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 現時点における日本代表のベスト11を考える時、最も頭を悩ませるのは、2008年から始動した第2次岡田ジャパン以来"鉄板状態"が続いている「左サイドバックの人選」だろう。

 なぜなら、そのポジションを長年にわたって守り続けてきた長友佑都が、所属するガラタサライで構想外となり、もう半年以上も実戦から遠ざかっているからだ。


長友佑都も今年9月で34歳になる

 現在の長友は無所属の状態で、新天地を探している最中(現地8月31日にマルセイユへの移籍が決定)。もし通常どおりに日本代表の活動が行なわれていたとしたら、果たして森保一監督はW杯予選で誰を左サイドバックとしてチョイスしていたのだろうか?

 今年9月で34歳を迎える長友の代表デビューは、今から12年以上も前の2008年5月24日・コートジボワール戦にまでさかのぼる。もちろん、あの強靭なフィジカルとスタミナがあれば2022年のカタールW杯までは十分にプレーできそうだ。

 だが、いずれ近い将来には引退の時が必ずやって来る。少なくとも2年後のカタールW杯を目指すうえでは、長友の負担を軽減するためにも、強力な左サイドバックのバックアッパーが必要であることは間違いないだろう。

 2018年9月にスタートした森保ジャパンがこれまで戦った試合で(東京五輪世代を主体に臨んだコパ・アメリカ3試合とE-1選手権3試合を除く)、基本布陣「4−2−3−1」の左サイドバックで先発したのは、長友が20試合中12試合でダントツのトップ。次いで佐々木翔(サンフレッチェ広島)の6試合で、山中亮輔(横浜F・マリノス→浦和レッズ)と安西幸輝(鹿島アントラーズ→ポルティモネンセ)が1試合という状況だ。

 つまり、長友の控えとしては佐々木が最有力候補となるわけだが、しかしこれまでの代表でのパフォーマンスは芳しいものとは言えず、長友を脅かす域には達していない。しかも所属する広島では3バックの左でプレーしていることを考えても、新戦力の発掘が急務であることは明白だ。

 ここにきて急浮上してきた日本代表の左サイドバック問題。だが、過去を振り返ると、実は多くの歴代代表監督たちが同じ問題に頭を悩ませてきた歴史がある。

 日本にプロリーグが誕生してから、最初にこの問題を抱えたのはハンス・オフト監督だった。当時絶対的な左サイドバックとして君臨していた都並敏史(ヴェルディ川崎)が1994年W杯アジア最終予選を前に大きな負傷をしてしまうと、その代役探しに四苦八苦した。

 困ったオフト監督は右の勝矢寿延(横浜マリノス)を左にコンバートしてみたが、思うようにフィットしなかった。すると、本番直前の試合で三浦泰年を緊急招集して左サイドバックに抜擢。しかし、清水エスパルスのボランチでプレーしていた三浦を起用しても機能せず。

 結局、最終予選の3戦目からは再び勝矢に戻すという事態に陥った。"ドーハの悲劇"が起こったイラク戦も、左サイドバックは勝矢が務めた。

 そもそも、オフト監督はプレー不可能とわかっていながら都並をメンバーとしてチームに帯同させ、対戦相手に負傷を隠し続けようとしたのだから、その苦悩ぶりがよくわかる。

 都並の後継者問題は、オフトからバトンを受けたファルカン監督の時代も続いた。

 8カ月で9試合という短命に終わったファルカン時代に左サイドバックを務めたのは、岩本輝雄(ベルマーレ平塚)と遠藤雅大(ジュビロ磐田)という代表デビュー組。最終的には岩本が一列前でプレーし、遠藤がそこに収まることになった。

 だが、1994年広島アジア大会で韓国に敗れて準々決勝で敗退すると、遠藤は戦犯扱いを受けてしまった。結局、同大会を最後にファルカンが退任したあと、ふたりが再び代表でプレーすることはなかった。

 ようやく都並の後継者問題が解決したのは、ファルカンのあとを継いだ加茂周監督の時代だ。ただし、加茂ジャパンはドーハ組を呼び戻して再出発したため、初陣となった1995年インターコンチネンタル選手権の2試合は都並が先発している。

 その後、右サイドバックやセンターバックでプレーしたポリバレントな柳本啓成(サンフレッチェ広島)を4−4−2の左サイドバックに起用。まずはその場をしのぐと、3バックに移行した時期になってからは、ようやく左のスペシャリスト相馬直樹(鹿島アントラーズ)が1995年5月に代表デビューを果たした。

 当初は左ウイングバックで、その後布陣を4−4−2に戻してからも、相馬は加茂ジャパン不動の左サイドバックとなる。岡田武史監督で臨んだ初めての1998年W杯フランス大会でも、左ウイングバックとして全試合にスタメン出場を果たした。

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 ところが、1998年W杯後に就任したフィリップ・トルシエ監督の時代になると、再び左サイドバックの駒が流動的になる。"フラット3"と呼ばれた3バックシステムを採用したトルシエ・ジャパンは、立ち上げ初期こそ相馬が左ウイングバックを務めた。

 だが、1999年コパ・アメリカでの惨敗を受けて指揮官が世代交代を推進すると、その後は名波浩(ベネツィア)、服部年宏(ジュビロ磐田)、平野孝(名古屋グランパス)、中村俊輔(横浜マリノス)、小野伸二(フェイエノールト)と、服部以外は非本職系プレーヤーが左ウイングバックに配置された。

 最終的に、2002年W杯で左ウイングバックを務めたのは小野である。

 2002年W杯後に就任したジーコ監督時代の4年間は、3バックと4バックを併用。だが、そのどちらの場合も三都主アレサンドロ(清水エスパルス→浦和レッズ)がほぼ固定された。

 ただし、三都主は本来DFではなかったために、4バック時は守備の問題が露呈。そこで、左右両サイドをこなす駒野友一(サンフレッチェ広島)が重要なバックアッパーとしてそれをカバーするなど、左サイドに不安を抱えたまま2006年W杯ドイツ大会に挑んでいる。

 続くイビツァ・オシム監督時代の約1年2カ月は、駒野を軸に、三都主、阿部勇樹(ジェフ市原→浦和レッズ)、今野泰幸(FC東京)らが4バックもしくは3バックの左サイドを担当した。だが、オシムを継いで2008年1月から動き始めた第2次岡田武史監督の時代になると、再び駒野が左サイドバックに固定されるようになる。

 そして、2008年5月に長友が登場。次第にファーストチョイスは長友へと移り変わり、現在に至るというわけだ。

 こうして1993年に日本サッカーがプロ化してからの時代を振り返ると、都並、相馬、三都主、駒野、長友が、日本代表左サイドバックの系譜を継いだことになる。ただ、その27年のうちの12年は長友の時代が続いているわけで、その後継者探しは、都並のあとに相馬が台頭するまでにかかった以上の長い年月を要する可能性は十分にある。

 しかも森保ジャパンの場合、A代表は4バックを採用しながら、その下のカテゴリーの東京五輪世代代表は3バックが基本布陣という、新戦力の発掘には適さない環境がある。さらに、Jリーグでも3バックを採用するチームが増加傾向にあるため、問題はより複雑になっていると言えるだろう。

 果たして、森保ジャパンに適した新しい左サイドバックの台頭が早いのか、それともA代表の基本布陣を3バックに変更するほうが早いのか。いずれにせよ、日本代表の活動が再開されたあかつきには、再び左サイドバック問題が焦点となりそうだ。