いまから60年以上前に初飛行した航空自衛隊のT-1練習機。同機は日本が戦後初めて独自に開発した実用ジェット機でもあります。オーストラリア空軍も注目した「日の丸ジェット」の経緯を振り返ります。

YS-11や0系新幹線よりも早く生まれた日の丸機T-1

 航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)や所沢航空発祥記念館(埼玉県所沢市)には、赤と白に塗られた、まるで“こいのぼり”のような機体が展示されています。一見すると航空自衛隊が初めて装備したアメリカ製のジェット戦闘機F-86F「セイバー」にも似た機体、これは富士重工(現SUBARU)が開発した国産のジェット練習機「T-1」です。

 練習機のため、戦闘機と違って機関銃やミサイルなどを装備しておらず、派手な塗装とは裏腹に地味な任務の飛行機でしたが、実は戦後初の国産ジェット機として華々しく誕生し、半世紀近く日本の空を飛び続けた名機でもあります。しかも練習機として、その間3000人以上の航空自衛隊パイロットを育てたほか、オーストラリア空軍練習機の候補にもなった優秀機なのです。

 ある意味、航空自衛隊の初期を支えた“功労者”といえる機体を振り返ってみましょう。


2005年の小牧基地航空祭で展示された第5術科学校所属のT-1B練習機(リタイ屋の梅撮影)。

 T-1が初飛行したのは、今から60年以上前の1958(昭和33)年1月19日のこと。第2次世界大戦の敗戦によって1952(昭和27)年まで航空機の開発・設計を禁止された日本において、開発解禁から6年後に羽ばたきました。

 高度経済成長期における日本の技術力を象徴するものとして、0系新幹線(1964年登場)やYS-11旅客機(1962年初飛行)はよくスポットライトを浴びますが、T-1練習機はそれらよりも早く生まれています。

 T-1が誕生する端緒となったのは、航空自衛隊のパイロット教育課程でそれまで使用されていた米国製プロペラ機T-6「テキサン」練習機の旧式化が問題となったからでした。

 要は、T-6練習機の後継となる機体が要求されたのに合わせて、国産ジェット練習機の開発が決まったのです。これに対して、新明和興業(現・新明和工業)、川崎航空機(現・川崎重工)、そして前述の富士重工が手を挙げます。この3社でのコンペの結果、富士重工案が採用され、本格的に国産ジェット練習機の開発が動き出しました。

設計には「彩雲」やMiG-15の影響も

 とはいえ初号機の納入期限は2年後と、新型機の開発スケジュールとしては異例の短期間。富士重工の前身である中島飛行機は、第2次世界大戦中に日本初のジェット機として旧日本海軍向けの「橘花」を開発した経験があったものの、1940年代から1950年代にかけては航空技術の進歩は著しく早く、事実上ゼロから始めるようなものでした。

 このように富士重工にとっては大変なプロジェクトだったものの、国産ジェット機実現のため、国内各航空機メーカーと防衛庁が垣根を越えて協力したことで、見事開発に成功します。


航空自衛隊浜松広報館で展示されるT-6「テキサン」練習機。同機の後継としてT-1練習機は開発された(リタイ屋の梅撮影)。

 特筆すべきは、練習機としてはまだ採用例の少なかった後退翼を採り入れたことでしょう。このクラスの練習機としては非常に先進的で、その設計には朝鮮戦争で有名となったソ連のジェット戦闘機MiG-15を参考にしたという富士重工OBの述懐が残されています。

 加えて、機体設計には「我に追いつくグラマンなし」の通信文で有名な旧日本海軍の高速偵察機「彩雲」の技術も生かされたという話で、胴体に面影が見られます。

 なお、T-1にはA型とB型の2タイプあります。見た目ではほとんど区別できませんが、両者は搭載エンジンが大きく異なります。T-1は当初、エンジンも国内開発する予定で、まさに“純国産ジェット機”として生まれる予定でした。しかし、国産エンジンの開発に手間取ったことで、当初バックアップとして目されていたイギリス製「オルフュース」エンジンを載せ、量産することとなります。このタイプが「T-1A」として46機生産され、国産エンジンの目途が付いた1962(昭和37)年以降、石川島播磨重工(現IHI)製「J3」エンジンを載せて20機生産されたのが「T-1B」というわけです。

夢と消えた純国産ジェット機T-1の輸出バナシ

 T-1ジェット練習機の特徴は、大きく3つ挙げられます。それは「スリムで軽い胴体」「厚く頑丈な後退翼」「癖のない操縦性と安全な離着陸性能」で、まさに練習機向きの機体といえる性能を備えていました。

 T-1を用いた教育は1960(昭和35)年度からスタート。最初のころは故障が多かったものの、関係者の努力で改善されてからは好評で、後継のT-4ジェット練習機に交代する2000(平成12)年度までの40年間で約3000人のパイロットを育てました。

 そして2006(平成18)年3月、飛行開発実験団(岐阜基地)と第5術科学校(小牧基地)に残っていたT-1Bも全機引退。これによりT-1練習機は48年の運用に幕を閉じます。


どことなく旧日本軍機の面影があったT-1練習機(作画:リタイ屋の梅)。

 なお東京オリンピックの翌年1965(昭和40)年には、T-1に関して嬉しい知らせが舞い込んだこともありました。なんとオーストラリア空軍の練習機候補に選ばれたのです。この候補に挙がっていた他の機体は、イギリス製のホーカー「ナット」、スウェーデン製のサーブ105、カナダ製のカナディアCL-41、イタリア製のマッキMB326Hであり、その一角に含まれたことでT-1は世界水準の練習機として評価されたといえるでしょう。

 様々な要因から、最終的にはイタリア製のマッキMB326Hが選ばれたものの、T-1は非常に高評価だったようで、オーストラリア調査団が試乗した際には非公式ながらT-1の最高速度を更新する珍事もあったといいます。

 T-1は練習機という地味な機体ながら、航空自衛隊の主力戦闘機がF-86F、F-104、F-104、F-4、F-15と変わるなか、半世紀近く黙々とパイロットを育てた“名脇役”だったといえるのではないでしょうか。