ありふれた銅像に意外なドラマが?南房総の観光事業を興した島津良男のエピソード

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フェリーに乗って、久里浜(神奈川県三浦市)から東京湾を渡って金谷(千葉県富津市)へ行って来ました。

鋸山のふもとに広がる金谷の街はのんびりとしていて、開放的な南国気分が楽しめます。

さて、そんな浜金谷(はまかなや。JR内房線)駅前のコミュニティセンターに銅像が一つ建っていました。

島津良男の胸像。今も故郷の金谷を見守っている。

どこにでもありそうな胸像の主は島津良男(しまづ よしお)。ふと興味が湧いて調べたところ、意外な人々とのかかわりがあったようです。

東京湾の航路を守るため、金谷に港を開く

島津良男は明治三十九1906年、房総半島の南西部に位置する金谷村(現:千葉県富津市)に生まれます。

当時の金谷は江戸時代後期から鋸山で採掘される房州石(ぼうしゅういし)の産地として知られていましたが、それ以外にはこれといった特徴に乏しい、よくある田舎の漁師町。

地元産業も盛んではないため、多くの若者は連絡船に乗って東京湾を渡り、出稼ぎに行きました。

この連絡船事業は明治二十二1889年に「日本実業界の父」として有名な渋沢栄一(しぶさわ えいいち)が興し、発展させたもので、東京や横浜・横須賀と房総半島を網の目のようにつなぐ役割を果たします。

しかし、戦後(昭和二十1945年〜)に鉄道網が発達し、房総半島から東京都心へのアクセスがよくなったため、次第に連絡船の需要が低下、その姿を消していきました。

南房総〜神奈川方面の移動にはフェリー(海路)が便利。陸路で東京湾を迂回するのはかなり大変。

すると困ったのが房総半島の南部地域。確かに北部は便利になったものの、いくら陸続きとは言っても、南部からではけっこう時間がかかります。

※現代でも、最南端の千倉駅から千葉駅まで行くのは2時間以上かかるようです(ジョルダン調べ)。

このままでは、南部が寂れてしまう……そこで金谷に港を開き、三浦半島との航路継続に乗り出した良男たちでしたが、それには利用者の確保が大きな課題となりました。

船旅の「特別感」をカギに、観光客の誘致に乗り出す

「せっかく航路を維持しても、利用者が少なければ存続できない……と言って、そもそも金谷の人口はそんな多くないし……そうだ!」

良男が考えついたアイディアは、地域資源の発掘による観光客の呼び込みでした。

「金谷には昔から温泉があるけれど、それだけでは弱いので、鋸山の奇観(※)と、獲れたて新鮮な海の幸、そして『船旅』要素を組み合わせることで、非日常な特別感を味わってもらおう!」

鋸山の名所「地獄のぞき」。房州石を切り出していたからこその絶景スポット。

(※)鋸山の石切り場跡は、岩を四角く切り出したため、遠目でもキュービックな山肌が楽しめます。

金谷には東京都心から陸続き(鉄道)でも来られるけど、そこにあえての船旅を挟むことによって、来るまでの道のりも楽しんでもらうことが可能となります。

金谷をはじめ、房総半島の地元民には当たり前な船での移動も、都市部の人たちには新鮮な体験となるはず……果たして良男たちの読みは当たって、昭和三十1955年に開かれた金谷港は大盛況。

後に「春に夏に秋に冬に観光の客陸続として後をたゞざる(※銅像の銘文より)」と称賛されるまでに賑わったのでした。

終わりに

そして現在。金谷の街は高度経済成長期の喧騒から静けさを取り戻したようです。

ひなびた感じの観光客内所とコミュニティセンター。中央奥に良男がいる。

しかし、かつて小林一茶(こばやし いっさ。江戸時代の歌人)や夏目漱石(なつめ そうせき。明治時代の文豪)、棟方志功(むなかた しこう。昭和時代の芸術家)が訪れ、愛した奇景に触発されたアーティストたちが「石と芸術のまち」として地域振興に取り組んでいます。

また平成十八2006年から始まった「恋人の聖地プロジェクト」では、関東地方で有数のデートスポットとして多くの恋人たちが訪れ、鋸山の頂から見晴らす夕映えの富士山は、二人の忘れられない思い出となっている事でしょう。

こうした金谷の観光資源は、良男をはじめ地元を愛する人々によって発掘・発信されたもの。

どこにでもあるような銅像にも、その一つ一つに歴史ドラマがあるものですから、皆さんも身近に銅像があったら、興味関心を持ってみると面白いと思います。

※参考:

海人社『世界の艦船』海人社、1989年11月「石と芸術のまち金谷」10年の軌跡恋人の聖地