純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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江戸時代、日本は驚くべき文化大国だった。いわゆる「鎖国」下で、天下泰平を享受して独自の文化を醸成し、武家、商家から庶民まで、男女を問わず、それぞれに芸事を嗜んだ。それは、硬直した身分制に対して、価値転倒的な気風を含み、実際、それは身分を超えた社会対流を可能にした。


大衆文化の醸成

天下人をめざす秀吉は、公家に互すべく、細川幽斎や里村紹巴に和歌連歌を学び、京に聚楽第を建て万人歓迎の大茶会を催し、暮松新九郎の指南で能のシテを演じ、さらには「豊公能」と呼ばれる自作まで上演している。しかし、家康は、茶の湯を嫌い、連歌は嗜むものの好まなかった。かろうじて今川人質時代に観世十郎大夫から手ほどきを受けたという能だけは、年頭の謡い初めを恒例とした。

1603年には、将軍宣下の祝賀能を開き、以後、将軍宣下、婚姻、接待などにおいて「式楽」として能が演じられた。このため、主だった大名家では、幕府に準じて、いやがおうでも能を採り入れることになり、能そのものも、武家同様の世襲体制を整えた四座一流(観世・金春・宝生・金剛・喜多流)が公認正統の流派と定められ、それも、切組(ちゃんばら)が廃れ、強吟(つよぎん)謡で倍もの時間に間延びしていき、庶民の目を離れ、娯楽性を失って儀礼的なものとなっていく。

ところで、本邦には神古から神楽の類いが村々で演じられ続けていたが、古代、推古朝に中国の呉から伎楽が伝わり、奇天烈な仮面と扮装、音曲を伴ったパレードとパントマイムのバーレスク(艶笑劇)で人々を驚かせた。また、平安時代後半になると、「傀儡子」と呼ばれる異民族(ジプシー?)風の人々が西宮などに突如として現れ、百太夫神を祭り、馬術や狩猟、芸能・呪術・売春で渡り歩く。(大江匡房『傀儡子記』1087)彼らを傀儡子と呼ぶように、彼らは芸能の中でも、奇術、とくに人形を使ったものを得意とした。伎楽は宮廷の雅楽や民衆の猿楽に影響を与えたものの、中世には衰退。傀儡子も跡を絶つ。

また、室町前期から、美男子アイドルで被差別流浪民の声聞師(しょうもじ)が、ささらでリズムを取りながら仏教説話を謡い語る「説経節」が祭礼などの場で人気となっていた。説経節は、ヒーローとヒロインの悲恋、ヒーローの苦難とヒロインの支援、神仏による救済をパターンとし、『俊徳丸』『小栗判官』『山椒大夫』『かるかや』『梵天国』などの五説経が有名だった。

その後、世阿弥の幽玄能によって、演劇はすっかり辛気くさいものと成り果てていくが、伎楽的な奇天烈の気風は、南北朝や戦国時代にも「婆娑羅」として復活。もともと「バジャラ」は、梵(サンスクリット)語で、金剛(ダイヤモンド)を意味し、雅楽において伝統破りの奏法を指した。とくに戦国時代では、南蛮文化を積極的に採り入れた信長や、その実弟の茶人、織田有楽斎などで知られ、武士未満の下級使用人たちが「カブキ者」として好んでまねた。また、武士だけでなく、町人でも、連歌や茶の湯などの芸道精進や名物収集に熱心な「数寄(すき)者」が現れる。

堺の琵琶法師、石村検校(1562〜1642)は、琉球に渡って蛇皮張りの三線を持ち帰り、その弟子、虎沢検校(?〜1654)とともに、これを琵琶撥で弾く猫皮張りの三味線に改良して採り入れ、当時の七五朝のはやり歌に曲を付けて「組歌」とした。これは、単音の伴奏が付く、かなり間延びした経文詩吟のようなもので、リズム感は無い。

一方、街中では、出雲大社の巫女だった出雲阿国(1572〜?)が信濃川中島森家武将の名古屋山三郎(1572〜1603)と京都で「カブキ踊り」を始める。これは、古代の伎楽に似て、女装した山三郎の茶屋娘(遊女)と男装した阿国のカブキ者がバーレスク(艶笑的)な小芝居を演じ踊り、最後は観客も参加して陶酔的に踊り回るものである。御所内でも演じられた記録があり、庶民はもちろん公家も興じたことが伺われる。この異性装のカーニバル的なカブキ踊りは、当時の他の多様な劇団でも演じられ、さらには軽業などの見せ場を含むものとなっていく。とくに城下町や宿場町の遊郭の遊女の余興としても流行し、わずか10年ほどで全国各地に広まった。くわえて、京都、大阪、江戸では、少年男娼たちによる若衆カブキも人気となった。


浄瑠璃と歌舞伎

このころ、傀儡子は、抱えた箱舞台の上でハンドパペットの猫などを見せる程度の個人のこじんまりとした芸能に衰えていた。ところが、虎沢の弟子の沢住検校や滝野検校は、説経節のリズム取りのささらを三味線に変えて音曲を付け、傀儡子と組んで演じた。ここにおいて、傀儡子は、両手で器用に複数のハンドパペットを操って演じ分け、小芝居を演じられるようになる。しかし、これはまだ一幕ものの路頭の立ち芸だったと思われる。

織豊の天下統一とともに東海道の交通が復興する中、説経節でも、信長、秀吉、家康にゆかりのある三河を舞台にした『浄瑠璃姫』がとくに流行。これは、東国下りの途中で源義経が矢作宿(岡崎)の長者の娘、浄瑠璃姫を見染めて契るも、翌朝に別れざるをえず、義経が蒲原宿(清水)で奇病に倒れると、これを八幡神が姫に伝え、姫が駆けつけ、危ういところで一命を取り留める、という説経節のお決まりのパターンだが、十二段に整えられ、定式化される。

こうして、慶長のころ、沢住の弟子の目貫屋長三郎と、西宮傀儡子の引田淡路掾(じょう)が、一人人形芝居と三味線音曲を組み合わせて演じる「浄瑠璃」を始める。これは、物語が長丁場であるため、小屋がけで観客も座る必要があり、人形遣いや太夫、三味線も交代になっていく。これを、1615年、杉山丹後掾が江戸で興行。その他、数多くの劇団が各地の城下に現れた。

これとは別に、堺の薩摩浄雲は、義経よりはるか前、河内源氏に題材を採り、豪壮な世俗武芸人形劇を始め、「金平浄瑠璃」(古浄瑠璃)と呼ばれる。これは、京を追われた源頼義の将、坂田金平ら「子四天王」が悪人たちを退治する、というもので、宮廷や幕府のウケも良く、江戸での興行を成功させ、軍記物連作に発展していく。ここで使われた人形は、伎楽のような異形面妖な風体のものが多かった。(参考:『弘知法印御伝記』大英博物館本挿絵)

遊女や若衆(少年男娼)による猥雑なカブキ踊りもまた、三味線を採り入れ、数十人が舞台に上がる豪華絢爛たるショーに拡大。能狂言が式楽化して武家に囲い込まれていく中、京の大蔵流狂言師、中村勘三郎は、阿国が男装したカブキ者「名古屋山三郎」の愚鈍な家来「猿若」を演じ舞い、コミックリリーフとして人気を得る。1624年、このコメディ部分、ものまねや啖呵、音頭などが独立し、江戸に常設劇場、猿若座(後の中村座)を開き、将軍の道化として名声を高める。しかし、幕府は、熱狂高まる遊女や若衆のカブキ踊りは危険視し、1629年来、繰り返し禁令を出すようになる。

また、1635年、結城孫三郎が日本橋堺(人形)町で結城座を開く。これは、手板の二十本前後の糸で操る糸吊り人形で、当初は短い説経節だったが、のちに浄瑠璃も演じるようになる。大阪では、1662年、時計職人の竹田近江(〜1704)が道頓堀で、複雑な機械仕掛けで水手品なども組み込んだからくり興行で評判となる。また、浄雲門下の桜井和泉太夫や虎屋源太夫なども、からくり人形を採り入れ、江戸堺町に常設小屋を持った。

日蓮宗僧侶から還俗した露の五郎兵衛(1643〜1703)は、辻話を始め、これが落語の祖とされる。また、京の公家に仕えたことのある近松門左衛門(1653〜1725)は、縁あって浄瑠璃を書くようになり、独立して大阪道頓堀に竹本座を興した竹本義太夫が、彼の仇討ち話の『世継曽我』(1683)で大成功する。同じころ、1685年、市川団十郎(1660〜1704)は、江戸市村座で坂田金平を演じ、金平浄瑠璃を取り込んで、「荒事」を確立する。そのキャラクターたちの異形面妖な風体は、人形を模したものだった。

1703年4月、大阪堂島で女郎と手代の心中事件があった。近松と竹本は、これを翌5月には人形浄瑠璃として上演。時事メディアとしての「新浄瑠璃」を確立する。05年には竹田近江の子、竹田出雲(?〜1747)が竹本座を引き継ぎ、みずから『菅原伝授手習鑑』を書く。彼らは江戸の団十郎とも交流があり、彼らの作品は、歌舞伎としても上演されるようになっていく。また、浄瑠璃の人形も大型化し、1734年の『芦屋道満大内鑑』で三人遣いとなった。


庶民の転倒文化

江戸時代も体制が整うにつれ、能の式楽化に見られるように、武家を中心とする伝統文化もまた硬直マンネリとなってくる。これに対して、庶民の側から、カーニバル的に価値転倒する新しい大衆文化も流行してきた。

俳諧は、連歌の機知的な座興を強調して遊戯化したもので、戦国時代に増補され続けた『犬筑波集』あたりを原初とする。秀吉の右筆(秘書)だった松永貞徳(1571〜1654)は、1615年、京都三条に、あくまで連歌入門のためのものとして、俳諧の私塾を開き、貞門派の祖となる。一方、八代加藤家の改易で浪人となった西山宗因(1605〜82)は、大阪天板宮連歌所宗匠をつとめつつも、あえて機知を重視する縦横無尽な俳諧を楽しみ、無心所着を旨とする談林派を成し、これに西鶴(1642〜93)なども加わった。西鶴は、『好色一代男』で浮世草子作家として売り出し、さらには義太夫を書いて、近松と張り合っている。

貞徳の弟子、京の北村季吟に学んだ松尾芭蕉(1644〜94)は、1675年に江戸に出て、独自の俳諧師となって、軽(かろ)みや侘びを取り込んだ蕉風を築き、1689年には『おくのほそ道』の旅に出る。また、その弟子筋は都市風と農村風に分化して衰える。その後、芭蕉を私淑する京都の与謝蕪村(1716〜84)、古歌取りの遊びを得意とする小林一茶(1763〜1828)も出た。

しかし、一般には1692年ころから、連歌未満の「雑俳」の「点取」が爆発的に大流行する。その中心は、「前句付」で、与えられた後句七七に前句五七五を付けて洒脱な機知を競い合うもの。会所が主催し、貞門派や談林派の宗匠が点者(てんじゃ)として出題、これに庶民が投句して、優秀作をまとめて出版。上位には扇子や杯などの景品が出た。

また、庶民文化から出た浄瑠璃や歌舞伎も、ふたたび庶民文化へと帰り戻っていく。著作権もなにもなく、江戸や大坂で一流劇団が当てた芝居は、二流三流劇団によってコピーされ、地方城下町などでも興行された。また、庶民が商用で江戸や大坂、城下町を訪れる機会も増え、ここで浄瑠璃や歌舞伎を見た人々が、見よう見まねでまね、村々でも芝居を演じるようになっていく。

重要なのは、浄瑠璃や歌舞伎が当初からカーニバル的な非日常の価値転倒性を伴っていたことである。カブキ踊りはもともと男女逆転の異性装を笑いの原点とし、浄瑠璃もまた人間を人形が演じるところに特徴があった。その後も歌舞伎に至っては、人形劇をさらに人間が演じるもので、活人画や人形振り(ただし浄瑠璃人形ではなく糸吊り人形)の演出を採り入れていた。さらに、道頓堀からくり芝居の竹田座では、幕間余興として、人形代わりに子供に無言で演じさせ、これが大人気となった。地方でも、祭礼の山車のからくり人形に代えて子供に演じさせる「曳山狂言」となり、また、人気芝居で子供が大人を演じる子供歌舞伎も各地に生まれてくる。

浄瑠璃や歌舞伎の全国的流行とともに、三味線も急速に普及する。義太夫は、三味線音曲としても画期的だった。それは、響きの重い太棹三味線で唸るもので、「義太夫節」と呼ばれた。一方、京都の都太夫一中(1650〜1724)は、中棹を遣い、その弟子の宮古路豊後掾(1660〜1740)は1734年、江戸に移って心中道中ものの「豊後節」をはやらすが、1739年に禁止されてしまう。そして、その兄弟子の宮古路文字太夫の作った、音程幅が狭く、ゆったり重厚な「常磐津節」が歌舞伎の基本BGMとなる。一方、禁じられた豊後節は、1751年、鶴賀新内によって、歌伸びと音程飛びの多い、一人流しの「新内節」となり、『蘭蝶』『明烏』など、遊里の端ものとして人気を得る。

細棹を使った歯切れのよい「長唄」は、舞踏曲『娘道成寺』などに用いられていたが、笛鼓のお囃子とともに歌舞伎の情景描写(「黒御簾」)に採り入れられていく。さらに1814年になると、豊後節の弟子筋で、高音の技巧を生かした艶っぽい「清元節」も、歌舞伎の場面の中に採り入れられた。また、落語の『寝床』(1775)で知られるように、上手くもないのに趣味で義太夫語りを習って人に聞かせたがる男も少なくなかった。

浄瑠璃や歌舞伎、音曲の流行はまた、出版文化の隆盛と表裏一体だった。それまでの写本に代って、京都で古典木版本が商業出版されるようになり、1682年になると、大阪で井原西鶴の『好色一代男』のような多種多様な通俗的浮世草子が大量に出版されるようになる。これらには、一色墨刷りながら菱川師宣(1618〜94)などの挿絵も入っていた。これと平行して、版元不明、絵師匿名で、大量の印刷春画も作られ、急速に印刷技術を向上していく。

十八世紀半ばにもなると、江戸で俳人たちが余興で豪華な多色刷りの暦を作るようになり、その原画を鈴木春信(1725〜70)のような肉質浮世絵師に依頼したことで、今日のグラビアに相当する芸術的な「錦絵」が印刷物として庶民の手の届くところとなった。しかし、ここで中心となったのは、結局は、庶民の関心の的、すなわち、遊里の美人画と歌舞伎の役者絵だった。

ここにおいて、勝川春草(1726〜93)を中心とする勝川派ができる。これを追って、歌川豊春(1735〜1814)が歌川派を成した。遊女や役者での人気は、美人画や役者絵と持ちつ持たれつの関係にあり、遊里や歌舞伎は、積極的に浮世絵師に協力した。とくに歌川派は、量産のため、総計五百名もの弟子を抱え、出版を斡旋。有力者には積極的に歌川姓と家紋を許した。この歌川家紋「年之丸」は、小屋との提携で、芝居木戸御免(無料)の特権があり、さらに多くの入門者を集めることになる。もっとも、勝川派を破門された幕末の天才、北斎(1760〜1849)は、なんのメリットもないにもかかわらず、一人に数百の弟子が押しかけたという。


教育文化と段位制

これらの庶民文化成立の背景には、教育水準の劇的な向上があった。急造の江戸や大坂には、地方から各家中の江戸屋敷や蔵屋敷に大量の武士がやってきただけでなく、これらの生活を支えるために、地方から大勢の人々が移り住んだ。くわえて、大阪の陣、島原の乱の後の改易などによって排出された多くの浪人武士なども江戸や大坂に流れ込み、当座の仕事で食いつなぐとともに、再仕官の機会を狙った。

実際、17世紀において、まだ社会は固まってはおらず、江戸や大坂には多くのチャンスがあった。それゆえ、奉公の機会を得るために、貧しい長屋の子まで、読み書き算盤を学ぼうとし、この需要に教養ある浪人武士が寺子屋を開いて応じた。寺子屋は、各町内にあり、それぞれ数十人の筆子を抱え、江戸だけで大小千件近くはあっただろうと言う。ここでは、「往来物」と呼ばれる印刷物が教科書として用いられた。これは、本来、往復書簡を意味したが、実際は、十二ヶ月二十五通にわたる『庭訓往来』(室町前期)のように、一般教養を学ぶことに重点が置かれている。

地理や歴史では、能が故事を題材とすることが多かったので、木版刷りの能の謡本が用いられた。とはいえ、庶民は、武家の式楽となってしまった能を見る機会は無かった。しかし、能のワキ方が副業として地謡を語り、やがて能を離れて地謡専門の役者が現れ、謡を教え始めるようになる。

また、京で小笠原流を学んだとかいう水島卜也(1607〜97)は、江戸で武家奉公のための礼法私塾を開く。とはいえ、本来の小笠原流は室町時代の弓馬を中心とする武道故実で、礼法としていかなるものだったか、危うい。にもかかわらず、早々に『小笠原百箇条』(1632)として往来物を出版。これが寺子屋に採り入れられ、標準化。幕府もまた、成り上がりの急ごしらえだったため、将軍綱吉は、子の徳松の三歳の髪置の儀で卜也に頼り、この自称小笠原流礼法が事実上の幕府公認となって、いよいよ全国に広まった。

実際の武家においても、戦乱の終わりとともに、国元および江戸で、日頃の武芸の修練養成が必要となり、これとともにそれぞれの家中で、その教育課程も整えられていく。薩摩島津家『示現流兵法書』(c1620)においては、四段位の別が立てられ、それぞれの技が論じられている。ただし、武芸は、それぞれの家中で秘伝だった。ところが、仕官志望の浪人、養子入りを要する次男、三男が増えてくると、市中に一般道場もできてくる。江戸だけで、流派は二百近く、道場は五百を超えたという。

しかし、その師範も、じつのところ、もはや実戦経験など無い。そんな中、剣客の辻月丹(1648〜1727)が小石川に辻道場を開く。その門人が、1678年ころ、実際に仇討ちを果たして有名になり、大名からその陪臣たちまで一万の門弟を得ることになる。一方、長沼道場は、正徳年間(1711〜15)に小手と竹刀を使い、安全に練習できる道場として、全国の一代流派に成長していく、これと並ぶのが中西道場で、1763年に痛くない胸当を導入。これもまた江戸だけで三千人の門弟を抱えるに至る。

これらの道場では、初段から十段、そして、免許皆伝、師範にまで至る細かな段位制を敷き、実戦無き時代に昇段を励みとした。教育課程を整え、師範を養成し、全国に道場分けしていくこの仕組みは、流派創始者一人を越える全国組織を成し、その「家元」は、武家などと同様の世襲利権となっていく。一方、各地方の家中も、他流派を知るべく、また、全国各地の家中と人脈を築くべく、優秀な若者を江戸などの道場に積極的に留学させるようになっていく。

とはいえ、戦乱は遠くなり、幕府も文治へ舵を切り、武芸試合が敬遠される一方、囲碁四家、将棋三家が幕府に抱えられ、固定された身分制にあって、将軍や大名から庶民まで、対等に実力で競い合える場として、御城勝負を頂点に各家門弟が切磋琢磨した。ここにおいて、有力棋客は弟子を取るようになり、ここでも、駒落ちでも勝てる程度に応じて、段位制が整えられていく。また、独習用の棋譜の出版も人気で、大橋本家家元、大橋宗桂(1555〜1634)らによって数々の詰将棋本などが出された。

また、商家はもちろん、武家においても、米本位の収税に伴い、武道よりも、測量や収支の計算事務の必要性が高まる。ここにおいて、それまでの算木に代わって算盤が普及し、武家の子弟教育はもちろん庶民の寺子屋でも、算術は必須科目となっていく。『塵劫記』(1627)などもまた、この算盤の実践的応用問題として生まれてきたものだった。しかし、算盤の四則演算だけでは解けない難問もあり、関孝和(?〜1708)らが中国の古い天元術を応用して代数学の基礎を打ち立て、一派を成す。

そのほかにも各地に算術の流派が乱立し、寺社の算額を通じて競って多くの弟子を集めた。しかし、土木測量などを除けば、これらの和算は実用性の無い趣味だった。しかし、関流で幕府天文方の山路主住(1704〜73)は、この算術にも段位制による教育課程を整え、武芸同様、各家中からの留学生を迎え入れ、一代流派へと成長させた。

ところで、茶道は、武家に伝わるのみとなり、一時、沈滞してしまう。町人の三千家も、表千家は紀州徳川家、裏千家は加賀前田家、武者小路千家は高松松平家と、やはり武家茶道として命脈を保つのみだった。ところが、18世紀半ば、表千家七代如心斎が、三井家などの町人門弟を大量に受け入れ、裾野の広がる家元制を整えて、一気に派勢を拡大。作法も、狭い茶室から八畳敷一間床五人という開放的なものに転換。これを受けて、その実弟の裏千家八代又玄斉(1719〜1771)、武家から養子に入った武者小路千家七代直斉(1725〜82)も、家元制を採り入れた。

しかし、一触即発の戦国時代の武将たちが沈黙のツバ競り合いする狭い茶室と違って、市井の庶民が集って広間で茶を飲んだところで、俳諧ほどにも、世間話以上の意味があるわけではない。そこで、これらの三千家の三宗匠は、マンネリ化する練習に緊張感を取り戻すべく、勝負ゲームの「七事式」を制式化し、弟子たちの興味を盛り立てた。これは、花月、且坐(さざ)、廻炭、廻花、茶カフキ、一二三(ひふみ)、員茶(かずちゃ)の七つの特別な茶事で、基本は広間の五人で行われる。花月は四服点ての真剣勝負。且坐は、濃薄花炭香一式を亭主濃、半東薄、正客花、次客炭、三客香と手分け。廻炭は茶は点てず、順に炭を積む。廻花も茶は点てず、順に花を生ける。茶カフキは六人で濃三服の銘柄当て。一二三は、手前を客が採点。員茶は七人以上、札により主客を割り当てるというものである。

また、活花は、供花として寺社に生まれ、公家や武家で嗜まれてきたが、それまでの立花や投入に対し、江戸後期の化政文化で、綺麗寂びを好む小堀遠州を祖とするとされる遠州流の名人たちによる、技巧と意匠をこらした奇矯な「曲生け」が話題を集め、多種多様な花器の販売とともに、庶民の習い事としても確立されていった。


社会対流のための女子教育

このような江戸時代庶民の驚異的な教育と文化の隆盛の基底には、都市、とくに江戸の慢性的な女性不足という問題があった。参勤交代で地方家中から江戸屋敷に来る武家の大半は単身赴任であり、また、これらを支えるために地方から上京する者も、圧倒的に男が多かった。このため、江戸は人口およそ50万人、うち女性は18万人。まして、適齢期の独身女性となると、一万もいない。

にもかかわらず、寺子屋では、女子のほうが多いことも珍しくなかった。というのも、女子は、教育を得て武家奉公し、気に入られれば、名目上の養子としてもらうことで、武家に嫁ぐこともできたからである。そうでなくとも、武家出入りの大店の商家などへの婚談の道が開けた。このため、商家も、庶民も、実家隆盛の期待をかけて、女子教育にはケタ外れに熱心だった。とくに、三味線は、小唄「岡崎」を初めに、女子教育に必須とされた。

西鶴他による浮世草子『万の文反古』(1696)巻二「縁付前の娘自慢」にも次のように記されている。「なんの町人の要らざる琴小舞踊までを習わせ、カブキ者のように御仕立て、わけもなきことに存じ候。我々連れが娘は、さながら下戸働きこそさせまじ。似合いたる手業、真綿つませ、糸屑なりともひねらせ置けば、見分けは良くて、世帯のためになり申し候。」

また、よく引用されるものとして、式亭三馬『浮世風呂』(1809〜13)第三編上ノ16(国文学研究資料館200015779, 190/348)の一節がある。

「わたしのおっかさんはきついから、むしょうとお叱りだよ。まぁ、お聴きな。朝むっくり起ると、手習のお師さんへ行ってお座を出してきて、それから三味線のお師さんのところへ朝稽古にまいってね、うちへ帰って朝まんまを食べて、踊りの稽古からお手習へ回って、お八つに下ってから、湯へ行ってまいると、すぐにお琴の御師匠さんへ行って、それから帰って三味線や踊りのおさらいさ。そのうちにちいっとばかり遊んでね、日が暮れるとまた琴のおさらいさ。それだから、さっぱり遊ぶヒマがないから、いやでいやでならないわな。

わたしのおとっさんは、いっそかわいがって、気がよいからね。おっかさんが、さらえ、さらえ、と、お言いだと、なんのそんなやかましくいうことはない、あれが気ままにしておいても、どうやらここうやら覚えるから、うっちゃっておくがいい、御奉公に出るための稽古だから、ちっとばかし覚えればいい、と、お言いだからね。

おっかさんは、きついからね。なに、稽古するくらいなら、身に染みて覚えねえじゃ役に立ちません、女の子は、私のうけ取りだから、おまえさんはお構いなさいますな。あれが大きくなったとき、後悔とやらをいたします。おまえさんが、そんなことをおっしゃるから、あれが私を馬鹿にして、言うことを聞きません、なんのかのと、お言いだよ。

そしてね、おっかさんは幼い時から無筆とやらでね、字はさっぱりお知りでないわな。あのね、山だの海だのとある所の遠くの方でお産れだから、お三味線やなにやかもお知りでないのさ。それだから、せめてあれには芸を仕込まねえじゃなりません、と、おっかさん一人でじゃじゃばっておいでだよ。ああ、ほんとうに。」

喜田川守貞『守貞漫稿』(1853)第23編「音曲」(国立国会図書館000007325546)にも、同様のことが記されている。「守貞曰く、女子三絃浄瑠璃をもっぱらと習うこと、すでに百余年前よりの習風なり。今世ますますこの風にて、女子は七、八歳より学ぶ。母親はとくに身心を労して師家に遣る。江戸はとくに小民の子といいえども、かならず一芸を熟せしめ、それをもって武家に仕えざれば良縁を結ぶに難し。」

さらに良家の女子となると、三味線よりも琴を習った。しかし、これは、かなりカネを要した。また、武家奉公のために、囲碁将棋を習う女子も少なくなかった。これは、主人や奥様、御子息の勝負のお相手を直々に務めることで、他の奉公娘よりお近づきになれるからである。(家格の低い大久保利通も、囲碁の技量によってこそ、家主島津久光と会うことができた。)武陽隠士『世事見聞録』(1816)六巻には「裕福の町人の娘どもは、寵愛のあまりに踊り狂言を習わせ、錦金襴そのほか芝居役者同様の衣装を飾り、宿にて芝居を為す」というように、度を超したものもあったようである。

守貞によれば、江戸でも男子や、女子でも京阪では、武家に仕えないので、音曲を学ばない、と言う。しかし、武家の男子でも事情は似たようなもので、長男は親の身分を世襲できるが、それ以下の次男、三男は、身分そのものを得ることができない。だが、武芸や算術に長けていれば、いったん高位の武家の養子となって、家中の跡継の無い武家の養子や婿に入ることができた。段位は、家元による人格証明であり、これにさらに高位の武家の養子という社会的な裏書を得ることで、社会階層を移動することができたのである。

とはいえ、江戸時代、死別率、離婚率は異様に高かった。しかし、圧倒的に女性が少ないので、再婚はかんたんで、三行半も実際は再婚可の証明書として女性から要求した場合が少なくなかったようである。親元が健在であれば、一時的に実家に戻って良縁を求め直すことになるが、そうでなくとも、再婚までの場つなぎに、常磐津や長唄など、三味線の女師匠として、一人で身を立てていくことも可能だった。女師匠めあてに、いくらでも男の弟子が集まったからである。このため、幕末には女師匠の弟子取りは禁じられたりもしている。


江戸時代の文化的多元性

江戸時代というと、硬直した家制度の身分世襲社会を思い浮かべがちだが、文化の面では、自由闊達な文化が醸成され、それも、その硬直した身分世襲社会の価値を転倒するようなもの、すなわち、カブキ踊りや春画のようなカーニバル的バーレスク、心中話や仇討話のような私的抵抗の悲劇、身分を超えて対等に競い合うゲーム的な点取俳諧や七事式茶道、算術額奉納が人気だった。

これらの気風は浄瑠璃や歌舞伎、そして、寺子屋や三味線を介して庶民の生活の津々浦々まで浸透し、実際、女子教育や段位獲得と武家奉公、養子婚姻によって、家制度を正面から否定することなく、その身分世襲社会に風穴を開けるものとなっていた。だからこそ、江戸時代は、相応に安定して三百年近くも続くことができたのだろう。

そもそも身分世襲社会にしても、武家がかならずしも裕福ではなく、一方、役者が遊女が人気と待遇を誇りながらも世間に蔑まれるなど、その「身分」はかならずしも一元的で直線的な規準に基づくものではなく、多種多様な上下関係、力関係が組み合わされたものであり、奇妙にうまくバランスが取れていた。

このことは、なにもかも「自由平等」として権威も身分も段位も意味を持たなくなった現代と比較すると、いっそうわかりやすい。すべては、結局、いくらになったか、逆に経済的な利益で一元的に計られるようになり、ここに価値転倒の風穴の余地は無い。いかに趣味や文化で功績を挙げても、経済的な利益がなければ、「負け犬」扱いとなって、自己評価を下げる。逆に、なんの意味も無い趣味や文化でも、それで大金を得られれば、成功者として憧れの的となる。

果たしてどちらが「自由」なのか。我々は、いまさら江戸時代のような硬直した家制度を好むところではないが、現実には経済格差とともに、江戸時代とは別様ながらも一種の身分世襲社会に陥りつつあるようにも思われる。そして、趣味も、文化も、経済的な利益を規準とすることで、それ楽しむ余裕を失ったようにも思われる。社会の風穴とならないまでも、心の豊かさを保つために、我々はもういちど芸術を楽しむ道を切り開くことはできないだろうか。