た今、決して大胆な仮説ではなかったと思いたい。