2ちゃん創設者が訴える「お金教育」の必要性
日本の学校教育が社会に出ても役立つようになるには、どんなカリキュラムが必要でしょうか(写真:tadamichi/PIXTA)
インターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」創設者でコメンテーターとしても活躍するひろゆき氏が『叩かれるから今まで黙っておいた「世の中の真実」』を上梓しました。
同書では社会・仕事・教育・政治・人間関係について、忖度抜きで持論を展開しています。本稿では、その一部を抜粋しお届けします。
大事な大事な「お金」教育がない
学校で何を教えるべきなのか。ネット上でもたびたび議論になっていますが、僕は何よりもまず「お金の教育」が必要だと考えています。子どものうちにお金のことをほとんど学ばないまま社会に出ると、取り返しのつかない失敗をしてしまう危険性があるからです。
全国の消費生活センターなどには「多重債務に関する相談」が1カ月当たりおよそ2000から3000件も寄せられています。その中には、自分のことではなく、夫や娘など家族についての相談も含まれています。相談内容の多くが、消費者金融からの借り入れ、クレジットカードローン、銀行カードローンなどがたまって支払いができなくなったというものです。
僕がとくに問題だなと思うのは、クレジットカードや銀行カードのローンです。消費者金融であれば、「利用するのはちょっと危険」と感じる人が多いでしょうが、カードローンはそうではありません。クレジットカード会社や銀行など、立派なところが「貸してあげますよ」と言ってくると安心してしまうでしょう。
国内銀行のカードローン残高を見ると、2006年には「3兆4335億円」だったのに対し、2017年には「5兆8186億円」と約1.7倍まで増加しています。しかし、これらの利率たるや約15%と、消費者金融となんら変わりません。軽い気持ちで借りていたら、いつのまにか返済が追いつかなくなる。2000件以上にも上る多重債務者の相談件数は、借金の仕組みを理解していない人がたくさんいることを示しているのでしょう。
さらに多くの人がはまっているのが、クレジットカードのリボ払いです。リボ払いは、支払額を毎月一定額に固定し、利子と共に返済していく方法です。例えば、30万円のブランドバッグを購入したときに、一括払いにすれば翌月には銀行口座から30万円引き出されてしまいます。当然のことながら、30万円以上口座に残っていなければ買えません。
一方、リボ払いで毎月1万円ずつ支払うという設定にすれば口座に1万円以上あるだけでいいので、ずいぶん楽に感じます。ところが、ここに大きな落とし穴があります。1万円を30カ月支払えば終わりというわけではありません。そこに金利分が乗るので(利率15%で計算した場合5万8000円)、約6カ月分、余計に支払わなければなりません。
要するに、リボ払いにすることで30万円のものを35万8000円で購入しているわけです。支払っている本人は毎月1万円を返済し続けているだけで、合計の返済金額まできちんと把握していないのでしょう。一方、クレジットカード会社は得をします。1回払いよりもリボ払いを選んでくれたほうが利息分が入ってきて儲かるので、クレジットカード会社は、あらゆる手を使ってすすめてきます。
そうした誘惑に加え、「毎月1万円で済む」という油断から、多くの人が最初の支払いを終えないうちにほかの買い物についてもリボ払いにします。そして、どんどん毎月の支払額が膨らんでいき、いつまで経っても支払いが終了しないどころか、自己破産に陥るケースも多々あります。
金利で儲ける手法は昔からある
こうしたサービスは珍しくなく、古くは某小売店のキャッシングローン、最近だと某ECサイトのツケ払いなどがありました。どちらも、目先の支払い額を少なくして、金利分で儲けるという手法は同じです。リボ払いなどもその典型です。貯金がなく、生活に余裕がない人ほど、リボ払いに手を出してはいけないことに気づかなくてはいけないのです。
僕自身は無駄遣いがとにかく嫌いで、自販機でジュースを買うのも抵抗があるぐらいです。お金がないわけではありませんが、必要のない出費はなるだけ避けるようにしています。僕からしてみると、それほど稼ぎが多くないのに、飲み会の帰りにすぐタクシーを使うような人の金銭感覚が理解できません。きちんとお金について学んだり、考えたりする機会がなかったのかなと思ってしまいます。
ただ、それも仕方のないことなのかもしれません。「お金の教育」は学校で行われていないからです。せいぜい、小学校で「お小遣いは大切に使いましょう」と言われるくらいでしょう。お金の使い方1つで、僕らは幸福にも不幸にもなれます。子どもが将来、幸せに生きられるためにするのが教育だとしたら、お金のことは絶対に教えておかなければならないことのはずです。
しかしながら日本では、「お金について話すことはいやらしい」という感覚が浸透してしまっています。“純粋な”子どもたちに、“神聖な”学校で、お金の話はふさわしくないと考えられているのでしょう。でも、それにより、若者がお金に対するリテラシーがほとんどないまま社会に出て、「多重債務」や「自己破産」に陥っているのです。
必要なことは「学校以外」で学べる
ここ数年、「学校以外」の学びの場を活用している人が結果を出す事例が相次いでいます。ケニアに、ジュリアス・イエゴというやり投げの選手がいます。彼は、自国にやり投げの優れた指導者がいないからとYouTubeで情報を探し、独学で金メダルを取れるまでになりました。
日本でも、BCリーグの球団からドラフト指名を受けた杉浦健二郎さんは、高校で野球をやっていなかったにもかかわらず、大学に入ってからYouTubeで投球技術を学び、150キロの豪速球を投げられるようになったそうです。
このように、「自分にとって何が必要か」が明確にわかっていれば、インターネットはすばらしい学びの場となります。もっと身近なテーマでも同様です。「ネクタイをかっこよく結びたい」 「時短でカレーをつくりたい」 「スナップボタンを付け替えたい」 「ヨガの弓のポーズが知りたい」 などこうしたニーズがはっきりしていて、自分なりに取捨選択ができることであれば、必要な情報はすべてインターネットで手に入ると言っても過言ではありません。
ただ、探している情報に要領よく行き着くためには検索力が大事。これからの時代、自分で必要な情報やデータを集められるというのは非常に重要なスキルになってきます。ところが、日本の教育ではおよそ検索力は身に付きません。というのも、暗記力ばかりが問われているからです。
しかし今の時代、暗記しなければいけないことはそれほど多くありません。友人や家族の電話番号ですら覚えている人は少ないでしょう。歴史的事件が起きた年号など、皆いろいろ覚えさせられたはずですが、例えば「大化の改新がいつだったか」が、大人になってから重要な議題に挙がることなどまずありません。百歩譲って議題に挙がったら、その場で検索すればいいのです。
「ペーパーテストの結果」だけを重視する教育現場
僕は日本とアメリカの両方で大学に通いました。日本の大学では、成績を決めるのはペーパーテストが大半です。ペーパーテストでいい点数を取るためには暗記が必要になります。一方、アメリカではレポート中心。研究テーマと、参考にすべき本のジャンルなどが提示されるだけなので、必然的に資料を探し出す能力が鍛えられました。
大学に限らず、教育現場では、教える側もその能力が評価されます。そして、とくに日本の場合、「教える能力」の評価基準は「生徒の成績」に置かれます。全国の小中学校を対象に、年に1回、学力・学習状況調査が行われていますが、各県ともこのテストでいい結果を出そうと躍起になっています。毎年、調査結果が発表されると、ニュース番組などで、「1位は〇〇県、最下位は△△県!」と大げさに報じられるからです。
生徒の成績が数字として表れてくるのでわかりやすいというメリットはありますが、それだけを重視していると、「テストでいい点を取らせる」ことが至上命題になってしまいます。本当であれば、「その子の人生でどれだけ役立つことを教えられたか」に着目すべきです。
ペーパーテストの結果というのは、その一要素にすぎません。でも、現状の受験システムや評価制度では、テストでいい点を取るための勉強に偏らざるをえないのです。
突然ですが、1つ質問です。マクドナルドのビッグマックのバンズには、パラパラとゴマが振ってありますが、そのゴマは何粒くらいでしょう? 答えは約350粒です。300粒でも400粒でもなく350粒なのだそうです。
しかし、多くの人がマクドナルドに期待しているのは、商品をスピーディーに出してくれること。そのゴマが330粒だろうと、360粒だろうと文句は言いません。というか、誰もゴマの数なんて気にしていません。逆に、「正しく数えてから渡そう」などという店員がいたら、お客はしびれを切らして帰ってしまうでしょう。つまらない完璧主義は迷惑なのです。
実は、こうしたことはどんなビジネスにも言えます。Facebookの創業者であるマーク・ザッカーバーグの「Done is better than perfect(完璧を目指すよりまず終わらせろ)」という言葉は有名です。彼のような成功者は、完璧を目指していつまでもこねくり回していることを嫌います。それよりも、70%くらい仕上がったところで一度、リリースしてしまい、不具合があればその都度、対応していけばいいと考えています。
そもそも「完成形」があるという考え方自体がナンセンスです。どんなに周到に準備したところで、どこかにほころびが出てきます。ありもしない完璧を追い求めるより、まずは70%の出来でよしとするほうが効率的なのです。ソニーは、2020年の6月にPS4のバグを発見した人に500万円以上の賞金を出すプログラムをスタートしました。このように、最近ではユーザー側に不具合を探してもらう動きまであります。
「社会」と「学校」の間のギャップが問題
教育も同様で、「70点でいい」という考え方を浸透させていくべきだと思います。アメリカでは、あまりよくわかっていない子どもも、どんどん意見を言います。何か足りないところを指摘されたら、そこを改善していけばいいという考えです。だから、結果的に子どもは自分に自信が持てるし、伸び伸びと育ちます。
一方で、日本には完璧を求める文化があります。子どもたちは間違えることを恥ずかしいことだと思っているので、よほど確信がなければ、意見を出してくれません。たとえ、正解がないような問いに対してでも、先生の顔色をうかがって、「いちばん褒められそうな意見」を探ろうとします。すると、ごく一部の優秀な子どもたち以外は、成功体験を積むことができないので、なかなか自己肯定感が高まりません。
このあたり、大人たちの意識改革が必要だと僕は思っています。ビジネスの現場では、「早く提出しろ」と言われた書類は、早く提出してこそ意味があります。同じ内容なら、誤字はあるけれど5分で提出できた人は、間違いをなくすことにこだわって1時間かかった人より評価されます。
ましてや、「その文字を正しく書いていたか」などということはまず問われません。それなのに、子どもたちは「漢字の書き順」を厳しく指導されます。学校ではずっと細かい部分を見られ、完璧を求められていたのに、社会に出て突然7割の出来でもいいからたくさんアウトプットをしろと言われるのですから、ギャップに戸惑ってしまうのは当然です。
学校を「就職予備校」のようにする必要はありませんが、もう少し、社会で求められる力をつけられるようなカリキュラムや評価基準を導入してはどうかと思います。