先日、引退試合を行った内田篤人。ミスが少ないことが一番の魅力の、まさに好選手だった。右サイドバック(SB)は、1試合に縦のスペースを幾度も往復するポジションだ。長い間、両サイドにサイドアタッカーを各1人しか置かないサッカーをしてきた日本では、特にそうした傾向が強かった。現在もその傾向は他国に比べて強く残るが、その結果、SBは重労働を強いられることになった。
 
 当時、日本ではきつい、汚い、危険を意味する3Kという言葉が流行っていた。労働環境の悪い職場を指す時に用いられたが、サッカーに置き換えるとSBがそれに該当するポジションになった。タッチライン沿いに伸びる縦105mの長いエリアを、たった1人でカバーすれば、疲労の蓄積は他の選手より早くなる。

「全力で往復すると5回目ぐらいから足に来る」と、あるSBは語った。「どんなに頑張っても、後半35分までが限界」と言うSBもいれば「疲労感が足に来ている上に、クロスボールの精度まで求められるのは辛い」と述べるSBもいた。割の合わない職業であることは明白だった。SBは子供たちが憧れるポジションにはとても映らなかった。

 加茂ジャパン、ジーコジャパン時代、4バックと言えば、ブラジル式の中盤ボックス型4-2-2-2が一般的だった。サイドアタッカーは両サイドSB各1人だった。もっぱら3-4-1-2で戦ったトルシエジャパンしかり。サイドアタッカーは両サイド、ウイングバック各1人だった。表記は4-2-3-1でも実際には、その形が維持される時間が短かった岡田ジャパン、ザックジャパンもそうだった。

 3Kが流行した時代に、代表チームでSBを務めていたのは、三都主(アレッサンドロ)、加地亮、駒野友一、内田篤人らになる。「三都主は走れない、守れない、裏を突かれやすい」とか、巷でさんざん言われたものだった。その理不尽さに満ちた境遇、そして監督が標榜するサッカーの、構造的な問題を指摘する声は、かき消されてしまった。

 内田が日本代表で頭角を現したのは、岡田ジャパン(第2期)の時代で、その4-2-3-1の3の右には中村俊輔が看板を貼っていた。しかし中村俊は、サイドアタッカーという自覚がなかったのか、実際にはピッチの真ん中でゲームメーカー然とプレーする時間が大半を占めた。右サイドは内田1人になることが多かった。

 当時の内田は20歳そこそこ。苦しいプレー環境の中、ミスを犯しても不思議はない、経験不足の若手だった。実際ミスはあったのかもしれないが、こちらの脳裏には、そこで披露した好プレーの方がより鮮明に刻まれている。頭脳的でクレバーな選手。SBとしての持久力、直進性に加え、ポジション感覚、バランス感覚にも優れていた。何事もそつなくこなすところに最大の魅力があった。

 日本のSBは長い間、一に持久力、二に直進性が求められてきた。そもそも、攻撃参加は二の次だった。まず守り。攻撃参加は余力がある時に限られていた。常時行うプレーではなかった。少なくとも、加茂ジャパン、岡田ジャパン(第1期)の頃までは。

 基本的なポジションが、現在より大幅に低かったこともその理由のひとつだ。4バックの最終ラインは、マイボールに転じると実質2バックの状態になるのが現在の一般的な姿になるが、当時はそうでなかった。それが明確になったのは代表監督にオシムが就任してからだ。その様子を見たテレビの実況アナウンサーは「なんと2バックで守っています!」と感嘆の声を挙げたほどだった。

 SBの平均ポジションは、かつてと比べ5m〜10m上昇した。攻撃参加も、後方から長躯駆け上がるスタイルから、周囲とパスを交換しながら、ジワジワと上がっていくスタイルに変化してきている。将棋の駒で言えば、香車だったかつてから、金や銀の要素を兼ね備えた、サイドで構える中盤選手といった感じにキャラクターを変えている。