歌舞伎町はいつからホストクラブの街になったのか(写真:Ryuji/PIXTA)

コロナ禍では感染の震源地として攻撃の対象となったアジア最大の歓楽街、歌舞伎町。そしてなかでもホストクラブが最大の標的だった。しかし、このとき初めて歌舞伎町にこれほどホストクラブが存在することを知った人も多かったのではないか。歌舞伎町で23年間生きる元カリスマホストの名物経営者が著した『新宿・歌舞伎町 人はなぜ<夜の街>を求めるのか』より、新宿・歌舞伎町ホストクラブの知られざる裏側をお届けする。

ホストクラブの歴史

ホストクラブの起源は1965年の東京駅八重洲口にできた「ナイト東京」で、女性客の社交ダンスの相手をするのがホストの始まりと言われている。社交ダンスの雰囲気を残しながら現在に通じるホストクラブの基礎を作ったのは紛れもなく1971年に愛田武氏が歌舞伎町に作った「クラブ愛」だろう。そこからホストクラブの中心は歌舞伎町になっていく。

80年代は愛田氏の経営する愛田観光の天下だったが、同様に社交ダンスができる大箱店が7軒ほどあった。まさに漫画『ジ・ゴ・ロ』のような世界だったのだろう。

1980年代になり若いお客様も増えていき、私がホストを始める1990年代にはバブル崩壊の煽りを受けた男性向けのクラブなどが家賃を軽減するために、営業終了後の深夜にまた貸しで女性向けのクラブを始めたのが、ダンスフロアがないホストクラブが増えていった経緯だ。

1990年代には愛田観光以外でダンスフロアがあるホストクラブは2、3軒しかなくなり、私がホストを始めた1997年にはホストクラブの主流は、深夜営業の20人程度のお客様しか入らない小さな店たちだった。愛田観光は年齢層が高いホストが働く店として別枠扱いだった。ネクタイ・スーツが必須で若い子が働きたくなるような雰囲気ではなかった。

その後、約20軒の若いホストを中心とした深夜営業の店がホストクラブの主流に変わり、お客様も仕事終わりの水商売や風俗の方が中心になっていく。この時期がホストクラブの大きな転換期だった。深夜のまた貸しという状況でホストクラブが乱立していけば当然秩序は乱れていった。

この時期のことは、石井光太『夢幻の街』に詳しい。

ホストのカッコよさは「漢らしさ」だった

当時のホストたちは「漢(おとこ)」だった。女を3歩下がってついてこさせる男がカッコいい。という文化だった。接客で楽しませる。というよりも、如何にモテる男でいるか? ということが価値基準だった。私が入店したお店の先輩たちも全員漢だった。

ある先輩に、3人バラバラのお客様を呼んで並んで座らせて、私に「接客してみろ」と言われたことがあった。3人ともお互いの顔は知っている。でもそれぞれがその先輩ホストのいちばんの女だと思っている。それを並ばせても3人のお客様は文句を言わなかった。私はただ1人で喋り続けた。

お店は売り上げを上げる建前の場所だった。「うらっぴき」という言葉が当たり前にあって、表向きは禁止されているが、たいがいのホストはうらっぴきをしていた。

つまり、お店以外で直接お客様に会ってお金を貰う。そして店を辞めてヒモになってしまう人もたくさんいた。新規でやってくるお客様は「枝」と呼ばれる元々のお客様の連れか、キャッチで捕まえてきたご新規さんのどちらかだった。『マンゾク』『ナイタイマガジン』という風俗誌にちょっとだけホストコーナーがあったが、それを見て来る人がごく稀にいた。

だからまずは、枝を連れてきてくれる幹のお客様に認められて枝を紹介して貰うことが大事だ。それはイコール、そのお客様が指名している先輩ホストに可愛がられることが大事という意味だった。というか、お客様は大体ホストの言うことを聞くので、先輩に好かれることのほうが大事だった。先輩に認められるとお客様にも認められるという図式だった。

そう言うとお客様はホストの言いなりの可哀想な搾取される女性たちのように聞こえるが、ほとんどの場合は逆だった。表向きはホストがカッコつけて女性を手玉に取っているように見えるが、その実、ただお客様に手の上で転がされているだけだったように思う。お店で見栄を張らせて貰っているだけだった。

今思うと、漢たちはみな、子どもだった。お客様の女性たちは粋でカッコいい女性ばかりだった。私は正直、先輩たちのお客様たちのおかげで新人時代を乗り切れたのだと思う。入店した日に初めて着かせてもらった席では緊張して何も話せなかった。お客様は私を品定めするように一瞥(いちべつ)して、ほかのホストたちと談笑していた。

黒髪が光る切れ長の大きな目をした1980年代のアイドルを大人にしたような雰囲気の女性だった。色白で一見か弱そうなのに、所作や態度は豪快な姐さんという感じ。タバコの煙を大きく吐く人だった。帰り際に「入店祝いね」と言ってサッと1万円札を渡してくれた。私のことなんて見えていないと思っていたので驚いた。

ホストクラブにやってくるお客様たち

お客様に職業を聞いてはいけない、ということを最初に教わった。性風俗で働いている人が多いから、風呂場に関わるような話、働いている夜の時間に放送しているテレビの話、さらにプライベートの話は基本的にしてはいけないと。じゃあ何を話せばいいのだろうか? と思ったが、目の前のライターについて話し始めればいいんだよ。と教わった。

当時、「フードル」と呼ばれるファッションヘルスで働いているアイドルのような美貌の人たちが風俗誌の表紙を飾っていた。ある風俗嬢を予約するために予約開始時間に電話が殺到しすぎて回線がパンクしたという話も聞いた。

職業を聞いてはいけないと言われていたので、最初の頃は誰がどんな仕事をしているのか? なんて想像もつかなかったし、先輩にも特に聞かなかった。だから毎日美人のお姐さん方とお話をするというのは非常に楽しかった。だんだんと慣れてきてお客様の仕事がわかるようになってから風俗で働いている人が多くて驚いた。

吉原で働いている人たちはひと際美しかった。遊郭の名残がまだあったのだろうか。品格も兼ね備えている人が多かったし、そうでなければ働けないような場所だったと思う。

個性豊かで、粋なお客様が多かった。ホストに騙されている可哀想な女性ではなかった。クラブのママさんが毎日のように仕事終わりに酔っぱらってやってきて若いホストに怒られていた。毎日コントを見せられているようだった。顔を腫らして「いつものことだから」と言って平気で飲んでいる姐さんもいた。

ストリッパーの方々は団体でいらっしゃることが多かった。上下関係が厳しく姐さんが飲みに行く店に後輩を連れて行く習わしがあった。地方公演が終わって東京に帰ってくるとまとめ飲みするように大人数で豪快に騒いで飲む。飲み方も勢いがあって私は苦手であまり近づかないようにしていた。

有名ストリッパーに指名されていることはホストとしての箔だった。同様にAV女優もそうだった。ストリッパーという職業は歌舞伎町では花形の仕事だった。ストリッパーの女性たちは飲むときも自信に満ち溢れていた。当時は深夜テレビなどに取り上げられることも多かった。

「図書館」によって免許剥奪に

現在、歌舞伎町にストリップ劇場は2軒しかない。その原因の1つが「図書館」である。新宿区役所には1階に本棚があるのだが、そこが「図書館」という名目らしい。図書館の半径200メートル以内では新しく風俗営業ができない。というルールがある。2017年、区役所の裏にある老舗のストリップ劇場が数回にわたる営業停止を受けて免許を剝奪された。そうなると、新しく免許を取り直して営業を再開することはできない。40年の歴史が幕を閉じた。


粋なお客様に支えられて、ホストたちは毎日遊びまわっていた。遊ぶことが仕事のように毎日先輩たちは遊んでいた。いや、先輩たちは毎日ではなかった。私たち新人ホストは、先輩たちに代わる代わる連れ出されるので、毎日遊んでいるのはわれわれ新人ホストだった。遊びという遊びを何から何までしたのではないだろうか。

しかし、そうやって先輩たちと遊びながら新人ホストは漢を学んでいく──と言われていた。実際に先輩の荷物を持つこと、先輩の行く先のドアを開けること、先輩の箸袋を開けること、タバコに火をつけること……つねに先輩の様子を窺い、先回りして気を使うことを教え込まれた。