天下人・豊臣秀吉にいたとされる4人の実子は本当か?現代まで残る風説を紹介【前編】

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低い身分の出生でありながら、天下人にまで上り詰めた戦国三英傑の一人「豊臣秀吉」。

秀吉は後継に恵まれず、晩年にもうけた待望の男児である豊臣秀頼を溺愛したというエピソードは有名だ。秀吉の実子については様々な憶測や流言が現代まで残っている。

今回は、天下人・豊臣秀吉の実子について検証してみたい。

4人いたとされる実子

正室の「高台院(こうだいいん)」との間に子ができなかった秀吉は養子をとった。関白となった「豊臣秀次」や、関ヶ原の戦いで西軍を裏切った「小早川秀秋」をはじめ、多くの養子がいたことが確認されている。

では実子はどうか。秀吉の子といえば、側室であり浅井三姉妹の長女「茶々(ちゃちゃ)」との間に生まれ、後に豊臣家の家督を継いだ「豊臣秀頼」を思い浮かべる人も多いだろう。

秀吉の長男とされる「豊臣秀勝(石松丸)」Wikipediaより

しかし、秀吉には他にも3人、合計4人の実子がいた可能性があるという。どの人物にも非実子説も根強く残っているが、以下にそれぞれの人物像をご紹介する。

 ̄柴秀勝(石松丸)

秀吉最初の実子であると考えられている。母親の詳細はわかっていないが、側室であったようだ。秀吉が長浜城主時代にできた子供らしく、幼名を「石松丸(いしまつまる)」といった。

秀吉が長浜城主となったのは1573年であり、秀吉の生誕を1537年とすると(諸説あリ)、30代中頃以降にできた子供という事になる。秀吉は子供の初名に「秀勝(ひでかつ)」と名付ける慣習があったようで、石松丸や後に迎え入れた養子たちにも同名を与えている。

死亡は1576年とされる。滋賀県長浜市に点在する寺には、石松丸と思われる供養塔や位牌が現存しており、死亡年の信憑性は高いと考えられているが誕生年は不明だ。秀吉が長浜城を築城した年から逆算すると、3歳から4歳で早世した計算になる。

⊇児

名前や生年月日などの詳細はわかっていない。母親は秀吉の側室であったとされる「南殿(みなみどの)」と考えられている。この人物は秀吉が長浜城主時代に迎えた側室の一人で、前述の石松丸も南殿の子供と考えられている。

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