実況見分に立ち会う旧通産省工業技術院の飯塚幸三元院長(2019年6月、写真:共同通信)

2019年4月、東京・池袋で突然車が暴走して2人が死亡、9人が重軽傷を負った事故の初公判が2020年10月8日、東京地裁で開かれ、自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)罪に問われた旧通産省工業技術院の元院長、飯塚幸三被告(89歳)が起訴内容を否認し、弁護人も無罪を主張したことが波紋を呼んでいる。

被告から遺族に対する謝罪の言葉が述べられたものの、それとは裏腹に「アクセルペダルを踏み続けたことはないと記憶している」「車に何らかの異常が生じ、暴走した」などと過失を真っ向から否定したことが原因である。

この事件をめぐっては当初から「上級国民」というスラングで語られることが多かった。今回もそのおごりゆえに責任転嫁して罪を逃れようとしているとみて、マスメディアも国民もこぞってバッシングに加勢している。事故の直後に「逃亡、証拠隠滅の恐れがない」として逮捕されなかったことなどから、飯塚被告が元旧通産省の官僚で、大手企業の役員などを務め、勲章(瑞宝重光章)をもらっている人物=上級国民だからではないか、といった臆測がまるで事の真相であるかのように拡散されて以降、執拗なまでの個人攻撃が断続的に行われている状況にある。

異様なまでの関心と憎悪の裏にあるもの

飯塚被告はこれまでも「アクセルが戻らなかった」などと自身の過失を否定する発言を繰り返しており、およそ半年後の11月にテレビの取材に対し、「安全な車を開発するようにメーカーの方に心がけていただき、高齢者が安心して運転できるような、外出できるような世の中になってほしい」と語るなど、火に油を注ぐ事態をあえて作り出しているようなところがあった。

飯塚被告に対する世間の異様なまでの関心と憎悪には、恐らくある種の時代精神に対する反発が刻印されている。

それはわかりやすくいえば、正直に生きている者がかえって損をする、貧乏くじを引くような昨今の風潮であり、自らの利益のみを追求するがゆえに「嘘をつき通し、悪びれない」者が真っ先に出世し、経済的な成功を収める――いわば冷血漢のごときサイコパス的な人格で世渡りしたほうが生きやすい世界になっている現状への強烈な違和感である。


任意の事情聴取を終え、警視庁目白署を出る際は、杖をついて歩くのもやっとという状態だった(写真は2019年5月、写真:共同通信)

わたしたちはそのような殺伐とした時代を象徴するモンスターを飯塚被告に見いだしているのだ。もちろん飯塚被告が「本当にそう思い込んでいるのか」「わざと知らないふりをしているのか」は不明であり、ある意味で現代の悪を一身に負わされた虚像といえる。

しかし、わたしたちはマスメディアが流す情報の断片から、「厚顔無恥の勝利」といったモラルハザード(倫理の欠如)の腐臭を嗅ぎとっていることは間違いないだろう。だからこそこの事件が特別なものに思えるのであり、不快感や怒りの感情が沸き起こりやすいのである。

「嘘をついた者が勝ち」という時代精神の申し子

国政に目を転じると、安倍政権の7年8カ月の間に展開された数々の嘘、詭弁、隠蔽、改竄といった出来事がテレビなどで大々的に報道される一方で、それらへの批判を無視して自らの非を認めない態度を貫くことが、政権の存続だけではなく、この過酷な社会をサバイブするために不可欠な作法であるという隠されたメッセージがお茶の間にすっかり浸透していた。しかも、これは今なお進行中だ。上級国民とは、「嘘をついた者が勝ち」という時代精神の申し子であるだけでなく、まさしくこの政局の庶民的かつ悪趣味なパロディでもあったのである。

とはいえ、わたしたちの置かれた立場はもう少し複雑で、若干のアンビバレントを含んでいるかもしれない。特に自分の損得に敏感であればあるほど他人事で済ますことができない要素がある。何としてでも自らのポジションを守り抜きたい、組織内でしかるべき地位を得たい人々にとっては、このようなスルースキルは悪魔の囁きとなりうるからである。企業や官庁など自分が所属する狭義の集団しか見えていない人にとってはなおさらであろう。

例えば、累計30万部以上を売り上げたベストセラー『サイコパス』(文春新書)で、著者の中野信子氏が述べたサイコパスの特性「他人に批判されても痛みを感じない強み」は、タフなメンタルを持ちたいと思う人々には競争社会におけるアドバンテージに見えることだろう。P・T・エリオットは、『サイコパスのすすめ 人と社会を操作する闇の技術』(松田和也訳、青土社)で、「自己啓発ビジネスの『出世の仕方』部門の全ては、『普通の』人間がサイコパスのように行動することを可能とするようにデザインされている、とも言える」と喝破した。ここ10年だけでも「サイコパス的世渡り」は、効果的な生存戦略として頭角を現しつつあるのだ。

加えて、もう1つ重要な論点は、昨今少なくない人々が感じている「法が正しく機能していないのではないか」という疑念である。

歴史家のルネ・ジラールは、動物やヒトを神々に捧げる「供犠(きょうぎ)」を「法体系をもたない社会」における「暴力との戦いにおける予防手段」と捉えた。共同体の内部で生じる個々人間の争いや暴力、諍いを未然に防ぐために「いけにえ」が存在するというロジックだ。そして、供犠が失われた近代社会では、「法体系」がその役目を代行する「内的暴力の治療手段」であるとの見方を示した(ルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』古田幸男訳、法政大学出版局)。

この仮説を今のわたしたちの社会にあてはめてみると、まったく別の景色が浮かび上がってくることになる。

「法の機能していない社会」が出現したかのよう

池袋暴走事件で上級国民と表現される疑心暗鬼の背景にあったのは、現在の社会が嘘や不正が公然とまかり通る「法の機能不全」に陥っている可能性と、それがむしろ新しい規範として定着しつつあることへの危機意識だと思われる。

要は、犯罪者が特権的な地位を利用し、弁を弄して罪を逃れられる「法の機能していない社会」が出現したようなイメージである。これが実質的に「法体系をもたない社会」のようなカオス(混沌)として映り始めているとしたらどうだろうか。そうすると、いにしえの暴力の予防手段であった供犠が復活してもおかしくはない。

つまり、わたしたちの社会は、刑事司法制度に代表される法体系よりも、人身供犠を切実に必要とするフェーズへと部分的に回帰しているのである。この場合、供犠は治療と予防の2つを兼ね備えているとみていい。それがたとえ虚像であったとしても、社会的制裁の対象であると同時に、見せしめとしての「いけにえ」となるのだ。

不安の解消を求める心理的な自己防衛の結果として、「ゼロトレランス」(非寛容)なコミュニケーションが生じるのである。もはや法が役立たずになっていると思えるからこそ、法を超える刑罰と社会的な抹殺を実現する努力によって、悪夢のような時代精神の蔓延に歯止めを掛けようとする……。その際、「いいね!」を介した私刑(リンチ)の黙認は、社会統合の効力をも発揮する。

ただし、この熱狂は一時的なものであって、新旧メディアが上演する劇が終わってしまえば、途端に目の前から消え失せることもまた事実である。これを社会学者のジークムント・バウマンは「クローク型共同体」と呼んだ(『リキッド・モダニティ 液状化する社会』森田典正訳、大月書店)。スペクタクルの目撃者になっている間(クロークに荷物を預けている時間)だけ感情を共有するからだ。供犠でつながる「血祭りの共同体」といえるだろう。

仮にわたしたちが「正直者が馬鹿を見る」時代精神に徹底的に抗おうとするならば、実社会で個別に正しいと思えることを、勇気を持って実践していくしかないだろう。しかしながら、それには多かれ少なかれ面倒なことを引き受けるリスクが伴う。最悪の場合、自分の居場所が脅かされるだけでなく、失ってしまうことも十分ありうる。

賛意のタップだけで正義を遂行してみせる

実際問題として、わたしたちは最も深刻でダメージが大きい身の回りの不条理に手をつける気がないからこそ、ソーシャルメディアをはじめとするネット上で完結するハッシュタグ戦争のように、賛意のタップだけで正義を遂行してみせる振る舞いに傾倒しがちになる面があるのだ。これは本来解決しなければならない課題に対する欲求を、構造的に似ている比較的無害なものに対して発露する仕草に近い。

マスメディアが提供する虚像はその役割を担うことが少なくない(もっと言えば、マスメディア自体が抱える重大な欠陥を覆い隠すためにもマスメディアは虚像を切実に必要としていたりする)。これが近年ますます勢いづいているサイコパスモードと、過熱する上級国民バッシングが仲良く両立する地平を形作っている真犯人であるとしたら皮肉な話ではないだろうか。