2001年10月に東京ヴェルディに緊急加入し、チームを降格の危機から救ったエジムンド。約1年半で日本を去ったが、残したインパクトは絶大だった。(C)SOCCER DIGEST

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 日本でプレーした期間は約1年半と短かったが、創造性あふれるプレーと悪童ぶりで強烈な印象を残した。

 細かいタッチのドリブルで、マーカーを翻弄。スピード勝負でも、絶対に負けない。強烈なミドルシュートを叩き込むかと思えば、CBと競り合いながら泥臭いゴールも決めるーー。エジムンドは高度なテクニックを駆使する一方で、猛獣のような凄みを発揮した。

 これまで多くのブラジル人選手がJリーグでプレーしたが、才能の点では彼が一番かもしれない。

 リオ郊外の貧困家庭で育つ。9歳でヴァスコ・ダ・ガマのフットサルチームに入り、足技を磨く。14歳でU−15に加わり、20歳でデビューした。

 翌年、パウメイラスへ移籍。この年の5月、バイタルエリアでパスを受けると、ボールを浮かせてタックルをかわし、GKの頭上を越すループシュートを左上隅に放り込んだ。試合を中継していたTVの名物アナウンサーが、「奴はアニマルだ!」と連呼。以来、これが代名詞となった。ただし、当時は問題児のイメージはなく、「とてつもないプレーをする選手」というほどの意味だった。

 パウメイラスでは、低迷していた名門の攻撃の中心となり、2年連続でブラジル・リーグを制覇。サポーターを狂喜させ、英雄視された。

 一方で、対戦相手の選手を殴ったり、挑発して逆に殴られたり、チームメイトと言い争いをしたり、途中交代させられた際に監督を罵ったりと数々の問題を起こす。そのため、ニックネームが「野獣」の意味を帯びるようになった。

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 トラブルの極めつけは、フラメンゴ在籍中の1995年末、ナイトクラブから帰る途中の未明に自動車事故を起こし、3人を死なせたこと。実刑判決を受けたが、腕利きの弁護士のお陰で刑務所入りを免れた。以後、ピッチに立つ度に対戦相手のサポーターから「人殺し」となじられたが、平然とゴールを決め続けた。

 フィオレンティーナ在籍中の1999年には、チームが優勝争いの最中で、同僚のアルゼンチンFWバティストゥータが故障で離脱という非常時でありながら、カーニバルを楽しむため母国へ一時帰国。地元メディアとサポーターから総スカンを食らった。
 
 2001年10月、2部降格の危機に瀕していた東京ヴェルディに緊急入団。攻撃の中心としてチームを牽引し、奇跡的な残留の立役者となった。翌年はリーグ開幕前に故障と偽って母国へ戻り、カーニバルを楽しんできて序盤3試合を欠場したが、それでもチーム最多の16得点をあげた。

 2003年に浦和レッズへ移籍したが、規律を重んじるハンス・オフト監督と衝突。リーグ戦に全く出場しないまま、3月末に退団した。

 その後、ヴァスコダガマやパルメイラスなどでプレーした後、2008年、37歳で現役を引退した。

 2009年から、ブラジルのテレビの解説者を務める。当初は適性を疑う声が多かったが、以外にも勝負を分けたポイントなどを理路整然と解説し、視聴者からの評判は上々だ。
 
 2016年11月末、コパ・スダメリカーナ決勝のアトレティコ・ナシオナル(コロンビア)対シャペコエンセ(ブラジル)の試合を現地で解説する予定だったが、個人的な事情から辞退。シャペコエンセ選手団とブラジルメディアを乗せたチャーター便が墜落して乗客・乗員77人中71人死亡したが、彼は難を逃れた。

 波乱万丈の人生を振り返って、こう述懐する。

「これまで僕は、自分が思うことをそのまま口にし、行動してきた。そのせいで周囲と軋轢を生み、随分、失敗もした。でも、それをすべて含めて、自分の人生に誇りを持っている」

 日本で過ごした日々については、こう振り返る。

「全く異なる文化を経験し、素晴らしい人たちと知り合えたのは僕にとって貴重な財産だ。日本の人たちにとても感謝している」

 長所も短所も特大。ニックネームとは裏腹に、これほど人間臭い男は少ないだろう。

取材・文●沢田啓明