古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った侍たち【後編】

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古来より処刑や晒し首の舞台とされてきた京都の「三条河原」。今回は【前編】に続き、三条河原に散った侍達をご紹介する。

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古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った侍たち【前編】

三条河原で処刑・晒し首となった代表的な人物

石田三成

豊臣家家臣として秀吉に仕えた戦国大名である石田三成。秀吉の死後、対立した徳川家康との間で関ヶ原の戦いが勃発する。善戦した三成率いる西軍であったが、味方の裏切りもあり家康率いる東軍に敗北。三成自身は捕縛された後に六条河原で斬首された。処刑後の首は、見せしめのために三条河原で晒し首となる。

小西行長

豊臣家家臣として秀吉に仕えた肥後国(現在の熊本県)の戦国大名。秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いでは、石田三成に加担し徳川家康と戦った。敗戦後に捕縛され、三成と共に六条河原で斬首。首は三条河原に晒された。

近藤勇

江戸時代末期の武士。幕末に京都周辺で活発化した尊王攘夷運動を弾圧するために結成された新撰組の局長を努めた。土方歳三や沖田総司と共に京都の治安維持に尽力。

三条河原に首が晒された近藤勇(Wikipediaより)

池田屋事件や禁門の変で活躍するも、新政府軍と旧幕府軍との間で起きた戊辰戦争で敗戦を重ね、千葉県の流山に屯集した。近藤たち隊士は会津を目指し進軍予定であったが、近藤は新政府軍によって捕縛。

1868年。板橋に存在した刑場で斬首。首は京都へ運ばれ三条河原で晒し首となった。

斬首と晒し首の歴史

斬首刑の歴史は古く、日本においては平安時代には武士に対する処遇として行われていた。戦国期の武士の間では切腹後の介錯として用いられたが、庶民に対する刑罰としては斬首のみとされた。

晒し首の慣習は平安時代から存在した。時代によって方法は異なるものの、一般的には斬首刑に処された人物の首を台の上に乗せ、数日間見せしめとして放置した。落とした首を辱めたり、携帯して市中を練り歩くこともあったという。

近藤勇 三条河原での晒し首の様子

三条河原では記録や記憶に残らない斬首や晒し首も多く存在したといわれる。現在の河原に掛かる三条大橋周辺は、近代的な整備が施され当時の面影を見ることはできない。

『東海道五十三次 三条大橋』 歌川広重筆