写真右はアリペイとウィーチャット・ペイのロゴ。香港で11月1日撮影(写真:ロイター/Tyrone Siu)

米中貿易戦争により幕を開けた、国家が地政学的な目的のために経済を手段として使う「地経学」の時代。

コロナウイルス危機で先が見えない霧の中にいる今、独立したグローバルなシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)」の専門家が、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを、順次配信していく。

急成長「アリババ帝国」の一角

今年11月2日、中国で世界に注目された「事件」が起こった。金融史上最大、資金調達345億ドル(約3兆6000億円)、中国アント・グループ(アント)による上海、香港の株式同時上場が、中国の金融当局の意向により延期されたことだ。投資家に対する募集も終わり、2日後に株式上場を控えた中での出来事だ。前代未聞である。


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筆者はこの「事件」が中国の将来を象徴しているように感じた。

1社のデジタル金融企業がいとも簡単に3兆6000億円調達できるということは、資本市場が中国のデジタル社会の将来に確信をもっていることを意味する。同時に、大きなショックで受け止められたその上場延期については、中国当局の「政府の意に反する行為」に対する断固たる意志を感じる。

アントの上場延期は10月24日、「金融40人論壇」におけるジャック・マーの「政府批判」が引き金だ。われわれは「監督を恐れないが、古い方式の監督を恐れる」「中国にシステミックリスクがないのは基本的にシステムが存在しないからだ」など政府関係者の前で皮肉たっぷりに言い放った。なぜそこまで「大胆な」発言をしたのだろうか。

「デジタル革命」に沸く中国、これからどこへ行くのだろうか。そのことをアントが属するアリババ・グループ(アリババ)の成長過程を追いながら、考えてみたい。

アリババはC2C(淘宝)、B2C(天猫)などの電子商取引(EC)をコアに、物流、金融、クラウド、AI、半導体にまで急拡大したアジア最大級のプラットフォーマーだ。2019年の流通総額(GMV)は前年比19%増、約87兆円だ(岡野寿彦『中国デジタル・イノベーション』P.60)。このたび上海、香港同時上場を目指したアントはアリババから分社化した金融グループである。

急成長の秘訣は「問題解決」の理念をビジネスの中心に据え、デジタル技術を使って対消費者、対企業サービスの質をたゆまなく追求したことだ。日本でも知られる、オンライン決済「支付宝」(アリペイ)がその典型だ。

クレジットカードや中小企業の手形市場が未発達だった中国では、モノを売りたい個人や中小企業と消費者間の「決済」が商売のネックであった。売り手はモノを送っても「資金が回収できない」、買い手は代金を支払っても「モノが届かない」、アリペイは「第三者預託」(エクスクロー)の仕組みによりそれを解決した。

その後、アリペイの「安心」「簡易」「低コスト」の決済手段がテンセントのウィーチャットペイと競合する形で急速に全国に広がり、売買規模がさらに大きくなった。その莫大な集金力を背景に、金融投資商品を扱う「余額宝」、保険を扱う「相互宝」なども急成長、アントは世界最大といわれるフィンテックグループに生まれ変わる。

2014年には、アリババがニューヨーク証券取引所に上場、218億ドル(約2兆2700億円)を調達。同時に関連ビジネスの投資や買収を世界規模で加速させ、金融・コマーシャル・実業を含む巨大なエコシステム「アリババ帝国」が形成された。そのネットワークは広くアジアや日本にも進出し、「アリババ・モデル」の拡散が進んでいる。

2016年頃からは「データ・テクノロジー(DT)企業」を目指している。「これからのビジネスは『C2B』(消費者のニーズに基づき企業が製品やサービスを開発する)に変化する」とジャック・マー自身が予想したことを、AI・ビッグデータを活用し、実践している。そのため、開発研究に多額の投資をしている。

政府の役割は「放任」―「サポート」―「監督」

先日、清華大学公共管理学院院長江小涓の講演の映像に、多数のバイヤーとメーカーがC2Bプラットフォームにより迅速にマッチングされ、機械の部品が製造される情景が映った。これは裾野が広い製造業、高度な流通網、それをAIで操作するDT会社がそろう中国でなければできないことだ。まだ初歩的な段階とはいうものの、DT会社が活躍するにつれ、生産やサービスのスピードや質が変わり、中国の産業形態そのものが大きく変貌するのは時間の問題だ。

時代の先端を走るアリババ、このような中国のデジタル企業の大躍進に世界は「羨望」と「危惧」を抱いた。後述するが、複雑な思いは中国政府も同じだ。

このような中国のデジタル経済の急成長には、政府の方針に関係がある。政府は当初から明確な方針があったわけではないが、その時々のデジタル企業に対応する中で、「放任―サポート―監督」方針をとるようになった。

「放任」というのは、国が大きすぎて統一した手立てがなかったからだ。しかし、市場競争で勝ち進んできた企業には、地方政府は安い土地の払い下げ、幹部の所得税の部分免税など、多様な手段で優遇した。これらの企業は将来、仕事、人材、技術、税収を地方にもたらす大切な「成長株」で、間違ってもほかの都市に移らぬようにするためだ。筆者の知る限り、北京、上海、深圳など大都市も、度合いの差はあるものの何らかの「優遇策」をとっていた。

このたび上場延期になったアントは、地方政府のみならず、中央政府の恩恵を受けた口だ。アントの金融事業拡大の過程において既存の銀行や資産運用会社との競合が抜き差しならぬ状況になったとき、政府は調整を進め、最終的には「ネット金融」のライセンスを与えるなどして、アントを助けている。そこには国家指導層の「デジタル経済」の将来へ期待があったのは間違いない。金融ライセンスはアント・グループ成長のドライバーになり、そこから世界最大といわれるフィンテック会社が誕生することになる。

政府が「監督」に重みを持つように

しかし、企業が大きく力を持つようになると、政府は当然のように「監督」に重みを持つようになる。それが「国家」や「社会」を根底から振り動かす「第3の勢力」になる可能性があればなおさらだ。「アント上場延期事件」はその可能性に対し国の明確な態度であったと思う。

2019年から人民銀行はアリペイやウィーチャットペイなどに対し、チャージ資金の100%を中央銀行の当座預金口座に預金することを義務づけた。スマホ決済が巨大になるにつれ、それ自身が人民元の金融システム構造をいびつにし、中央銀行の通貨総量オペレーションなどの金融政策の実行を困難にしたためだ。これは政府にとっては金融安定化策だが、アントにすれば低コストの資金運用機会の喪失につながる。

最近、さらなる資本規制や金利上限規制を導入するとの「噂」が流れていた。それがジャック・マーの「政府批判」につながった可能性は高い。「ビッグデータ・アルゴリズムを活用したデジタル金融は担保をベースにした既存の銀行業務とはまったく違う」とジャック・マーは論壇で反論した。

同じ論壇の開幕スピーチで国家副主席の王岐山は、「近年、新しい金融技術が普及し、効率性や利便性が高まった一方で、金融リスクも拡大している」と警鐘を鳴らしていたが、企業の債務超過にあえぐ中国の金融市場、そのあおりで既存金融機関の再編が進む中、政府からすれば、これ以上デジタル金融の「創造的破壊」は見過ごすことはできないはずだ。ジャック・マーはアント株の実質50.5%保有する株主だ。マーの「政府批判」に、政府は「まだボロ儲けが足りないか!」「それならどうなるか、お見せしましょう」というのが本音ではないか。

だからと言って、中国政府はアントを潰さないだろう。すでにここまで成長したデジタル・エコシステムを潰すコストが高すぎるからだ。代わりに「手なずける」ようにすると思う。会社内の党組織をもって「規律正しい経営」を要求し、いざとなれば人事に手をつけることも可能だ。

アリペイやウィーチャットペイなど「電子決済」そのものに対しても、当局はいち早く手を打っている。海外では、中国のデジタル人民元による「ドル支配の打破」に関心が向いているが、人民元の為替と資本勘定の自由化が進まない限り、デジタル人民元だけでそれを実現することはできない。それよりも技術的に完全に「電子決済」にとって代わることができるため、デジタル人民元がアリペイのビジネスに影響を与える可能性は高い。当局が要求さえすれば、名称を変えずとも、アリペイを実質「デジタル人民元」に代え、中央銀行はアントの金の流れからビジネスの詳細を完全につかむことができるはずだ。

1つこの「事件」から見て取れたのは、ジャック・マーの見ていた夢は、中国政府の言う「中国の夢」とは違っていたということだろう。

政府の今までの「放任」―「サポート」―「監督」の基本方針は、プラットフォーマーの巨大化やデジタル社会の深化により曲がり角に来ている。「第3勢力」になりうるプラットフォーマーへの中国政府の対応が、今試されている。

「専横のリバイアサン」理論で説明できない

AI・ビッグデータを駆使する「デジタル革命」は、人類の社会形態を根本的に変える「技術革命」だ。その革命の中心の1つが中国であることは間違いない。

アセモグル&ロビンソンは「専横のリバイアサン」に深く入る中国では「継続的なイノベーションの創出は望めない」と言う。中国では「国家」の集権が強力である反面、それを牽制する「社会」の力が弱すぎるというのが理由だ。文脈にある「社会」の力が「弱い」との指摘は正しいと思う。しかし、目覚ましいほどの「デジタル経済の継続的イノベーション」が次々と起こる現状をどう説明するべきか。

中国の「経済的自由」は海外で思われているほど「狭くない」、とくにデジタル経済における「自由」は平均した「先進国」より、法制度の不備などもあり、かえって「旺盛」かもしれない。その「経済的自由」の中で、中国の若いハングリーな起業家たちは、膨大な社会の需要を前に、無限とも思える「創造力」「利益」「競争」に駆られ、チャレンジしている。それが中国の爆発的デジタル経済成長の源だ。

「国家」は自身の統治と発展のために、その「創造力」を取り込み、促し、あらゆる分野に利用している。少なくとも今までの中国が「国家」と「社会」を切磋琢磨させ、双方の能力を伸ばしながら経済力を強めてきた側面は否定できない。

当然、経済成長だけでは「社会」の力を強め、国民の安心、安全、幸福を実現することはできない。また、強くなればなるほど、「国家」の「専横のリバイアサン」を「おり」に閉じ込めことが難しくなるのも事実だ。過去の歴史から見る限り、その問題が今後も中国最大の難関であることには変わりない。問題はいつ転換点が起こるかだ。

中国の「デジタル未来」を正視する

中国の「デジタル未来」が地経学的にどんな意味があるかは正確にはわからない。

中国の軍事力の拡張が目覚ましい中、中国の「デジタル制覇」などが語られる。地政学的緊張が続く中、ハイテク技術のデファクト・スタンダードの競争が激化し、5Gや半導体等のデカップリングが進むのは間違いなさそうだ。ただし、どちらか一方が勝つことにはならないだろう。

アメリカではバイデン大統領が選ばれ、カーボンニュートラル、気候変動、感染症対策などで「人類共通課題」の解決にデジタル技術活用の可能性が指摘される。しかし、そこにも「誰の基準を使うか」というリーダーシップ争いの厳しい現実があり、各国の協力が保証されているわけではない。

ユヴァル・ノア・ハラリは著書『ホモ・デウス』で、「AI・デジタル革命」が世界経済を席巻すると、さまざまな経済階層で巨大な単位の仕事が消滅する危険性を指摘している。これは人類共通の最も切羽詰まった問題かもしれない。

「勝者の独占」「個人データの保護や利用」などの問題への各国の対応の違いも大きい。その対応の違いが、今後それぞれの社会を形成していくのも間違いない。

中国はこれらの問題にどう対応するだろうか。「アント上場延期事件」は今後の中国を連想させる。

(徳地立人/アジア・パシフィック・イニシアティブ シニアフェロー)