博多めぐみさんの「現在」とは?(撮影:今祥雄)

米米CLUB。言わずと知れた超有名バンドである。紅白出場、レコード大賞受賞、日本武道館や東京ドームでライブ、CDのミリオンセラーなど、多くのミュージシャンが抱く夢を実現させた。

そんな米米CLUBの初期メンバーで、ブレイク直前にバンドを去った人物がいる。博多めぐみ(58歳)さんだ。ステージで力強くギターをかき鳴らしていた女性と言えば、「ああ、あの!」と思い出すファンもいるのではないか。

「ときたま思うんです、米米CLUBを辞めていなかったらな、って。もちろん思ったからって、メンバーに戻れるわけはないのですが、もう一度ステージで光り輝きたい。ロックスターとして武道館に立ちたいんです」

取材場所である新宿のロックバーで、博多さんはそう話す。ここは週に1回、彼がアルバイトをしている店でもある。米米CLUB脱退後、約25年も音楽活動から遠ざかっていた博多さんは、2017年から親子ほど年の離れた元アイドルとバンドを組んでいる。米米CLUBにいれば叶えられた夢を、ゼロから追いかけているのだ。脱退という大きな決断、そして50代になって再び挑戦を始めた理由は何だったのだろうか。

米米CLUBへとつながる道のり

1962年、博多さんは神奈川県川崎市で生まれた。活発な性格で、少年時代は近所の子どもたちと野原を駆け回る日々。飽き性でもあり、買ってもらった釣り道具にすぐほこりをかぶらせ、両親をあきれさせたことも。小学校6年のとき、隣の家から聞こえてきたビートルズの「レット・イット・ビー」に感動し、音楽にハマっていった。

早速フォークギターを買ってもらい、独学で練習を始めた博多さん。「すぐ飽きるだろう」という両親の予想に反し、夢中になる一方。中学生になると、キッス、クイーン、ベイ・シティ・ローラーズといったロックスターに憧れ、休み時間にはほうきを持ってギタリストになりきった。高校生になるとエレキギターも始め、バイト代はすべてレコードや音楽雑誌に費やした。

「同級生たちはバイクに夢中になっていましたが、僕はまったく関心がありませんでした。女の子と遊んだりもしたけれど、生活の中心は音楽でしたね」

しかし音楽の趣味が偏り、性格もひねくれていたため、音楽仲間はほぼできなかった。「同級生が流行のJ―POPを聴いていたら、『ダサい!』とかすぐ言っちゃうので、相当嫌われていました」と博多さん。一方で、音楽で何かを表現したいという、悶々とした欲動を抱えていた。

転機となったのは、後に米米CLUBのリーダーとなるBONさんとの出会い。同氏は文化学院(現在は廃校)の仲間たちと、アマチュアバンドを組んでいた。そのライブを見に行ったところ、衝撃を受けた。ステージにスクリーンを設置し、映像とシンクロするように登場する。ベスパに乗ってステージを駆け回る、など、自由な校風で芸術を学ぶという、文化学院のあり方そのままに、斬新な表現を行っていたのだ。

「格好いい!」と興奮した博多さん。ご近所だったBONさんの家に押しかけ、バンドに入れてほしいと直談判し、快く迎えられた。その後、同じく文化学院の石井竜也(カールスモーキー石井)さんがBONさんに呼びかけ、ジェームス小野田さんも加わり、新たに米米CLUBが結成される。博多さんもメンバーとして参画。1982年、20歳のときだった。

石井さんや小野田さんとの出会いは、インパクトが大きかったと博多さんは振り返る。


中央のメガネをかけた女装姿の人が博多めぐみさんだ(写真:博多めぐみさん提供)

「テッペイちゃん(石井さんの通称)は初めて会ったとき、金髪で燕尾服を着ていたんですよ。しかもものすごくハンサムで。小野田さんは、普段はおとなしく温和なのに、ステージに立つと取りつかれたようなパフォーマンスをする人。こんなに強いキャラクターの2人がいるんだから、自分も絶対にとがったことをやろうって考えたんです」

初のステージとなる学園祭ライブで、博多さんが目立つためにしたのが女装だった。高校生のときに髪を伸ばしていたところ、同級生から「女男だ」とからかわれたことを逆手に取ったのだ。その姿に、メンバーたちも「いいじゃん!」と絶賛。当時は女性ギタリストが少なかったため、本当の性別を明かさず、希少性を演出したのも戦略だった。肌が博多人形のようにきれいだったことと、麻丘めぐみさんが好きだったことから、石井さんにより博多めぐみと命名された。

そして本番。観客席はガラガラだったが、米米CLUBが出た途端、たちまち満員に。ライブは大盛況だった。

「ラップもありパロディもあり、過激なパフォーマンスもありました。モンティ・パイソンや天井桟敷、当時流行ったスネークマンショーなどの影響を受けていましたし、米米CLUBはバンドというより、芸術家集団というほうが近かったと思います」

遊びの延長で始まったバンドが、大人気に

米米CLUBと聞くと、「浪漫飛行」「君がいるだけで」など、正統派の楽曲を思い浮かべるかもしれない。しかし実は、「こんなダサい名前のバンドがあったら面白いよね」という、遊びの延長で始まったバンド。色物やコミックバンドに見られることもあったが、人を引き付けるステージ力はずば抜けていたのだった。

その後も米米CLUBはライブ活動を続け、着実にファンを増やしていく。とはいえ、プロを目指して活動していたわけではない。博多さんは美容師を目指し、専門学校に通っていたため、進路をどうするか、バンドを続けるか迷っていた。そんなとき、石井さんにかけられた言葉が、その後を決意させる。

「お前はバンド辞めたらダメだよ、って言われたんです。本当に美容師が好きでなりたいなら、普段からもっと人の髪に触れて、ヘアスタイルをどうアレンジするか考えているはずだよ、めぐみ君はそうじゃないでしょ、って。確かに、僕は好きで美容師になりたいわけじゃなく、手に職をつけたいだけだったと気づきました」


新宿のロックバーで語る、博多めぐみさん(撮影:今祥雄)

結局、美容師は断念し、博多さんはバイトをしながらバンド活動を続けていった。米米CLUBの人気はすぐに火が付いた。ライブをするたびに口コミで観客が増え、雑誌やテレビにも取り上げられるように。1985年にメジャーデビューし、『夜のヒットスタジオ』『ミュージックステーション』といった人気番組にも出演。全国ツアーが組まれ、チケットはすぐ入手困難になるなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

だがその一方、博多さんのしたいこととバンド活動に乖離が生じる。米米CLUBのライブは、いわゆるエンターテインメントショー。このままでは、憧れていたロックスターにはなれない、と思い始めていた。そして博多さんが25歳のころ、そのズレからある問題を引き起こし、バンドを脱退することになる。

「自分で自分を追い込んで、精神的にもおかしくなってしまい、あることでみんなに迷惑をかけてしまったんです。詳しくは言えないのですが……それで、辞めざるをえなくなってしまった。これからもっと売れるのが明らかだったし、バンドに残りたい気持ちもあったけど、仕方ありませんでした」

脱退後、博多さんがリーダーとなり、バビロン大王というバンドを結成。メジャーデビューもしたが、満足いく活動はできなかった。「元米米CLUBだからって、米米CLUBみたいな面白いことができるわけなかった。僕には才能がなかったんです」と博多さん。解散を決めた日、バンドメンバーたちで居酒屋に行き、「自分が至らないせいで申し訳ない」と号泣したという。

バイトリーダーにいじめられる立場に…


弾き語りをする博多めぐみさん(撮影:今祥雄)

もうステージには立たない。そう決めた博多さんは、レコード会社に就職。裏方として、バンドのマネジャー的な役割をするように。その後、ベンチャー企業で着メロの企画制作を行うも、事業が下火になり退職。当時すでに40歳を超えており、再就職先もなかなか見つからず、生活のために居酒屋チェーンでアルバイトを始める。

「長く働いてる若いバイトリーダーからいじめられたりするわけですよ。わからないことを質問したら、『何でそんなこともわからないの』って。でも生活がかかってるから、我慢するしかありませんでした」

音楽で食うことはとうに諦めていた。しかし、つらい日々の反動から、何かしら表現活動をしようと、DJを始めた。お金にはならず、完全に趣味だったが、バンドをしていた当時の生き生きした感覚がよみがえった。ほぼ同時期、たまたま訪れた新宿ゴールデン街のバーで、アングラな表現活動を行っている人々に出会う。BONさんや石井さんたちのように、自分たちが本当に好きなことを、夢中で行っている姿に刺激を受けた。

「俺もまた音楽をやらなきゃ!」

悶々とした気持ちを抱えて、BONさんのところに飛び込んだあのときから、実に30年以上を経て、再び突き動かされたのだ。

「そういえばテッペイちゃんは、時間さえあればずーっと絵を描いていました。絵が本当に好きなんだって、それを見ながら思っていましたね。自分にとってはそれがギターであり、音楽だったんです」

ゴールデン街の飲み仲間のつてでメンバーを探し、元アイドルの女性と知り合った。聞くと、活動がうまくいかず、事務所を辞めてフリーになったばかり。年齢こそ違えど、どこか似た境遇の2人は意気投合し、バンドを組むようになった。


新たに結成したバンドのメンバーたちと(写真:博多めぐみさん提供)

「絶対売れなきゃダメだよね、武道館に行こうぜ、って合言葉のように話してます。これからメジャーになるのは大変なことだけど、最後にロックスターとしてステージに立ちたいですから。高校生のころ、自分は何のために生まれてきたのか、ってずっと考えていた時期があって。その答えはわかりませんが、目指したいことははっきり見えています」

博多さんは2019年に、母親を病気で亡くした。すでに寝たきり状態だったとき、病床でバンドの映像を見せると、母は「ボーカルの女の子がいいね」と笑顔を見せた。そして、お前は何をしても続かなかったけれど、音楽は本当に好きなんだね、と声をかけられたという。母親が残してくれたいくばくかのお金は、貯金を足してバンドのミュージックビデオ制作費に充てた。

「そのお金で立派な葬式をあげればよかったんですけど、こういう使い方がいちばんの親孝行だと思いまして。中学生のころ、ギターを買ってもらったおかげで、音楽好きになったのですから。僕がこの年になっても、真剣にバンドをしていることは、きっと母親に伝わったと思いますしね」

活動休止の今、見据える未来

バンドとして象徴的なのは、「ロックもアイドルも賞味期限がある」と掲げていること。退路を断つと同時に、過去と決別し、自分たちで新しい道をつくっていく、その表れである。「米米CLUBはよかったな……」「辞めていなかったら今ごろは……」と、未練を引きずっているヒマなどないのだ。


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2020年9月、新型コロナの影響でライブ活動ができず、資金難にも直面し、バンドは活動休止を余儀なくされた。けれど、いつか武道館を目指すという情熱や決意は薄れていない。前を向いて、できることをし、そのときが来るのを待ち続けている。

米米CLUBも会社員も、バイト暮らしも経験してきた博多さん。次はどんな景色を見るのだろう。スタートラインには、まだ立ったばかりだ。