刑務所の看守などを務める刑務官。死刑判決を受けた受刑者などとも直接関わるこの仕事を、親子三代に渡って続けた一家がいる。その“三代目”である坂本敏夫氏が、向き合い続けた数々の昭和の受刑者たちについて連続インタビューに応じた。

【画像】死刑執行告知の瞬間を記録した録音テープの内容

 刑務所の現実を知る男が語った「犯罪者」たちの素顔とは――。


坂本敏夫氏 ©️文藝春秋

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「三代続いた刑務官一家」坂本敏夫とは何者なのか

 坂本敏夫は1947年生まれ、73歳。 出生地は熊本刑務所の官舎。生まれた時から刑務所の塀を見て育った。

 プロ野球選手を目指して法政大学の野球部に進むが、1年生のときに大阪刑務所管理部長だった父が自死したために、18歳で大学を中退して父の跡を継いだ。

 刑務官になったのは、父の死去により学費が払えなくなると同時に、家族が官舎を出なければならなくなったためである。坂本とその祖父、母、高校1年生の弟が路頭に迷うことを心配した父の同僚らが、坂本が刑務官になれば官舎を貸与できると、刑務官試験受験をすすめたことによる。

 その年の10月に刑務官試験受験。12月に合格発表があり、翌1月1日付で刑務官になった。こうした理由から、初任地は大阪刑務所だった。

 その後、神戸刑務所、長野刑務所、東京拘置所などで刑務官を27年と3ヵ月務め、1994年に広島拘置所総務部長を最後に退官。それから18年後の2012年にNPO法人を立ち上げると、その名前をこうせい舎とした。定款には、このようにある。

「犯罪と非行から立ち直ろうとする者の更生援助に関する事業、外国人の子弟及び混血児に対する差別や偏見を持たない真の国際化社会構築に関する事業を行う」

 言うまでもなく、こうせい舎の意味はすなわち更生させるための寓居である。坂本が年に3回発行する「こうせい通信新聞」には塀の中にいる受刑者たちからの投稿が溢れているのが特徴である。

 同紙は人生再建のための情報紙と銘打たれ、全国の刑務所に向けて発送されている。今年の5月30日号では、受刑者等専用求人誌「チャンス」の紹介に加え、服役囚が作った詩と短歌に対する作家寮美千子氏による講評がページを連ねている。寮氏が取り上げ、称賛したのは、こんな短歌だった。

「独房の 窓に太古の 星と逢い おろかを思い 心塞ぐ刻」HJ

 巻頭で坂本は、拘置所や刑務所がいっこうに新型コロナの対策をしようとしないことを指摘し、非難している。

「拘置所は三密そのものなのに、調べたら所長以下、所員は雑居房の密集を緩和させようとしないし、マスクの配布もしないという。受刑者が感染したら、どうなるのか。まったく危機感が無い。そしてそのこと自体をオープンにしない、この秘密主義。度し難いですよ」

 坂本は、刑務所内の処遇に対する問題すべてに声を上げる。大分刑MA生と名乗る人物は告発とも言えるこんな手紙を送ってきた。

「大分(刑務所)は今の所長になってから、厳しいことばかりが増えています。運動時間中のベンチ利用は同方向を向いて座ること。交談(おしゃべり)はベンチでのみ可。複数集まっての筋トレは禁止。筋トレ中交談したら規律違反で取調べ(調査)、下手すれば懲罰の対象に」

 これに対して坂本はページの中でこんな解説をしている。

「55年前の大分刑務所に逆戻りと思った。昭和41年監獄法令の大改正があり、原則交談禁止というジャパンプリズン特有の『沈黙の刑務所』に終止符がうたれた。また新聞閲覧などの一大処遇改善が行われた」

 当然読むであろう締め上げられている大分刑務所の服役囚に向けて、解放に向けての法的な裏付けを提供しているのだ。「刑務官時代にやりたかったことを今、行っているとも言えます」(坂本)

“囚人934人全員を一時解放”関東大震災の真実

 刑務官を辞して26年経つが、在任中から坂本の信念は一貫している。それは「どんな受刑者も更生を第一に考えて接するべきだ」というものである。

「私は幾度も死刑に立ち会って来ました。そこで多くの受刑者が悔い改めているのを見ました。死刑は廃止すべきです。やるべきは死に追いやることではなく、人間として再生させることです」

 祖父も父も刑務官という家系に育った坂本は、戦前、戦中の刑務所の実情を知る。

「戦後がすべて民主的になったかというと、そうではないのが、矯正施設です。これは所長によって大きく左右されるのです。かつて日本の刑務所には囚人を更生させるということが、大きな目的としてあった。大正時代には実際にそこに命を懸けた典獄(監獄官吏=現在の刑務所長)もいたのです」

 坂本は実在した横浜刑務所の典獄椎名通蔵の資料を30余年かけて渉猟し、子孫を訪ね歩き『典獄と934人のメロス』を著した。椎名は関東大震災(1923年9月1日)発生時に刑務所の建物が大火事の被害に遭うと、生き残った934人すべての囚人を一時解放する。依拠したのは監獄法であるが、リリースされた囚人は24時間以内に帰ってくることが義務付けられていた。果たして934人全員が戻って来た。その理由は椎名との深い絆にあった。椎名は1000人もの囚人の顔と名前を全て覚えて教育の機会を与え、対等な信頼関係を構築していたのだ。

「椎名典獄の行ったことはすべて真実なのですが、その後、解放措置を認めたくない法務省の勢力は、資料を廃棄し、『椎名が放った囚人たちは逃亡して横浜を荒らしまわって社会を混乱させた』などとまったく真逆のデマを流していました。私も刑務官に着任したら、そのように教えられていたのです。

 しかし、往時を知る所長は、獄舎に住む囚人も官舎に住む看守も皆、同じ家族だという考えでした。父が浦和刑務所の官舎にいたとき、私は小学校1年生でしたが、記憶にあるのは、映画を観るときも皆一緒なのです。受刑者の膝の上でアラカン(嵐寛寿郎)の『鞍馬天狗』を見たことを覚えています。

 官舎の引越しも今でこそ運送屋を使いますけど、昔は全部荷物の梱包から荷下ろしまで受刑者の手ですよ。家の修理にも来てくれたから、うちのおふくろなんか、囚人のことを『おじちゃんたち』と呼んでいました。管理と懲罰しか念頭に無い現在では考えられないことです」

死刑囚、検事、刑務官…全員が「死刑」と向き合った時代

 死刑囚に対する処遇もかつては極めて寛容なものであったという。

「昭和30年代くらいまでは、死刑囚ほぼ全員の恩赦の上申を刑務所所長名で必ずしていたんです。それが叶わず、恩赦の上申が却下されると、同時に執行命令が来る。で、所長室に呼んで、『残念だけど』という話をして告知をする。それから2日後に執行になります。今では執行の告知はまるでだまし討ちのように当日の朝です。そもそも恩赦の上申などしません。したら所長は飛ばされます」

 死刑執行の2日前に告知ということは、刑務官は48時間、独房の前で末期まで戒護することになる。職員も真剣に向き合っていた時代である。

「1955年に大阪拘置所の玉井策郎所長が、1人の死刑囚への告知から刑の執行に至るまでの会話を本人にも刑務官にも内緒で録音していました」坂本はそれを聴いている。「1日目、恩赦の却下と明後日の執行を所長が死刑囚に言い渡します。そして教誨師が来る。親族と面会。で、送別の茶会、これは死刑囚が集まってのお茶会です。そして2日目、俳句会をやり、親族との最後の面会。ここは涙声でした」

 3日目の執行日は、朝食を食べてお坊さんの勤行を受ける。それから、また死刑囚たちが送って、刑場に来る。それらの音が全部残っていた。坂本は言う。

「これは刑の執行と言うよりは、まさにおくりびとの世界ですよ。死刑囚は自分に死刑を求刑した検事と握手さえします。そこで検事も自分の下したジャッジを受け止めるのです。かつてはこれだけ大きな手続きをしていた。確かに半世紀以上前、私も大阪拘置所で初等科の研修を受けたときに、当時の所長が『拘置所の所長の仕事で一番大切なのは死刑囚との面接だ』と言っていました。しかし、もう今、死刑囚と面接する所長は居ないです」

 当時はICレコーダーどころか、カセットテープすらなく、オープンリールの時代である。かくも仰々しい仕込みまでしながら、玉井所長は、どんな思いで録音したのであろうか。

「玉井さんは、大阪拘置所に6年居て、25人の死刑執行をしているんです。そして異動内示が出た時にこれが最後となる今回は録っておかないといけないと考えたのです。死刑廃止の機運を盛り上げるためです。いずれ日本は死刑が廃止になるだろうし、そうならないといけない。昭和30年にこれが最後の貴重な資料だとして録られたのです。ところが、いまだに死刑制度は変わっていない」

刑務所はいつからおかしくなったのか

 当時は拘置所所長自らが、死刑制度の廃止を国会でも訴えていた。それでは一体いつから矯正施設はおかしくなったのか。

「1970年以前、大学紛争とか新宿騒擾とか、あの時代から刑務所がおかしくなりました。要するに、立派な所長が居なくなる。それから、昭和30年代後半から、省庁がキャリア採用を始めたんです。この人たちが刑務所を悪くした。キャリア官僚は受刑者を更生させるなんていうポリシーが全くなく、向き合おうとしません。所長も場合によっては1年で交代です。そんなトップは、自分の施設と思わないから、いい処遇などしないのです。死刑囚処遇も余計なことはするなと。そこで何人も人員を使うなら、その職員を警備に回せということで、死刑囚処遇がガタッと変わるのです」

 坂本は刑務所が悪くなる時代に居合わせた。更生というポリシーを持たぬキャリア官僚や上長とは対照的にそこでは数多くの受刑者と長く向き合って来た。誰もが名前を知る昭和の事件を起こした当事者たちもそこには含まれる。

 椎名典獄の真実を堀り起こした坂本は、それと同様に一般的に流通しているイメージとは異なる彼らの素顔を語りおろそうとしている。いささかの忸怩を持ちながら、それでも行う意義を信ずるのは、事実を差し出すことで、看守も囚人も家族と言った時代から、更生を放棄するようになった刑務所長、さらには死刑囚処遇の変遷に対するカウンターになりうるという思いからであった。

 第1回は永山則夫について。 

(木村 元彦)