「THE ANSWER」の取材に応じた、元日本代表の岩政大樹氏【写真:(C) Yasuhiro TAKABA】

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「島の外に出るのが難しい」…生まれ育った山口・周防大島町町は高齢化率53%超の離島

 現役時代は、サッカーJ1において“常勝軍団”と呼ばれる鹿島アントラーズでプレーし、幾度となく優勝を経験した元日本代表DF岩政大樹氏が「THE ANSWER」の取材に応じ、自身の経験を語ってくれた。

 前後編でお届けする前編は「不利な環境の乗り越え方」。離島で生まれ育ったゆえに苦労したことは、本土との物理的な距離による移動の困難さと情報不足だった。サッカーを続けるためには島を出なければいけないような環境に生まれ育った岩政氏は、どうしてサッカーを続けることができたのだろうか。

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「将来の夢って何ですかね?」。大人たちは簡単に「夢を持て」と言うけれど、目に映る世界は美しい山と海しかなかった。両親はともに教師。定年退職を迎えた祖父母は農業を営んでいた。6人しかいなかった同級生の親は、派出所の駐在員やバスの運転手、商店の店主。現在のようにインターネットが普及していなかった離島では、将来の夢や目標を見つけることさえ簡単ではなかった。

 山口県周防大島町。瀬戸内海に浮かぶこの島は、瀬戸内の穏やかな海と連なる山々からなる。1万6000人ほどの人口に対し、65歳以上の高齢者の数は約半数。高齢化率は実に53パーセントを超える。日本全体の高齢化率が約28パーセントであることを考えれば、どれだけ高齢化が進んだ地域か理解できる。「昔、高齢者の割合が日本一だと聞いたことがあります。日本は高齢化率が世界1位なので、もしかしたら大島は世界一なんじゃないかって話をよくしていました。簡単に言えば、僕が生まれ育った島はそういう町です」。岩政氏は故郷について、そう説明した。

「今でこそ、IターンやUターンが増えており、インターネットがつながればどこででも生活できるという時代になってきましたけど、僕たちが子供の頃はやれることに制限がありました。だからサッカー少年たちも、中学でサッカーを続けられない現状があって、島の外に出ていく子も多かった。いろいろなものが足りない場所でもありましたね」

 1976年に開通した大島大橋によって、島は本土とつながっている。しかし、周防大島は瀬戸内海に浮かぶ島のなかで3番目に面積が大きく、橋に近い地域に住んでいる人たちは簡単に島を出ることができるが、そうではない人たちは島を出るのは容易ではなかった。岩政氏が住んでいた地域でも「自転車だと1時間。車でも、15分ほどかかっていた」という。さらに今でこそ橋を渡るのは無料だが、岩政氏が子供の頃は有料だったため、「島の外に出るのが、今よりも難しい時代だった」と振り返る。

 日用品は島の外にある柳井市で揃え、「家族の行事のようなもの」とたとえた月1回の家族での買い物は車で1時間ほどかかる岩国市か徳山市に出かけ、そこで洋服などを買ってもらった。そして、車で2時間ほどかかる広島までの遠出は、岩政少年にとって「1年に1度の一大イベント」だった。

島の子供たちがなかなかサッカーを続けられない理由とは

 岩政氏が子供の時、島に小学校が十数校、中学校は9校あったが、通っていた小学校にサッカーチームはなかった。しかし、母親が勤務していた隣町の小学校は島内では大きく、そこに大島スポーツ少年団があった。小学校のPTAの方が「お子さんがいらっしゃるなら、サッカーチームに入ったら?」と母親に加入を勧めてくれた。その時に初めてサッカーチームがあることを知った。それまでは「サッカーチームに入ってサッカーをするということ自体が、全く頭になかった」という。

「当時はインターネットもなかったし、情報がない時代だったので、ただ好きでサッカーボールを蹴っていた。1年に1度だけ、2月に大島の小学校対抗でサッカー大会があって、それに向けて、各小学校で即席のチームを作って、2か月ぐらい練習していた」

 岩政氏には、3つ上に兄がいる。岩政氏曰く「兄のほうが多才で、僕よりもサッカーがうまくてセンスがあった」。サッカーはボールと体があれば、どこででもできる。休みの日には校庭で、兄と一緒にボールを蹴って遊んだ。負けず嫌いだった岩政少年は、3歳年上の兄に対しても負けたくなかった。「体も大きいし、勝てるわけがないのに、毎日必死に兄に挑むのが僕のサッカーのスタートであり、ボールを蹴り始めるきっかけだった」。サッカーチームがなくとも、周りには自然とサッカーが好きになる環境が、岩政氏にはあった。

 しかし、兄が小学生の時には、隣町にサッカーチームがあるという情報が入ってこなかったため、兄はサッカーを始めることができなかった。「僕自身は、たまたま小学4年生の時に情報が入ったのでサッカーを始めることができました。そうしたら、プロになることができた、という不思議な縁です。でも多分、情報が入ったのが6年生の時だったら、僕はサッカーを始めていなかったと思います」。

 岩政氏がサッカーチームに入ると、同じ小学校の子どもたちもサッカーをやりたがった。しかし隣町まで通うには、バスで15分。練習が終わる頃にはもう帰るバスはなく、家族が車で迎えにきてくれなければ、自宅に帰ることはできない。そのため、通うことができず、サッカーを続けられない子もいた。

「僕の場合は、両親と祖父母が手伝ってくれて、毎日送り迎えをしてくれたことで続けることができました。でも、こんなこと、本土に住んでいたら考えなくて良かったわけですよね。自分が行きたいと思えば、自分で行けるし、練習が終われば、自分で帰ってくることもできる。そんな簡単なことでさえ、僕たちには難しかった。そういう環境だったんです」

 タイミング良く情報を得られたこと、そして送り迎えをしてくれた家族のサポートを受けて、岩政少年は小学4年生のときに晴れて大島スポーツ少年団の門を叩き、サッカーを始めた。

離島ならではの距離というネック 家族の協力で乗り越えた

 大島スポーツ少年団(以下、大島スポ少)での練習は水曜日、土曜日、日曜日。ただ、岩政氏がいた当時は少し特殊だったようで、大島スポ少として出場できる大会は同じ周東地区の大会のみ。2か月に1回開催される周東リーグと呼ばれるリーグ戦に参加するだけだった。次の県大会に出場するときには周東地区から1チーム、周東リーグで活躍している子供たちを集めた選抜チームのような周東FCというチームを作って出場していた。岩政氏は周りよりも少しだけ遅い、小学5年生の途中で声がかかり、周東FCの一員になった。

「今思えば、ようやっていたなと思いますね(苦笑)」と振り返る当時のトレーニングスケジュールは、火曜日が周東FC、水曜日が大島スポ少、木曜日が周東FC、そして土日は午前が周東FC、午後が大島スポ少という2部練習だった。

 岩政氏の場合、ただ2チームに所属していたことの大変さだけではなかった。周東FCの練習場は島外にあるため、車で片道40分の道のりだ。大島スポ少に通うのと同じく、家族の協力がなくてはサッカーを続けることはできなかった。

「小学校の授業が終わるタイミングで学校の駐車場におじいちゃんがトラックで待っていて、授業が終わったら、おじいちゃんが40分かけて島の外まで連れていってくれました。練習後は、仕事を終えた両親が迎えに来ていて、両親の車で自宅に帰る。今考えると、おじいちゃんは当時60代で、僕は送ってもらうだけだったけど、おじいちゃんは僕をおろしたあとに、また島に帰っていたわけですから。本当に家族の協力がなければ、サッカーを続けることはできませんでした。実際に、周りにはやりたい子もいたし、親を説得すると言っていた子もいたんですが、結局はできなかった。そういう意味では、僕は恵まれていたんだなと思います」

 離島で生まれ育ったというだけで、かかってしまう余分な負担。結果的にプロサッカー選手になったことで報われた部分も大きいが、家族にとっては、岩政少年に将来性を感じていたからこそのサポートだったのだろうか。その問いに、岩政氏は「子供がやりたいことをやらせてあげたいためだけにやってくれていたと思います」と否定した。

「当時からサッカーはうまくはないけど、運動能力はまあまああって、体は大きかった」。ディフェンスが安定しなければ試合には勝てない。当時の監督の方針で、運動能力の高い選手をセンターバックに置いた。そのため、岩政氏はサッカーを始めた当初からずっとセンターバックを任された。当時の立ち位置は、「大島スポ少では中心選手でしたけど、周東FCではギリギリレギュラーという感じ。周東FCでの中心選手は他にいて、僕は一番後ろから体を張って守って、声を出してチームを鼓舞することでチームに貢献していた」という。

 すでにこの頃には、現役時代の岩政大樹のプレースタイルが確立されていた。

得られる情報がないから、自分で考えるしかなかった

 ちょうどサッカーにのめりこみ始めた頃にドーハの悲劇が起きた。小学6年生のときにはJリーグが開幕し、当然のように影響を受けた。「カズ、かっこいいな。井原(正巳)さんみたいな選手になりたいな」。テレビに映るJリーガーが輝いて見えた。それでも「Jリーガーになろうとは思わなかった」と口にする。

 周東FCは県大会で6連覇するような強いチームだった。しかし、岩政氏は中心メンバーではなく、しかも「夢見る少年でもなかった」。

「都会の人には分からない感覚かもしれないですけど、夢って言われても現実味がなさすぎるんです。たとえば東京って言われても、どんなところか分からない。もう宇宙みたいなもので(笑)、全然手応えがない。人って、目に見えるものでいろいろなことが形作られていくと思うんですけど、目の前にあったのは山と海の大自然。仕事って言っても、漁師、商店、町役場、教師……くらいですからね。夢と言われても……という感じでした。だから周東FCに、キャプテンでチームの中心にいた選手がいたんですけど、そういう人がJリーガーになるのかな、くらいにしか思っていなかった。自分がJリーガーになりたいなんて、現実味がなさすぎて考えられなかった」

 確かに前例や指針がなければ、夢や目標を持つことは難しい。岩政氏も「ちょっとでも周りが『Jリーガーになれるかもよ』とか言ってくれていたら、本気になって目指していたのかもしれない」と吐露した。

 では、Jリーガーを目指していたわけではなかった岩政氏が、家族に送り迎えをしてもらってまでサッカーに打ち込んだ理由は何だったのか。それは、「試合に負けたくない」という究極の負けず嫌いだったから。普通の子供ならば、自身のサッカースキルを磨くことを考え、それが向上しなければ諦めてしまうことが多い。しかし、岩政少年は違った。ボール扱い、テクニック、スピードといったサッカーの才能が自分にないことを認め、そのうえで「じゃあ、どうしようか?」と早々に意識を切り替えた。

「どうやって勝とうかをずっと考えていましたね。島のチームなので、選手も揃っていないし、弱いのは分かっている。今でこそ、“デザイン”という言葉を使いますが、当時から『この試合をどうデザインすればいいんだろう?』というのは考えていました。25分ハーフの前後半50分で、どうやって勝ち切って試合を終わらせるのか。チームメートへの声掛けのトーンを試合のなかでアップダウンさせてコントロールしたり、相手チームに対しても、今どんな言葉を発したら動揺して緩ませることができるのかを考えたり。そういったことを当たり前に考えてプレーしていました」

 サッカーを始めたばかりの小学生が、大人顔負けの思考力でプレーしていたことは驚きだが、自身の頭で考えるようになったのは、離島ゆえのことだった。

「島は本当に情報がなくて(苦笑)。本屋さんもないし、当時はまだインターネットも普及していなかったし、山口県はなぜかテレビのチャンネル数も2つぐらいしかなくて(笑)。だから得られる情報がなかった。ないから、得ようとは思っていなかったんでしょうね。だから自分で考えるしかなかった」

 どうやって試合に勝つんだろう? そんな素朴で壮大な疑問を入り口にして、目の前に広がる山や海を眺めながら岩政少年は何時間もサッカーのことを考えて過ごした。生まれ育った環境を変えることは難しい。それでも、離島で過ごした時間と経験がプロサッカー選手・岩政大樹を形作ったように、考え方ひとつで、道を切り拓くことはできるのかもしれない。

■岩政大樹(いわまさ・だいき)

 1982年1月30日、山口県生まれ。山口県立岩国高校を卒業後、一般入試で東京学芸大学に入学。大学卒業後に鹿島アントラーズに加入した。プロ1年目からセンターバックとして出場を重ね、シーズン後半にはスタメンに定着。在籍した10年間で、リーグ優勝(3回)、Jリーグカップ優勝(2回)、天皇杯優勝(2回)、ゼロックススーパーカップ優勝(2回)など“常勝軍団”の一員として活躍した。その後、タイリーグのBECテロ・サーサナFC、ファジアーノ岡山、東京ユナイテッドFCを経て、2018年に現役を引退。現在は上武大学サッカー部監督として指導者の道を歩み始めている。(THE ANSWER編集部)