芸能界屈指の食通で焼肉の達人である寺門ジモンが、その知見や探究力をすべて注いだ映画『フード・ラック! 食運』を企画、自ら映画監督を務める (撮影:今井康一)

ダチョウ倶楽部の寺門ジモンが映画監督デビューを果たした映画『フード・ラック! 食運』が11月20日より劇場公開されている。

焼肉を通じて母と息子のきずなを描き出した感動作だ。ジューシーな肉音や、匂いまでが伝わってくるかのような映像、人生をかけて肉と向き合う職人の技、最高においしい焼肉とは何なのかという探究心など、芸能界でも屈指の食通として知られる寺門ジモンならではのこだわりが全編に詰まっている。

そんな監督の本気度に応え、ダブル主演を務めるのは実生活でも肉好きを公言する、EXILE NAOTOと土屋太鳳。その他、りょう、石黒賢、寺脇康文、東ちづる、大泉洋、大和田伸也、竜雷太ら実力派俳優が映画を彩っている。

そこで今回は寺門ジモン監督に本作が生まれた経緯、多方面に活躍する彼の原動力となっている探究心などについて聞いた。

映画の世界にあこがれていた

――本作が映画監督デビューということですが、映画はお好きだったんですか。

僕はお笑い芸人をやる前は俳優養成所にいて演劇をやっていたんです。映画もすごく好きで映画の世界に憧れていたんです。でも劇団では芽が出なかった。当時はシティボーイズさんとか俳優出身の人たちがお笑い界に進出していた時代だったので、コント赤信号さんの劇団に入り、そこからお笑いで頑張っていきました。そこそこ売れてきて、ドラマや映画にもちょっとだけ出られるようになりましたが、だんだん“食べる”ほうの仕事も増えてきたんです。


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――ジモンさんといえば食ですからね。

食は昔から趣味だったんで、仕事が増えてからも食を追求していたんです。そんなあるとき、松竹の偉い方が僕の本を買って、「ジモンさんのオススメしているお店は全部、どこに行っても『また行こう』と思える常連になりたいなと思うような店ばかりだ」と言っていただいた。それで「一度会いたい」ということで、お会いすることになったんですが、そこで「映画を撮りませんか」という話になったんです。

――最初はドキュメンタリーでのオファーだったそうですね。

そうです。「肉のドキュメント映画を撮ってくれ」というお話だったんですが、僕はそれをお断りしたんです。元々テレビで「肉専門チャンネル」や「取材拒否の店」をやってきた僕にとって、「今、あるものをまとめてください」というようなことなので。それではモチベーションが湧かなかった。


「本当の焼肉映画を描きたい」と、食べることだけでなく職人への尊敬の念も込められた作品となっている ©2020 松竹

――確かにテレビ番組の延長になってしまいます。

すると。「断るだろう」くらいの気持ちで、「じゃ本を書きますか?」と来たんです。「えっ? 本ってどういうこと?」「松竹ですからストーリー性のあるもので」ということで、原作を書くことになった。

ただしその本を書いているうちにどんどん時間が経ってしまった。常に「企画が消えちゃうんじゃないか?」という中で、その炎を消さないようにやりとりをし続けていったら、映画を撮ることが実現できたというわけです。

――映画監督デビューが、メジャー系の全国公開作品というのもすごいなと思うのですが。

映画の扉を開けようと思ってこの世界に入ったわけですが、正面から入ろうとしたらその扉は絶対に開かなかったと思います。でも僕は違うところで人脈を作り、人間力をつくり、お笑いの仕事も一生懸命やって。業界の方、スポンサーの方などいろんな人と出会ってきた。映画以外のことをやったから、映画を作るというところまでいけたんだと思います。

何事も突き抜ければビジネスになる

――結果として蒔いていた種が花開いた。

そうです。でも僕はただ遊んでいただけなんですよ。やりたいことをやって、突き抜けただけ。黒澤明監督は、映画の構想を寝る時や、文章を書いていた時に泊まっていた石原っていう京都の旅館の親父さんに「突き抜けろ」と言っていたそうなんですよ。「変なヤツ」とか、「アイツはなんだ」と言われていても、何事も突き抜ければそれがビジネスになるんだと。

クワガタを採りに行く。世界中のお肉を食べ歩く。白トリュフを掘りに行くとか、普通の人がやらないことに興味を死ぬほど持つのは、探究心だと思いますね。時計が好きだから時計を勉強しにヨーロッパに行くとか、スニーカーを集めるために世界中を歩いてみたりとか。そんなところが重なっていくんですよ。

――まさに探究心だったということですね。

そのころに出会った若者が、いまや神と呼ばれるようなデザイナーになっていたりするわけです。「すぐにお金になる」ということで付き合いをする人たちにとっては、当時の彼らはおそらく周りが無視する人たちばかりですよ。でもその人たちが、立派な人間になっていった。それはレストランなど、食に関する世界でもそうです。今回、僕は食の映画を撮りましたが、そういう人間関係の積み重ねの中で撮らされたという感じなんです。

――日々の積み重ねが大事だと。

自分がやりたいと思ったことをずっとやり続けたら、自分の夢がかなっていたという。無理してお金をためて、それで映画を撮ったとしてもせいぜい東京で2館くらいでしか上映されないと思うんです。でも松竹の配給で約150館公開って大変なことじゃないですか。

――その規模で公開できるということは、やはりキャストが豪華だということもあると思います。

初監督の壁というものがあって、「この監督いいな」と思われていても有名な俳優さんはなかなか出てくれません。やはり実績がない人間の初メジャー監督作で、しかもオリジナルとなると絶対に動かないですね。何も担保がなければ、ギャンブルになりますから。


ジューシーな肉音や、匂いまでが伝わってくるかのような映像も作品の魅力のひとつ ©2020 松竹

――ジモンさんはその壁をいかにして超えたのでしょうか。

それが通った理由を一つだけ言います。「食」です。

例えば「美味しいもの会」にたまたま土屋太鳳さんとマネジャーさんがいらっしゃって、おいしいお肉を食べている時に僕が「これはこうで」と全部説明したら、「ジモンさんすごいですね。うわー、たまらない!」と返ってきた。

その時に「もし俺が肉映画を撮る時になったら出る?」と聞いたら、「当たり前じゃないですか。ねえマネジャー、出ますよね」なんて言っちゃう瞬間があるわけですよ。

食べ物がつないでくれたキャティング

――ジモンさんならではのキャスティングですね。

EXILEのNAOTOくんもそうですよ。京都の比良山荘というジビエの有名なところに食べに行った時にNAOTOくんもいたんですけど、NAOTOくんは「うわ、おいしい! 僕の食べ物の師匠はジモンさんです」と言いながら食べているわけです。

その時も「俺がたまたま映画を撮ることになったら出てくれる?」って聞くわけですよ。そうすると「師匠、当たり前じゃないですか」と返ってくる。そこで1個フラグが立ったわけですね。でも彼らはまさかその1年後、2年後に本当にオファーが来るなんて思っていないですよ。でも実際にオファーをした。そうしたら「出ます」って。

これは食べ物がつないでくれたんですよ。ワクワクすることは、仕事のしがらみを越えてくるんです。そういう奇跡を起こせる可能性があるから、ビジネスをやる時にも、相手をワクワクさせたら勝ちなんじゃないかなと思ったんです。

――この豪華なキャストも、ジモンさんのご縁のたまものということですね。

これはもう食べ物のおかげですよね。確かに僕は芸能人として「ちょっと面倒くさい」とか「ちょっと扱いにくい」という風に言われがちなんですが、ダチョウ倶楽部として入ったどんな現場でも、やることをちゃんとやりますし、礼儀正しくもしています。普通にしているだけで「意外にちゃんとしているじゃん」と言われたりするくらい。だから35年やれたわけです。

――先ほどの土屋さんやNAOTOさんへの「映画を撮ったら出てくれる?」という呼びかけを聞くと、常々「映画を作りたい」ということが頭にあったのかなと思ったのですが。

それはありましたね。ただ悲しい話ですが、今回の話が決まる前にも、自分で台本を書いた映画の企画がいくつかあって。結局実現せずに、つぶれた企画はいくつかありました。


ダブル主演のEXILE NAOTO、土屋太鳳のほか、りょう、石黒賢、寺脇康文、東ちづる、大泉洋、大和田伸也、竜雷太ら実力派俳優が結集しているのも作品の特長だ ©2020 松竹

――そういう企画を幾つかやっていく中で「いつかは、いつかは」と。

だから諦めずに考え続けていたということです。一度でも諦めたらもう絶対にダメですよ。本当に「映画詐欺?」と思うぐらい企画はたち消えてしまう。普通なら「こんなのやってられるか!」って絶対にやめてしまいますよ。

でも僕は平気なんですよ。ひとりでイタリアに行って、白トリュフを掘りに行く男ですよ。その間、仕事はなくなっちゃうけど行っちゃいますね。その無駄な時間というのは、無駄じゃないという確信を持っているから。だから松竹側も「本書けますか?」とは言ったものの本当に書いてくるとは思っていなかったと思う。そこで諦めずにドーンと持って行くと、「書いてきよった」みたいな感じですからね。

小学生から映画をつくっていた

――人によっては「本を書いてみませんか?」なんて言われても社交辞令に取ると思います。でもそこで本を持っていくのがジモンさんなんだろうなと。

それはもう天然ですよ。もしかしたら体のいい断りだったかもしれないですよね。でも僕は本が好きでたくさん読んでいるし、映画も好きで死ぬほど観ています。でも「映画のことなんか知らないでしょ」って思われる人もいると思うんですよ。でも僕はカット割りとかそういうことが昔から死ぬほど好きで、映画監督の何たるかとかいう本はもう本が曲がるほど読んでいた。

でもそれをまわりに言おうとは思っていなかった。やはり映画監督は、船乗りとして、船を無事に岸につけるために判断する人だから。もしかしたらボロボロかもしれないですけど、それでも時間内にきちっと。物理的に不可能なことは妥協をしなきゃいけないこともあるけど、それも含めた上で、この予算でこの人数で船をいかにしてたどり着かせるかというのも目標としてやっていました。

――先ほど映画にあこがれていて、映画を作りたいと思っていたというお話だったんですが、いつ頃からそういう思いがあったんですか。

それはもう小学校の時ですね。小学3年生くらいに親友と8ミリフィルムを回して映画を作りました。

――それはどんな映画だったんですか。

皆さん引くかもしれないですけど、『ゲロ』という映画で。その時代に売っていたレトルト食品を全部用意して。けんかをしてボンと戦ったら、ブワーっと吐く。そのアクションの中で吐くものがグリーンだったり、赤いものだったり。たまにはカメラを横にしたりして。

当時はブルース・リーとかああいうのが好きでしたからね。それからその友だちと毎日、学校に行く前に30分テープを回して。ラジオのDJみたいなことをやって。8ミリの映画を撮ったり、演劇部で活動したりもしていたので。やはり小さい頃から映画にあこがれはあったんでしょうね。

――本当に映画がお好きなんですね。それこそ47〜48年越しの夢がかなったということですね。

そうですね(笑)。ただ、映画監督になりたいという夢は、劇団テアトル・エコーという劇団で活動している時に何もかもなくなりました。演劇の世界に入った瞬間、子どもの頃ならあこがれの夢で済むようなことが、現実の夢になった。今日、目の前で生き残ることで精いっぱいになったわけです。この劇団で生き残る方法はなんだろうと考えた時に、それがお笑い芸人になるということだったんです。

――そこから違う道に進んで、自分のやりたいことをやっていったら、最初の夢にたどりついたと。そしてその夢を後押ししてくれたのが人付き合いだったという。ジモンさんはどのような人付き合いを心がけてきたのでしょうか。

基本的には、その人が今やっている行為は、時代とともにあるんですよ。その時にその人がどう考え、どう判断したかということで、信頼できる人かどうかわかる。その人への信頼感があれば長く付き合えるじゃないですか。合わない人は自分のまわりからは自然に消えています。それは肩書とか、お金を持っているかとかは関係ない。僕の中の精神的な喜びや楽しみにつながらない人は、いなくなっています。

それはそれでいいと思っています。僕が若いときに思っていたことは、例え「くそ!」と思ったり、誰かに嫌なことをされたとしても、「僕は刺さなくてもいい。誰かがこの人を刺すから」と思うようにしていました(笑)。

この人はこういう振る舞いなんだから、きっとどこかで誰かに刺されるだろうと。だから僕は、最後まで「頑張って」という感じですね。人生は短いんだからつまらないヤツに時間を使いたくないじゃないですか。来る者拒まず、去る者追わずじゃないですけど、その気持ちはずっとありますね。

成功しているお笑い芸人は考え方が宇宙人

――それは分かります。

僕はお笑い芸人なんで、いろんな方にお会いできる機会がたくさんあります。その中で感じるのは、成功している人たちって、お金から離れて考え方が宇宙人なんです。

そのときに自身が楽しめるか。ワクワクできるか。その人といる時間を大事にできるか……。時間という皆がもらった平等な価値を大切に使えるかということになっていくんですよ。お金持ちは、早くにお金が手に入るから、早くに哲学を持つんです。自分の残された時間で何をしようかということが見えてくる。僕は思うんですが、まわりの人を幸せにしたり、ちゃんと自分のまわりにいる人間のことを考えたりする人間は、必ず上にあがっている。確かに人を蹴落とした人も上がってきますよ。でもどこかで蹴落とされていますよ。悲しいですけどね(笑)。

――そうやっていろんな人を見てきたわけですね。

お笑い芸人さんのすごい人って、皆、怖い顔になったりするじゃないですか。政治家とか、どこかの親分みたいな顔になっていったりするのは、わかるんですね。

人間の心が見えるようになるんですよ。だから、この子はこう思っているんだろうなと。思っていることをそのままポンと言うんじゃなくて、こういうことを与えていくと気づいてくれるかなとか、そういうことをふっていくと、それと同じようなことが起きるようになるかなとか。

映画監督もそうなんです。現場でも、なんで演技について言ってくれないんだろうと思う役者さんもいたけど、「それは言うことじゃないです」と言っていた。そういう意味では逆に厳しかったのかもしれません。

セリフを覚えていない人は現場に来ないでくださいという空気が伝わっているんだよね。これはダチョウ倶楽部でやってきたことだから。現場に入る前にセリフを入れてくるのは当たり前じゃないかと。僕は舞台稽古のときに台本は頭に入っています、入ってないと失礼だし、演技というのはそこからの話ですから。商業映画の監督をやったのは初めてでしたが、そういうのも含めた上での経験値があったんですね。

本当の趣味は研究、探求、気づき

――ジモンさんの趣味は本当に多方面に広がっていますが、ジモンさんにとっての「好き」って何ですか。

研究、探求、気づきですね。気づきこそ命。人に気づかれないことを発見できる。何とか細胞を発見する先生とかとまったく同じ感性だと思います。お笑い芸人がこんなこと言ったら笑われるでしょうけど(笑)。

雪のなかに入っていて、1回も日光を浴びていない山菜がおいしいというのを見つけた瞬間がうれしいわけです。今日出会うご飯がおいしいか、おいしくないかって一期一会じゃないですか。季節、季節で変わるものだから毎日発見できるんです。

これはいつも言うんだけど「外を出た瞬間に雲を見なさい」と。毎日のルーティンがない人間に気づきはないんだと。ちゃんと同じ、決めた時間にランニングすると、自分の体の調子がわかる。景色を見て、今日はどんよりしているなとか。いつもと違うなと感じる。自分の決められた規則のような、きちっとしたものがないと駄目なんです。


寺門ジモン(てらかど・じもん)/1962年生まれ。肥後克広、寺門ジモン、上島竜兵によるお笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」のメンバー。1987年、第5回日本放送演芸大賞・ホープ賞を受賞し、1993年には「聞いてないよォ」で流行語大賞大衆部門 銀賞を獲得するなど、3人の息の合った芸風で一世を風靡する。バラエティ番組などで活躍する一方、グルメ好きが高じ、数々のグルメ番組に出演。食に関する書籍の出版、百貨店やイベントのプロデュースも手掛けており、芸能界屈指の食通として知られている。中でも、焼肉に強いこだわりを持ち、「家畜商」の免許を取得、2012年からは松阪市ブランド大使としても活動中。本作品が映画監督初作品となる(撮影:今井 康一)

――これからの時代、教育などの分野でも、探求力をいかに鍛えるかというのが求められています。

それこそ「ジモンに聞け」ですよ。これはもう趣味ですよね。いろいろとやっていますが、本当の趣味は探求力です。もう僕は探求力しかないんです。異常なほどです。突き抜けて変人と言われることはうれしいことですからね。

日本では、人と違うとか、変わってると言われることはまずいと言われますよね。でも(ダチョウ倶楽部の)竜ちゃん、肥後ちゃんと出て、「あいつだけちょっと変だ」と言われるのは僕にとってはうれしいことなんです。だから僕は早くから自分に色をつけた。ジモンはこういう人だということで損することもあったけど、得することも多かったんですよ。

――それで映画まで撮れたわけですからね。

肉が好きで、食べ物が好きで、それで映画まで撮れたなんていう人はなかなかいないので。それは本当にうれしいなと思いますね。

(文中一部敬称略)