蹴鞠はただの遊びじゃなかった!伝統的なしきたりと儀式的側面も併せ持つ不思議なスポーツ

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以前ラグビーと下鴨神社について記事を書きましたが、関連して蹴鞠の文化と伝統にも触れておこうと思います。

みなさん、蹴鞠というと貴族が数人ぐらいでポンポンと遊んでいるただの娯楽(失礼)だと思っていませんでしたか? 実は細かく決められた仕来りと流派などもある、儀式的な要素の高いイベントだったのです。

東海道之内京 大内蹴鞠之遊覧、文久3(国立国会図書館より)

蹴鞠の伝承

蹴鞠は今から4千年前に殷で天と地を仲介する雨ごいの儀式として発展したとのこと。日本へは1400年前に伝わり、中大兄皇子(のちの天智天皇〈626ー672年〉〉と藤原鎌足が飛鳥の法興寺(現在の飛鳥寺)で蹴ったのが最初とされています。

『日本書紀』巻二十四に記述があり、法興寺の木の下で、「中大兄皇子が毱(鞠)を打った際に、皇子の皮鞋が鞠とともに脱げ落ちたのを中臣鎌足が拾ったのがきっかけで、二人は親しくなった」というお話です。この二人がその後、大化の改新の成したのですから、凄い因果です。

蹴鞠の基本

烏帽子、鞠水干・鞠袴と呼ばれる専用の装束(階級によって色が異なる)を身に付けた貴族が6〜8名ほどで一座となり、鞠を足で蹴って地に落さないように蹴りつづけるもので、勝ち負けはありません。この勝敗が付かないというということから、平和を祈願する儀式的な側面も持っていたようです。

鞠は鹿の皮を2枚円形(直径30〜36cm)にして、毛を内側にしてなめし縫い合せたもので、直径は17〜18cm、重さ約150g程度です。この鞠が紐で二分されていることから、陰陽を表すとされています。

鞠を蹴る場所は「鞠庭・鞠場・鞠懸(まりがかり)」と呼び、広さは約14m四方で、四隅に、松(西北)・桜(東北)・柳(東南)・楓(西南)の木を植えます。これは「式木(しきぼく)」といって、後述する蹴鞠の精が宿るための依り代とされており、高さは4〜5mにして蹴り上げるときの目安にもしたようです。また、地中には壷を数か所埋めて、蹴った鞠の反響をよくする工夫も施されました。

蹴鞠之条々大概、飛鳥井雅康著(国立国会図書館より)蹴鞠の図(詳細不明、国立国会図書館より)

蹴り方、掛け声は「アリ、ヤ、オウ」

楊洲周延、明治30年(国立国会図書館より)

まず、鞠庭に出入りするところから作法があり、蹴鞠を開始する「上げ鞠」までに歩数や立ち位置など細かく決めれていました。

4隅の木の下に2人ずつ8人が立ち、松の下に立つ上足 (じょうそく) と呼ばれる熟練者から蹴りはじめて次々に渡していきます。外に出た鞠を中へ蹴り返す、野伏という役もいました。

鞠を蹴る時も姿勢が問われます。腰や膝を曲げず、足は足裏が見えない程度にしか振り上げてはなりません。要するに優雅さを求められたわけです。ということは、自分が鞠を受けられればいいわけではなく、相手の姿勢が崩れないようにうまく蹴ることが重要となります。また、かけ声は、「アリ」・「ヤ」・「オウ」と決められています。この掛け声は後述する蹴鞠の名人、藤原成通の見た幻視によるものです。

蹴鞠の名人が見た鞠の精霊とは?

平安時代に蹴鞠の名人とされた藤原成通(ふじわらのなりみち〈1097ー1162年〉)は、稀代の名人として「蹴聖」といわれています。

順徳天皇の『禁秘抄』の中では「末代の人の信じがたいほどの技芸」と記されており、清水の舞台の欄干の上を鞠を蹴りながら往復したり、従者の肩の上でリフティングしたなど、信じられない逸話が残っています。

菊池容斎 (武保) - 前賢故実 巻第6 (雲水無尽庵 1868)(Wikipediaより)

その成通があるとき千日間毎日練習を行うという誓いをたてます。そして成就したその日に顔は人間、手足は猿の姿をした鞠の精霊が3体現れ、その名前が「夏安林〈アリ〉、春陽花〈ヤウ〉、桃園〈オウ〉」だったため、その後の蹴鞠の掛け声になったといわれています。

蹴鞠の流派

蹴鞠の流派は難波・御子左・飛鳥井という、公家のなかでも御所に昇殿を許された「堂上家」と呼ばれる上流貴族のみでしたが、賀茂神社の神主など地下(じげ)と呼ばれる位のものたちによる流派も現れました。

下鴨神社では祭神の賀茂建角身命が金鵄八咫烏の化身であるとされ、そのため球技上達のご利益があるとされており、現在も1月4日に「蹴鞠初め」という行事が行われます。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルになっていることはいうまでもありません。

ちなみに藤原成通が上達祈願のため50回以上も通ったという熊野本宮大社も、神武天皇を導いたのが八咫烏であることから、球技の御利益ありとして崇められています。藤原成通は熊野本宮大社で、妙技「うしろ鞠」を奉納したと『古今著聞集』(巻十一)に書かれています。かかとで蹴り上げたのではないか、と推測されますが、実際どんな技だったのか興味は尽きません。

公家の流派のうち難波流・御子左流は衰退しましたが、飛鳥井流は徳川将軍家に家元として認定されたこともあり受け継がれました。明治になると天皇によって蹴鞠を保存するようにとの勅命があり、明治36年御下賜金をもとに蹴鞠保存会が創立され、飛鳥井家の屋敷跡にあたる白峯神宮が蹴鞠保存会の稽古場となっています。

いつか、神社での「蹴鞠はじめ」を見学しにいきたいものです。

参考サイト・文献:下鴨神社縁起、白峯神宮、熊野本宮大社など