菅義偉官房長官の首相就任が決定的となり、球界の“組閣”にも波及している。菅氏のお膝元・横浜では、ラミレス監督の後任に横浜DeNAのOBで現巨人コーチの石井琢朗氏(50)が急浮上。ラミレス監督のコーチとしての“巨人復帰”も同時進行している――。

 優勝候補とも言われた今季の横浜DeNAだが、9月最初の巨人戦で3連敗。3日の試合では中継ぎ専門のパットンを来日194試合目で初めて先発させる奇襲に出たが、2回途中で9失点。首位・巨人との差は8.5ゲームに開き、今季のセ・リーグはCSがないことから、事実上の終戦。それにより、後任の監督人事が本格化した。

 昨季を2位で終え、契約を1年延長したラミレス監督。今季は5年目の采配となるが、V逸なら「自動退任」が規定路線。後任には、いずれも球団OBで“番長”こと三浦大輔二軍監督や、“大魔神”佐々木主浩氏、前監督・中畑清氏の再登板がささやかれていた。

 しかし、本命に躍り出たのが1998年の優勝メンバーで、現巨人一軍野手総合コーチの石井琢朗氏だ。

「バックアップしているのは、菅さんを支持する自民党神奈川県連。菅さんが横浜市議だった時代から、監督やチームの方針にも納得がいかないと“臆することなく意見する”石井氏のファンだったことを忖度し、後任監督に推挙している」(自民党神奈川県連の長老)

 菅氏は、政界の名門に生まれた安倍晋三首相とは対極の政治家だ。秋田県のいちご農家に生まれ、県立湯沢高校卒業後に集団就職で上京し、東京・板橋区の段ボール会社で働きながら学費を貯めて法政大学第二部法学部に進学。在学中は報知新聞や築地市場でアルバイトし、その後、小此木彦三郎元衆院議員(横浜市議・元建設大臣)の秘書、横浜市議を経て国会議員になった。そんな菅氏が横浜市議時代、勇気付けられたのが石井氏の活躍だった。

 石井氏もまた、苦労して上り詰めた野球人。県立足利工業高校の1年時から背番号1を背負い、2年時に夏の甲子園に出場。しかし、ドラフト指名の夢は叶わず、大学への進学が決まっていたが、ドラフト外で横浜大洋ホエールズ(当時)に入団した。1年目に初先発初勝利を挙げて将来を嘱望されたものの、大きな結果を残せず、3年目のオフに野手転向すると、’96年には遊撃手として花開き、そこからはスター街道を歩んだ。

 1番打者に定着し、波留敏夫との1、2番コンビで「マシンガン打線」を牽引。盗塁王4回、最多安打2回、ベストナイン5回。’98年の日本シリーズでは優秀選手賞も獲得している。

「’96年は、菅氏が衆議院選挙に初当選した年。菅氏と石井氏は苦労した時代がかぶり、それだけ思い入れが強い。実は、菅氏も中学時代は野球部に所属し、サードで1番だった。しかし、高校では通学に片道2時かかり、部活は続けられなかったらしい。そんな無念さもあり、石井氏にはいずれは横浜に戻ってもらい、黄金時代の再来を期待している。ベイスターズが盛り上がれば、地域経済に波及する。我々も全面的に支える考えだ」(同)

 菅氏が「戻ってほしい」と願うのは、晩年の石井氏が横浜と袂を分かち、微妙な関係にあるからだ。38歳の’08年に引退勧告されたが、現役続行を希望し、自由契約で広島入り。カープで4シーズン現役を続け、’13年から4年間、一軍内野守備・走塁コーチ、打撃コーチとしてカープの優勝に貢献した。

 この間、田中広輔、菊池涼介、丸佳浩の“タナキクマル”を育てた名コーチとなるも、フジテレビ元アナウンサーの詩織夫人(旧姓・荒瀬)と3人の子供を東京に残していることから関東の球団へ転身を図った石井氏。その際も、横浜だけはスルーした。

「’18年と’19年はヤクルトの一軍打撃コーチを務め、高卒2年目の村上宗隆を一軍に定着させ、チーム打率をリーグ最下位からトップに引き上げた。今季は原辰徳監督の強い希望もあり、巨人の一軍野手総合コーチに就任し、首位独走の“影の功労者”と言われている」(スポーツ紙デスク)