死後、怨念により害虫に…平安時代の武将・斎藤実盛に訪れた思わぬ最後

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西日本では稲を食べる害虫、ウンカのことを実盛虫と呼ぶことがあります。由来となったのは平安時代の武将、斎藤実盛(さいとう-さねもり)が合戦時に起こしたアクシデントにありました。

 斎藤実盛/Wikipediaより

今回はなぜ実盛虫と呼ばれることになったのかを由来となった合戦前の経過と共に紹介します。

源氏から平氏へと転身

実盛は平治の乱まで源氏に仕えていましたが、乱においての源氏の敗北と共に落ち延び、その後平氏に仕えます。平氏では平清盛の嫡孫、平維盛(たいらの-これもり)の後見役という重要なポストにつきました。

 平維盛/Wikipediaより

そのこともあってか、治承4年(1180)に源頼朝が平氏打倒のために挙兵しても、源氏には味方しませんでした。

そして、実盛は維盛と共に北陸へ進軍し、北陸に勢力を築き上げた木曽義仲と対峙します。

木曽義仲/Wikipediaより

最初は怒涛の勢いで義仲を追い詰めていきますが、治承2年(1185)の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いでの敗走を機に形勢逆転。

北陸方面の平氏は壊滅に等しい状態となり、維盛は京都方面に撤退しました。

実盛、最後の時

しかし、維盛の撤退を阻止するため義仲軍が追撃を行います。実盛は維盛を守備すべく加賀国の篠原にて義仲軍を迎え撃ちました(篠原の戦い)。

この戦いの最中、実盛は乗っていた馬が稲に足を取られてしまったため、落馬してしまいます。その隙をつかれて義仲軍の武将、手塚光盛に討ち取られました。

 斎藤実盛と手塚光盛/Wikipediaより

実盛はこのような最後となった恨みから稲を食い荒らす虫となったといわれています。

実盛が見せた武人としての粋

また、実盛は篠原が自身の死地になるだろうと覚悟していたので、「最後くらいは若い姿で戦い、生涯を終えたい」の思いから白髪を黒く染めました。

 白髪を染める斎藤実盛/Wikipediaより

そのことにより、幼いころに実盛に窮地を救われた義仲は、討ち取られた首に見覚えがありましたが、何かがおかしいことを感じていました。

そして、側近の樋口兼光の提案通りに首を洗うと黒髪から白髪に変わり、討ち取った首が実盛だったことが判明します。

義仲は命の恩人を討ってしまったことを深く悲しみ、涙で声が出ないくらいまで泣きました。

最後に

実盛がウンカの別名になったのは、不幸な死を遂げてしまった人の怨念が虫となって害をなすと考えられているので、その考えから稲によって不幸な死を遂げた実盛が実盛虫と呼ばれるようになりました。

さらにウンカを駆除し、豊作を祈る呪術的行事である虫送りでは実盛の霊を鎮め、ウンカを退散させる意味合いを込めて西日本では実盛送りや実盛祭とも呼ばれています。

敵味方から称賛された実盛だからこそ、実盛虫や実盛祭となって現代にまでその名が知られるようになったと考えてしまいますね。

参考

二木謙一『誰かに話したくなる日本史こぼれ話200』
朝里樹『歴史人物怪異談事典』