23日のG大阪戦が現役ラストマッチとなる内田。日本代表では攻守に貢献度の高いプレーで右サイドを支えた。写真:サッカーダイジェスト

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 ゲルゼンキルヘンの中央駅は殺気立っていた。地元のシャルケ04が、伝統のルール・ダービーでドルトムントに逆転負けを喫した。しかもライバルクラブは3日前にバイエルンとの首位攻防戦も制し、連続無敗記録を「25」に伸ばして意気揚々と帰っていく。警官に制止されたシャルケのサポーターは、唾を吐き罵声を飛ばして精一杯の抵抗を示していた。

 シャルケのスタメンとして85分間プレーした内田篤人は、ミックスゾーンに顔を出すと飄々と話し出した。顔見知りが多かったせいか、雑談も混じりそこに本音が覗いた。
「青と黒(チームカラー)のスパイクしか履けないなんて、こっちへ来て初めて知った。結局試合には勝たなきゃね。1対1の勝率とか、走行距離とか、勝てばどうだっていい」

 その後はドイツと日本のレフェリーの力量の乖離など、忖度なく真実を率直に口にするところが内田らしかった。

 8年前の春、日本サッカーは確実に上げ潮ムードに包まれていた。2010年の南アフリカ・ワールドカップを終え、シャルケに移籍した内田はいきなりレギュラーの座を掴むと、チャンピオンズ・リーグ(CL)でクラブ史上初のベスト4に進出。香川真司はドルトムントの中核として大ブレイクを果たし、前述のバイエルン戦翌日にオランダへ足を延ばすと「VVVフェンロ−フィテッセ」戦では、吉田麻也を筆頭に両軍合わせて3人の日本人選手がベンチ入りしていた。また同じくVVVで基盤を築いた本田圭佑はCSKAモスクワで躍動し、チェゼーナからインテルへ飛躍した長友佑都はCLで内田との日本人対決も実現させた。歴史を振り返っても、日本代表が最も充実していたのは、苦手だったアルゼンチンを下し、カタールのアジアカップで優勝を飾り、ライバルの韓国を3-0で一蹴したアルベルト・ザッケローニ体制前期だったのではないかと思う。

 基盤になったのは、結成当初は期待薄とみられていた2008年北京五輪に出場したチーム。実際彼らは五輪で3連敗を喫している。

 大会を去る時に反町康治監督は、すすり泣きが響くロッカーで選手たちに伝えた。
「オレはもうこうして海外で試合をすることはないだろうけど、あなた方はこれからもどんどん国際経験を積み重ねていくだろう。10年後に、また会おう。だからそれまではどんなカテゴリーでもいいから、現役を続けるんだぞ」

 結局世界との差を体感した選手たちは、屈辱をバネに次々に海外へと飛び出していった。

 キャリアを見る限り、内田は典型的なシンデレラボーイだ。鹿島で高卒1年目からレギュラーに抜擢され、2年目からはチームの3連覇に貢献。ブンデスリーガでも強豪チームに移籍しながら、あっさりとスタメンを掴み取っている。

 しかも輝かしいのはキャリアだけではなかった。業界内では「内田を表紙にすると売り上げのケタが変わる」との伝説が生まれたほど、女性の新規ファンを一気に開拓していった。シャルケの練習を見学した経験はないが、日本代表が欧州ツアーに出れば必ず「ウッチーサポ」の塊が目に入った。部活出身なのに涙や汗の匂いがなく、いつも涼しげに及第点のプレーをこなしていく。もちろん内田には、走力やキックの精度などのベースがあり、本場で経験を重ね状況判断も磨かれて来た。だが同時に、こうして喜怒哀楽の表現を最小限にとどめられるメンタルも、SBとしては重要な資質だったのだと思う。
 
 所属クラブでの順風満帆ぶりとは裏腹に、代表では節目ごとに辛酸をなめた。地元静岡で開催されたU-16アジア選手権ではグループリーグで敗退し、北京五輪でもまさかの全敗。2010年南アフリカ・ワールドカップでは岡田武史監督の土壇場での戦術変更の影響でベンチに座り、さらに4年後のブラジル大会でもフル出場はしたが惨敗した。