独特ななぞかけのネタで人気を博す女性芸人の紺野ぶるまさん(33歳)に、これまでの半生を伺いました(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむが神髄を紡ぐ連載の第81回。

R-1ぐらんぷりで3年連続決勝進出

紺野ぶるまさん(33)は、松竹芸能所属のお笑い芸人だ。


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2017年、2018年と連続で『R-1ぐらんぷり』の決勝進出、『女芸人No.1決定戦THE W』では2017年、2018年、2019年と3年連続で決勝進出する実力派だ。

そんな紺野さんだが、最も知られているのが、下ネタなぞかけだ。どんなお題でも下ネタで解くという、一聞すると下品なネタだが、実際に拝聞すると、できもよくみんなが笑えてかなり面白い。

彼女には下ネタに一家言あり、先日『下ネタ論』(竹書房)という本を上梓した。


『下ネタ論』(竹書房)

彼女はなぜお笑いの道を進むようになり、そして下ネタなぞかけに行き着いたのか? そしてこれから目指すところはどこなのか?

紺野さんは、祖父母の家がある静岡県で産声をあげ、その後は東京都下で育った。

保育園時代は、病弱で入院しがちだった。

「小さい頃は女の子っぽいものが大好きでしたね。お姫様とか、セーラームーンとか。

スカート禁止の保育園に通っていたんですけど、どうしてもスカートがはきたくて、保育園までスカートで行ってズボンにはき替えて、また帰りにはスカートにはき替えて帰っていました」

同級生に好きな男子もいて、告白するような少しおませな女の子だった。

小学校に入学すると、クラスの男子にイジワルをされるようになり、だんだん男っぽい態度をとるようになっていった。

「男子が暴力を振るうと、先生はすぐ『好きの裏返し』って言うんですけど、今思うと絶対違いますよね。女の子っぽい態度が男子にとって生理的に気に食わないんだと思います」

病弱だった幼少期とは打って変わって、運動神経は抜群によくなった。しかし、勉強はまったくついていけなかった。

「若くてかわいい先生に

『なんで頭悪いのに、そんなに明るいんですか?』

って言われてました。今考えると、ものすごくひどい言いようですよね」

小さい頃は病弱で病院の世話になることが多かったので、大人になったら看護師になりたいと思っていた。ただ、小学校2年生のときに

「こんなに勉強ができないなら、看護師になるのは無理だな」

と夢を諦めた。

まだお笑い芸人になるという夢は持っていなかったが、お笑い番組は好きだったし、クラスメイトを笑わせるのも好きだった。

「クラスの男子たちが話す下ネタは憧れでしたね。実はいまだに憧れています(笑)。

小学校のとき、男子が桃太郎を下ネタアレンジして話し始めて。必死に笑いを堪えていたんですけど、耐えきれず思わず吹き出してしまいました」

中学校に入るとバトミントン部に入り、みっちり週6日練習していた。都大会のベスト8に入る好成績を収めていた。

ただ、クラスメイトも好きだし、部活動も好きだったが、学校自体はどうしても好きになれなかった。私立の女子校に進学した後も、バトミントン部に入ったが、ゆるい練習に手応えを感じず嫌になってやめてしまった。

そしてそこからは、急激にギャルになった。

「当時の私は『高校生であるうちに、制服を着てギャルをやりたい』という衝動を抑えることができなかったですね。日サロでガンガン身体を焼きまくって、エクステつけて、行くとこまで行ってました」

もちろんさまざまな人から、ギャルをやめるよう説得されたが、その都度

「形式的に止めやがって!!」

と強く反発した。

学校には親に無理やり行かされていたが、年に50回くらい遅刻していた。

校長先生に暴挙を働き退学

最終的には、注意をしてきた校長先生をおでんの汁で囲んで翌日退学になった。

「『髪の毛は真っ黒以外ダメ』『化粧もダメ』な真面目な学校だったんです。そんなの何がかわいいんだ!! って反発してました。今思うと黒髪でスカート長い女子高生のほうがかわいいと思うんですけどね(笑)。あの頃は人生の選択肢、全部間違ったほうを選んでました。

小中高とずっとしんどかったです。友達と遊んだり、部活は楽しかったですけど、ほかはずっとつらかった。月曜日の2時間目とか、ものすごい絶望感でした」

高校を2年で退学した後は、通信制の学校に移った。学校に通うのは月1回になった。基本的に在宅の日々が続いた。

「矛盾してるんですけど、それはそれでしんどかったんです。いざ寝られるとなると眠くならない。遊べる時間がたっぷりあると、遊ぶ気にならない。髪の毛もあんなに染めたかったのに、いつの間にか真っ黒になりました。ルールがないからずーっと無なんですよ」

週5日カラオケ屋で真面目にアルバイトをした。バイトを終えて家に帰る途中、

「あれ? 何やってるんだろう?」

と思い、悲しくなった。

今、人生を振り返ると、いちばんの暗黒期だった。

そして高校を卒業した。

卒業した後は、母親と相談してヘアメイクの学校へ通うことを考えた。

「確かに髪の毛巻くのとか好きでした。でもよく考えたら、人の髪を巻いてあげたいんじゃなくて、自分の髪を巻いてもらいたいんだって気づいたんです。数百万円も払って専門学校行っても、意味ないなって思いました」

「本当にやりたいことってなんだろう?」

と真剣に考えた末、

「自分がキレイになって注目されたい」

なのだと気がついた。

「思い出せば小さい頃から、芸能界に憧れがあったんですよね。『まさか自分が』と思って深くは考えていなかったですけど……」

そして18歳で大手芸能事務所のオーディションを受けた。事務所からは

「面接だけしたら、特待生としてすぐにデビューできるよう計らいたい」

といううれしい連絡がきた。

「うれしかったんですけど、その面接に2時間遅れちゃったんです。わざとではなかったんですけど、ありえないですね」

初対面の担当者は

「てめえ何してんだよ!!」

と紺野さんを怒鳴った。紺野さんは思わず泣いてしまった。そしてその話はご破算になった。

「残念でしたけど、今思えばあのタイミングで芸能界に入ってても、何かやらかしちゃってただろうな、と思います。調子に乗って遅刻したり、未成年なのに酒やたばこに手出したりしかねなかったです」

それからは手当たり次第、モデル系のオーディションを受けた。ただし引っかかるところは、写真撮影代50万円、レッスン代10万円など高額な金銭を要求するところだった。

冷静に考えると、かなりインチキくさい事務所だったが、若い紺野さんはお金を払って所属した。総額100万円以上はつぎ込んだという。

「さすがにいろいろ気づいて『もうやめる!!』って言うと、ファッションショーに出させてくれました。ショー自体は小規模ながらちゃんとしてたんですけど、着させられたのはゴミ袋みたいな服でおまけに目隠しをするという体型も顔も関係ないものだったんです」

「あ、これは私、だまされてるな」

舞台袖にはけて、自分と同じ立場のモデルたちを見ると、いかにも勘違いしているような人たちがたくさんいた。客観的に彼女たちを見て

「あ、これは私、だまされてるな」

と気がついた。

それで気落ちしたせいか、体調も崩してしまい、しばらく家で臥せってしまった。

「家でテレビを見ていたら、くまだまさしさんと、鈴木Q太郎さんがテレビでネタをやっていました。1枚のブルマを2人ではいて、笑わないようにする、というネタだったんですけど、お腹を抱えて笑いました」

笑った後に、

「こんな大人になりたい」

と思った。

今まで考えてもいなかった、お笑い芸人という道を考えるようになった。

21歳のとき、松竹芸能へ所属することにしたが、まだ芸人になるとは決めておらず、女性タレントコースに応募した。養成所に行って、日舞やタップダンスを教わった。そこまでは、今まで入っていたモデルの事務所と変わらなかった。むしろ、当時の紺野さんにとって、いちばんためになったのは

『芸能界に入るのはどういうことか?』

という基本的なレクチャーだった。

例えば「信号無視はしてはいけない」など、人に見られる仕事をするうえで留意しなければいけない点を教わった。

紺野さんは、人間として初めて生まれたような気持ちになった。

「それまで私、ぐちゃぐちゃだったんですよ。かなりイカれてたと思います。養成所のレクチャーを受けて、人としてギュッと引き締まった気がしました。それまではアルバイトも続かなかったけど、真面目に行けるようになりました。マジで人生変わりました。リハビリを受けたみたいでした。

お笑いコースのネタ見せを見学すると『ネタを最初から書ける人なんて1人もいなくて、初めは手探りでもいいんだな』と思いお笑いコースに通い始めました。

松竹芸能に入っていなかったら、私の人生やばかったと思います。感謝しています」


養成所で、人間として初めて生まれたような気持ちになったという(筆者撮影)

いきなり1人でお笑いをする勇気のなかった紺野さんは、小学校からの友人に声をかけた。友人は、紺野さんが先生に

「なんで頭悪いのに、そんなに明るいんですか?」

と言われたときも、横にいて支えてくれた人だった。

くまだまさしさんと鈴木Q太郎さんのネタに強い影響を受けた紺野さんは、ブルマをはいて芸をすることにした。

「おかっぱのカツラをかぶって、上はチアガールの服にブルマをはいて

『はいてるブルマは無限大!!』

と言って踊りだして……今思うと全然面白くないですね。わけがわからない(笑)」

養成所では大不評だった

養成所でネタ見せをすると、大不評だった。

「21歳の女性がブルマ姿で出てきたら、客はどう思うかわかる?」

と怒られた。

「当時の私は女を捨ててやってるつもりでしたし、ハレンチな気持ちになるなら、そんな気持ちになるほうがおかしいだろうと思ってました」

最初は手伝ってくれた友人も、就職が決まると

「あとは1人でできるでしょ」

とやめてしまった。

その後も、紺野さんは面白いと信じて1人でブルマ芸を続けた。しかし、賞レース『R-1ぐらんぷり』では3年連続で1回戦負けをしてしまった。

「1回戦負けをして、違うんだな、変わらなきゃいけないんだな、と思いました」

芸人の下積み時代と言うと、つらく、厳しいイメージがあるが、実は紺野さんは実はまったくそんなことはなかったという。

「今思うと全然うまくいってないんですけど、その頃はなぜかうまくいってる気がしていました。希望の塊でしたね。収入は0円でしたけど、いくらでもこれから羽ばたいていけるんだ、って思ってました。芸人1年目がいちばん幸せだったと思います」

月収0円だったので、収入は全部アルバイトで稼いだ。居酒屋のチェーン店で働いたが、かっこいい男子女子が集まっていて、みんなでスノーボードに行ったり、ダンスをしたり楽しい日々だった。

お笑いのライブに行けば、仲間たちがいてこちらも充実していた。

「高校卒業までが暗黒期でしたから、毎日が天国じゃん!! って思ってました。まだ21〜22歳だから世間的に、好きなことしてて許される歳でしたし。両親も『やっと人間として生き始めてくれた』と思ったのか、黙認してくれていました」

だが、お笑いのほうのレベルはなかなか上がっていけなかった。

ブルマネタに限界を感じた後は、モノマネ番組のオーディションに出た。普通の番組のオーディションは事務所が選出してしまうのだが、モノマネ番組は受け口が広かったからだ。

「君、背高いんだし江角マキコのモノマネとかどう? って言われたら、次の週にはショムニの衣装用意して脚立担いでスタジオに行ってました。根が真面目なんです」

ちょくちょくテレビには出られるものの、なかなかうまくいかないまま26歳になった。

母親に

「もう、そろそろお笑いはいいんじゃない?」

と諭された。紺野さんは

「何を馬鹿なことを言ってるの? これからだよ!!」

と反論した。しかし母の説得は続いた。

「『結婚してほしい』『子供産んでほしい』『医療事務の資格を取って働いてほしい』って毎日のように言われました。それで、限界になってケンカになりました。お互いすごい泣いて、申し訳ないけど母親の期待には応えられないと宣言しました」

その頃には、芸人1年目のような幸せ感はなくなっていた。徐々に後輩の中にも売れる芸人が出始めてきた。

「……あれ? 一生売れないかも? いつか売れるって信じてたけど、そんな確証どこにあるの?」

と不安になってきた。

そんな悩める日々を過ごしていた頃、コージー冨田さんが主催するなぞかけのライブに呼ばれた。

なぞかけで下ネタが大ウケ

もともと、なぞかけは好きで、1分半なんでもいいからとにかくたくさんなぞかけをするコーナーで、「ハンガーとかけまして」の問いに対し紺野さんは下ネタで返した。

会場からは大きな笑い声が聞こえてきた。そしてそれからのすべてのなぞかけを、下ネタで解いた。

会場ではスタンディングオベーションが起きていた。

「すごいウケて、ものすごくうれしかったです。ただ、松竹芸能は下ネタに対してすごい厳しいんです。それから2年間くらいは事務所に黙って内緒でライブをしていました」

ただ、ねづっちさんがテレビ番組『お願い!ランキング』に紹介してくれたため、番組放送後は公になってしまった。

オンエアの翌日からは、少しずつ仕事が入ってきた。

『『ぷっ』すま』『有吉ジャポン』と名だたる番組にも呼ばれ、オーディションも通りやすくなった。

「このチャンスに人生変わらなかったら、一生売れない人なんだろう。ダメだったらこれで諦めよう、と思いました」

そんな真摯な覚悟をして挑んでいた下ネタだったが、事務所の対応は惨憺(さんたん)たるものだった。マネージャーからは

「とうとうヨゴレ決定、おまえ何してんねん!!」

となじられた。

そんな折、伊集院光さんの『伊集院光のてれび』に出演することになった。

伊集院さんは、

「いつも見てるよ」

と言ってくれた。そして、自身のラジオ番組『伊集院光 深夜の馬鹿力』にて下ネタなぞかけについて

「彼女は、むずかしい芸事をやっているね」

と感心しつつ紹介してくれた。

伊集院さんの発言で周りの雰囲気が変わった

「伊集院さんがそう言ってくれたおかげで、周りの雰囲気がガラリと変わりました。『汚れだな』と言ってたマネージャーも、『キモい』と言ってた芸人仲間も、急に手のひらを返して『むずかしい芸事をやってるね』って言ってきました」

その勢いで『下ネタなぞかけ』で突破できるか?と思った『R-1ぐらんぷり』だったが残念ながら2回戦で落ちてしまった。

また困ったことに、下ネタをやっているため、直接的にエロチックな仕事が回ってくるようになった。

経験人数を聞かれたときは、

「それに答えて私になんの得があるんですか?」

と、ハッキリと答えた。しかし逆にそれが高評価で、出演が決定してしまったこともあった。

「私の中では、下ネタとエロって真逆なんです。でもそんなの誰にもわかってもらえませんでした。腰を振るゲームとか、パンツが丸見えになるようなゲームとかやらされて、当時は本当に嫌でした」

ただお笑い芸人としての立場は、苦しみながらではあるものの徐々に上がっていった。

テレビなどの出演も増えた。だが高みに登った分、周りがよく見えるようになった。

「周りを見たら、私って全然ダメじゃん、って気がつきました。満を持して、下ネタをやったのに、ハッキリした結果は出ませんでした。自分の伸びしろだと、今後お笑い芸人で食べていくのは無理だなって思いました。いつまでもバイトしてるわけにはいかないし、両親もいつまで元気かもわからない。生きていくためには、もう芸人をやめなくちゃいけないんだな、と諦めました」

落ち込んで、したたかに酔っぱらい、

「このまま私は芸人をやめるんだな」

と考えていたら、泣けてきた。

そして心から、やめたくないと思った。

「自分には、お笑いがないとダメなんだな、って思いました。そしてもう一度、コントを書くことにしました。

『絶対に、賞レースの決勝に行く』

って決めました」

その頃には芸人1年目に感じていたような幸福感はまったくなくなっていた。根拠のない自信も消え失せていた。

周りにいる芸人仲間を、全員敵だと考えてにらみつけていた。そして舞台袖でみんなのネタを見ては細かく研究を重ねた

『準々決勝進出おめでとう!!』

などとLINEが入っても

『は? 決勝行くし、ここでおめでとうとか言ってるんじゃないよ!!』

と怒って、いっさい返信をしなかった。

気づいたら、友達は全員いなくなっていた。

そして『R-1ぐらんぷり』の予選では、「絶対にウケるぞ!!」

と死ぬ気でボケた。

そして、3回戦で爆発的にウケた。

「最初のボケでドンとウケたときには、壇上で泣きそうになってしまいました。『R-1ぐらんぷり』は芸人の覚悟も評価されます。私が死ぬ気でやってるのが、見ている人たちに伝わったんだと思います」

そして、2017年『R-1ぐらんぷり』にて初の決勝進出を遂げた。

翌年の『R-1ぐらんぷり』でも決勝進出。

『女芸人No.1決定戦 THE W』では2017年、2018年、2019年と3年連続決勝進出するなど、賞レースの決勝の常連になった。

「その頃からやっとお笑いだけで食べられるようになりました。テレビ出演はそんなに多くないですけど、営業に呼ばれる機会が増えました。企業の忘年会や、公営賭博の余興に出演しています。ただ新型コロナの影響は大きいので、先行き不安ではありますね」

賞レースの決勝の常連にはなれた。だが、いまだに優勝はできていない。決勝ではむしろ最下位になってしまうことが多い。

準決勝はいいが決勝では結果が出ていない

「賞レースでは準決勝のときがいちばんウケるんですよ。決勝では肩に力が入りすぎているというか、思いが強すぎて空回りしてるのかもしれないです。このまま熱を帯びてお笑いを続けても優勝はできないかもしれない。ちょっとクールダウンしないとダメかもしれないな、と思いました」

実は昨年まで、

「死んでも決勝に行く!!」

という、戦闘モードは続いていたという。

ここのところ、やっと落ち着いたと紺野さんは語る。

「昨年になって本の執筆の仕事をいただいたり、エッセイや脚本の仕事をいただいたりして、書く仕事も楽しいなと思うようになりました。視野を広げるのも大事だと感じています。


「書く仕事も楽しい」と語る紺野さん。先日『下ネタ論』を上梓した(筆者撮影)

少し熱を冷まして、また賞レースで優勝を目指したいと思ってます。そうしたら、スルッと優勝できたりして? と考えたりしています。

今後は、例えば同じ松竹芸能の大先輩である笑福亭鶴光師匠とからませてもらって、下ネタという日本の伝統芸能を育んでいけたらいいなとも思っています」

紺野さんは、

「少し熱を冷まして……」

「お笑いに固執するのは少しやめて……」

と口では言っているのだが、お笑いの話をするときの目はとても情熱的だった。

一度決めたことは何があっても譲らない、強さを感じた。そして依然として、彼女の中の戦闘モードは続いているように見えた。

下ネタも、賞レースも、そして新たなる試みも、これからの紺野さんの活躍に期待したい。