「ぬるま湯育ちめ…」地方進学校出身の男が“慶應ボーイ”に抱いた劣等感
今年、私たちの生活は大きく変わった。
“ニューノーマル”な、価値観や行動様式が求められ、在宅勤務が一気に加速した。
夫婦で在宅勤務を経験した人も多いだろう。
メガバンクに勤務する千夏(31歳)もその一人。最初は大好きな夫・雅人との在宅勤務を喜んでいたのだが、次第にその思いは薄れ、いつしか夫婦はすれ違いはじめ…?
2020年、夫婦の在り方を、再考せよ。
◆これまでのあらすじ
▶前回:「私も需要ある…?」夫婦末期症状に陥った女がそそのかされた、危険な誘い
−ったく、千夏のやつ何考えてるんだ。
雅人はスマホをソファに投げつけた。
友人と出かけてくると言って出て行った千夏から、突如“今日は、外に泊まります。帰りません”というメッセージが届いたのは2時間前。
何事かと思って慌てて電話したが応答はない。送ったLINEも未読のままだ。
在宅勤務を始めてからというもの、千夏とは全くうまくいっていない。突如、寝室に籠城したかと思ったら、家事も放棄。
さすがに自分にも反省すべき点があったと、謝罪し、お詫びに熱海へワーケーションに出かけたが、そこでも結局喧嘩になった。
きっかけは、千夏が熱海に引っ越したいと言い出したこと。雅人にとっては、絶対に受け入れられない提案だったのだ。
そんなすれ違いばかりの毎日に嫌気がさしたのかもしれない。これだけ連絡しても応答がないということは、今日はもう諦めた方が良いと思った。
千夏の機嫌を戻すには、熱海のマンションの見学に行くのが手っ取り早いだろう。だが、それだけは口が裂けても言わない覚悟だ。
−俺は、絶対に東京にこだわるんだ。
拳をぎゅっと握りしめる。雅人には、どうしても東京にこだわる理由があるのだ。
東京で成功することにこだわる雅人の過去と、根深いコンプレックスとは…?
コンプレックス
−こいつら、一体何なんだ?
念願だった慶應大学に進学し、クラスの飲み会での衝撃は今でも忘れられない。
茨城県で電気工事会社を営む父と専業主婦の母のもとで育った雅人。成績優秀な彼は、県内有数の進学校へ。
金銭的にも学力的にも、特段苦労することなく育った。
運動神経も良かったし、ルックスも万人受けする塩顔。当時、地元では飛び抜けた存在だった。
地元の大学に進学する友人が多い中、自分の可能性を広げたいと思った雅人は慶應大学を受験することを決意する。
晴れて慶應に合格し、進学することになったが、これが悲劇の始まりだった。
彼はこの時初めて知った。本物の“慶應ボーイ”というものを。
皆、都内の一等地に住んでいて、タクシーに乗ることに全く抵抗がない。
ビジネスクラスで海外旅行、葉山の別荘でクルージング。彼らにとっては、銀座の鉄板焼きや高級寿司も日常茶飯事。
バイトもせず、毎日パーティーのような生活を送っている人々だったのだ。
地元では裕福な部類だったが、彼らは“ケタが違う”。圧倒的な差を目の当たりにした雅人。
強烈なコンプレックスは、こんなぬるま湯に浸かって遊んでいる奴らに負けたくないという原動力に変わった。
−絶対、東京で成功してみせる。
だから、東京を離れるなんて、自分にとっては負けたも同然。戦うフィールドは、東京でないといけないのだ。
−熱海に引っ越したい…!?ふざけるな。
千夏がそう提案してきた時、雅人は「これだから東京出身者は…」と、腹立たしく思った。
“地方でのんびり暮らしたい”などと気楽に言わないでほしい。
東京で生まれ育ったものには分からない、地方出身者の意地というか、譲れないプライドがあるのだ。
それに、もう1つ。
千夏は、リモートワークが普通になっていくと言っていたが、雅人の見立てでは、そんなことは絶対に有りえない。
クライアントが出勤しているから出勤しなくてはいけないコンサルタントも大勢いる。
リモートワーク率が高い会社だって、出社した時に残業に追われているし、1時間だけでも在宅勤務すれば在宅勤務としてカウント、あとは出社なんて会社もザラだ。
正直、こんなにも千夏が議論出来ない人間だとは思っていなかった。
−それにしても…。
雅人は気がかりなことがあった。
最近の千夏は、何を考えているのか、全く分からない。
ついに千夏が帰宅。しかし何だか様子がおかしい…?
初めて生まれた感情
「ただいま」
日曜日の19時。
ソファで寛いでいると、千夏が帰ってきた。朝、再度連絡をしてみたが応答はなく、昨日送ったLINEも未読のままだった。
これ以上、自分が気を遣う必要もないと思った雅人は、ギロリと睨んで無言の圧力をかける。
こっちから話しかけたり、謝罪するつもりはない。そもそも、勝手に出て行って、夫婦関係に亀裂を入れるようなことをしたのは千夏の方だ。こっちから歩み寄る必要など、ない。
だが千夏は、雅人の厳しい視線を逃れながら、寝室へと急ぐ。
そのうち謝罪しにリビングに戻ってくるだろうと思っていたが、1時間経っても彼女が姿を現すことはなかった。
気にしないと思えば思うほど、気になって仕方ない。落ち着かない雅人は、耳をそばだててみる。
だが、何も聞こえない。寝ているのだろうか。様子を伺っていると、予期せぬ音が聞こえてきた。
−泣いてるのか…?
静かな寝室から聞こえてきたのは、鼻をすすりながら、時折「ううっ…」と漏れる嗚咽だった。
思い返してみると、リビングに入ってきた千夏の顔は青白く、足元もフラついていたように見えた。
体調が悪いのだろうか。そうだとしたら、なぜ連絡を絶って外泊したのだろう。千夏の不可解な行動に首をかしげる。
−まさか。
深刻な病気が発覚したとか、自分にも相談出来ないほど思い悩んでいることがあるのだろうか。
頭の中に、どんどん嫌な想像が広がっていく。さっきまで腹立たしく思っていた雅人だが、居ても立っても居られなくなった。
“ガチャン”
飛び込むようにして寝室に入ると、千夏はベッドの上で横たわっていた。さっき聞こえた通り、彼女は小さく肩を震わせながら泣いていた。
「千夏、どうしたんだよ!?」
弱々しい妻の姿を目の当たりにした雅人は、近寄って肩を抱く。何があったのか知らないが、千夏の身に何か起きていることは明白だった。
「わたし…」
千夏は、訴えかけるようにじっと目を見つめた。雅人も、それに応えるように強く見つめ返す。
10秒ほどの沈黙の後、彼女はついに口を開いた。
「妊娠したの」
−妊娠…!?
予想外の言葉に、雅人はフリーズした。
まず、心に浮かんだのは、嬉しい気持ち。
そして同時に、不安と責任などあらゆる感情が一気に押し寄せ、うまい言葉が見つからなかったのだ。
そんな反応を見た千夏は、不安そうに雅人の顔を覗き込む。喜んでいないと思ったのだろうか。
すぐに雅人は千夏を抱き寄せ、「ありがとう」と抱きしめた。
「昨日は、私もごめんね」
涙声の千夏は、言葉を詰まらせながら雅人に抱きついた。
そして、雅人の手を握り返しながらこう言った。
「ねえ、これまで保留にしていたこと、話し合いを避けていたこと、この際全部話し合おう。
私たち、お互いに甘え過ぎていたね」
▶前回:「私も需要ある…?」夫婦末期症状に陥った女がそそのかされた、危険な誘い
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千夏の妊娠が発覚したことで、雅人の心境にも変化が。議論をぶつけ合う2人は…?
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