女も男も抱きまくる!?愛され僧侶・一休さんとモデル「一休宗純」の差に驚愕!驚きの珍行動を紹介

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一休さん」と言えば、「数々のトンチ(頓智)で難題を愉快に解決する愛され僧侶」をイメージする人も多いはず。

ところが!

一休さんのモデルとなった臨済宗大徳寺派の僧侶「一休宗純(いっきゅうそうじゅん)」は、若い頃から仏教の戒律を無視し続ける、酒と肉、そして女と男が大好きな破戒僧だったのです…!

さてさて今回は、どうしてそんな破戒僧が、「一休咄(いっきゅうばなし)」や「アニメ一休さん」などで愛されキャラとして描かれてしまったのか、その謎に迫ります。

一休さん」とは

画像:イラストAC

まずは、私たちがよく知っている「愛され一休さん」の有名な説話についてみていきましょう。

室町幕府の3代目将軍、足利義満に「屏風に描かれたトラを退治するように」と言われ、「退治するために、まずはトラを屏風から出してほしい」と返して感服させたそうです。

また、「このはしわたるべからず」と書かれた立札のある橋も、「このはし(端)わたるべからず」と言い、堂々と橋の真ん中を渡ったと言われています。

このような説話に出てくる一休さんの臨機応変な知恵は、「トンチ(頓智)」と呼ばれ、一休さんのキャラクターとともに広く親しまれています。

…が!

これはあくまでも、お話のなかの「一休さん」。

紙本淡彩一休和尚像(Wikipediaより)

ここから先は、一休さんのモデルとなった破戒僧「一休宗純(以下、一休)」の驚きの珍行動の数々を紹介いたします。

来客の多い寺の住職を10日で放棄

ほかの僧侶から頼まれ、住職を務めていた一休は、来客の多さに仕事を10日で放棄したとも言われています。

しかも置手紙には、「煩悩が多くて耐えられない」などと仕事を途中で放棄することを堂々と記し、尋ねてくる場合には酒場で探すよう残していたというから驚きです。

正月にドクロを持って練り歩く

正月には、お墓から持ってきたドクロを杖につけて「ご用心、ご用心」と各家を訪ね歩いたと言いますから、掘り返されたドクロもさぞ驚いたことでしょう。

女も男も抱きまくる

画像:写真AC

一休は、女性だけでなく男性も思いのままに抱きまくったそうで、自身の漢詩集「狂雲集」にも赤裸々に綴っています。

また、女郎の集まる遊郭へも出入りするなど、僧侶ならぬ破天荒ぶりを展開。

室町時代に実在したと言われる伝説的な遊女「地獄太夫」といくつもの歌を交わし、師弟関係まで結んだとされています。

お地蔵様に大量の小便

お地蔵様の開眼供養が終わったあと、なんと、お地蔵様の頭に大量の小便をかけて立ち去ったという説もあるなど、僧侶らしからぬ行動が多く見受けられます。

破戒僧の転機〜77歳で出会った盲目の美女「森女」〜

画像:写真AC

一休が77歳のとき、美女とされている盲目の女旅芸人「森女(しんじょ)」と出会い同棲、亡くなるまでの10年間をともに過ごしています。

この森女との出会いが一休に転機をもたらし、過激だった行動が穏やかになったとも。

また、81歳には大徳寺の住職となり、応仁の乱で焼失した大徳寺の伽藍を復興させるため、大阪「堺」の豪商たちにはたらきかけるなど尽力しました。

そして、京都府京都田辺市にある「一休寺(酬恩庵)」にて88歳の生涯を閉じています。

「愛され一休さん」ができるまで

「一休咄」は作者も不明のうえ、一休をモデルとした話のほか、ほかの僧侶たちの話なども一休さんに置きかえて描かれたものだと言われています。

そのため、驚きの珍行動をとっていた実像の「一休」とは大きな差ができ、愛されキャラの一休さんだけがひとり歩きをしてしまったのでしょう。

ですが、謙翁や華叟のもとでは熱心であったとの説もありますし、民衆との距離は近かったとも言われています。

大徳寺の伽藍を復興させるために私財を投げうって資金調達をしたと言われる尾和宗臨(おわそうりん)も、一休に参禅していました。

また、正月にドクロを持って各家を訪問したことやお地蔵様に小便をかけたことも、理由があってのことではないかという説もあります。

インパクトある破天荒な僧侶だったからこそ人々の記憶に残り、破戒僧であったこともまた、人々にとっては身近に感じられたのかもしれませんね。