としまえんの入口。高度経済成長期以降のとしまえんは、西武鉄道にとって多くの利用者を生み出す集客コンテンツだった(筆者撮影)

東京・練馬区に所在する遊園地「としまえん」。同園は1926年に一部を開園、翌年に全面開園を果たした。約1世紀にわたって東京都民・埼玉県民から愛されてきた遊園地は、8月末をもってその歴史に幕を降ろす。

豊島園(現・としまえん)は、実業家・藤田好三郎が所有する豊島城址跡地を庭園として整備したことから始まる。藤田の意向から、庭園は一般に開放。豊島園は都心から近い遊園地として人気を博していく。

大正期、鉄道会社は利用者を創出するため、自社沿線に次々と遊園地を開設した。鉄道会社間で激しい遊園地ブームが起き、遊園地は開業ラッシュを迎えた。

東武系遊園地と「すみ分け」

現在のとしまえんは西武鉄道系列だが、当時の豊島園は鉄道会社が経営する遊園地ではなかった。そして、豊島園がオープンする前から、近隣には東武鉄道が経営に関与する兎月園がすでにあった。路線は異なっていても、至近に豊島園がオープンすれば来園者の奪い合いが起こることは必至だった。


西武豊島線の豊島園駅前。広場になっているが、最盛期はここに売店などが多く並んでいた(筆者撮影)

共倒れを危惧した東武鉄道社長の根津嘉一郎は、豊島園のオーナー・藤田と協議。その結果、兎月園は大人向けの高級路線に、豊島園は子どもを中心としたファミリー路線へとすみ分けることが決まる。この話し合いにより、兎月園で飼育されていた動物たちは豊島園へと引き取られた。

開園時の豊島園は、武蔵野鉄道(現・西武鉄道池袋線)の練馬駅から徒歩でアクセスするのが一般的だったが、全面開園した年には豊島線が延伸開業。これにより、アクセスは飛躍的に向上して豊島園の来園者は急増した。同時に、武蔵野鉄道の利用客も急増する。武蔵野鉄道と協力関係を築きながらも、豊島園は系列に加わらずに独自の経営戦略で集客を図った。

現在のとしまえんは、回転木馬のカルーセルエルドラドをはじめ遊園地らしいアトラクションが揃っている。過去にはジェットコースターのサイクロンといった機械遊具がちびっ子たちを魅了した。

開園当初の豊島園は体育と園芸をウリにする施設で、広大な園地には運動場と草花が植えられた温室が整備されていた。つまり、現在の遊園地からイメージできるような場所ではなく、公園と植物園が合体した施設といった趣が強かった。開園から3年後には、園内に養鶏場・芋掘場・イチゴ畑などが整備された。遊園地というより農場に近い存在だった。

昭和に入る頃、すでに東京都心部は農業や自然から縁の遠い環境になりつつあった。しかし、豊島園の一帯には石神井川をはじめとした豊かな自然が残り、都市化の波が押し寄せていなかった。郊外に立地していたことが都市化を免れた要因だが、園主・藤田の意向も起因している。

遊園地とともに田園都市も

藤田は豊島園を園芸の地として整備する傍ら、隣接する地に造成されていた住宅地の開発を金銭面で支援した。それが、依然として緑があふれる閑静な住宅街として残る城南住宅だ。現在、豊島園駅の目の前には広大なとしまえんが立地しているが、隣接する城南住宅は豊島園の開園より早い時期から造成を始めていた。

城南住宅は、1910年頃に山形県米沢市出身の小鷹利三郎が発案した。医師だった小鷹は、上京してから大和郷と呼ばれる高級住宅地に住居を構えた。大和郷は現在で言うところの文京区本駒込・豊島区駒込にあたるエリアで、江戸時代は大名屋敷が櫛比していた地でもある。

その屋敷地は明治期に三菱財閥の所有になり、創業一族の岩崎家が高級住宅街へと開発した。大和郷に居住していた小鷹は、急激に都市化していく大和郷に窮屈さを感じていた。そのため、自然が豊かな新天地を求めた。

そんな折、練馬駅の近くに武蔵高等学校が開学するとの情報を聞きつける。当時の練馬駅一帯は田んぼが広がるだけの農村だった。それが小鷹には自然豊かな地と映ったが、交通の便はお世辞にもいいとは言えなかった。高校が開学するなら、交通の便は向上するだろう。そう考えた小鷹は、城南住宅を理想の住宅地とした。

当時は郊外で住宅地開発が相次いでおり、その底流には田園都市が意識されていた。田園都市とは自然が多く残る郊外に家を構えるという考え方で、城南住宅もその潮流に乗っている。実際、当初の城南住宅は城南“田園”住宅と名付けられ、明らかに田園都市を意識していた。

田園都市の先駆けでもある田園調布は都心部から遠いため、自前で鉄道を敷設したが、城南住宅は自前で鉄道を敷設していない。すでに武蔵野鉄道が練馬駅を開設しており、城南住宅から練馬駅までは徒歩10分ほどの距離にある。近すぎず遠すぎずの距離は、都市化を忌避してきた小鷹にとって理想的な距離感だった。

しかし、それはあくまでも小鷹にとっての話だ。城南住宅に家を構えようとする人は多くなかった。

小鷹は山形県出身者や医師のネットワークを介して居住者を勧誘した。大和郷に住居を構えていた東京帝国大学(現・東京大学)教授の佐野利器は、小鷹と同じ米沢の出身だった縁から趣旨に理解を示して城南住宅に邸宅を構える。佐野は明治神宮や東京駅、旧国技館にも関与した建築家で、東京帝国大学教授という社会的地位にあったことが、城南住宅の評判を高める。

鉄道界の大物も住んでいた

そして、城南住宅の名声を高めたもう一人の人物がいる。それが鉄道大臣を務めた江木翼だ。

江木は1929年に発足した浜口雄幸内閣で鉄道大臣に就任しているが、大臣就任時は関東大震災と昭和金融恐慌の2つの要因によって鉄道需要は大きく減退していた。鉄道需要を掘り起こすべく、江木は列車に愛称をつけることを発案。愛称をつけることで国民が鉄道を身近に感じられるようにした。

江木の発案から、東京駅―下関駅間を運行していた特急列車の愛称を公募する。この愛称公募は国民の耳目を集めることになり、多くの愛称案が寄せられた。そして、寄せられた案の中から「富士」「櫻」の2つが採用された。

鉄道における江木の功績は、ほかにもある。今では当たり前に使われている「観光」という言葉を一般的に広めたのも江木とされている。

不況の折、政府は外貨獲得を至上命題にしていた。江木は訪日外国人観光客を誘致するため、鉄道省内に国際観光局を新設。観光という言葉を積極的に使用し、一般に定着させていく。

江木が城南住宅に住居を構えたのは関東大震災後だが、城南住宅が本格的に住宅地の体裁を整えていくのも大震災以降だった。

話を豊島園駅と豊島線に戻そう。1927年、練馬駅から分岐する武蔵野鉄道の豊島線が開業。わずか1kmの路線ながら、豊島園の来園者は爆発的に増加した。


豊島園駅のホームに停車中の電車(筆者撮影)

同線の開業は豊島園にとっても武蔵野鉄道にも大きな経済効果をもたらし、城南住宅のアクセス向上にも貢献した。しかし、武蔵野鉄道・豊島園・城南住宅の間に資本・人的関係はない。そのため、シナジー効果は薄かった。

1932年、堤康次郎が率いる不動産会社の箱根土地が武蔵野鉄道の経営権を掌握する。1941年には豊島園の経営会社を吸収合併し、豊島園は武蔵野鉄道直営の遊園地になった。鉄道と遊園地の経営が同じ企業になったことで、ようやくシナジー効果を発揮できるようになる。

しかし、豊島園は鉄道の利用者増に貢献するだけの存在ではなかった。集客施設が表の顔だとすると、鉄道車両の研究開発に貢献するという側面もあった。戦時中に休園していた豊島園は、戦後に復活して機械遊具を多く揃えていく。1951年、園内に「空飛ぶ電車」と呼ばれた日本初の懸垂型モノレールが登場した。

見た目こそ遊園地の遊具だったが、このモノレールの性能は遊具などといった代物ではなかった。東海道新幹線0系や小田急ロマンスカー3000形の開発に携わった技術者の三木忠直が開発し、製造は新幹線0系や最新のN700Sなどで知られる日立製作所笠戸工場が手がけた。

開発者の三木は、その後に湘南モノレールや千葉都市モノレールの開発にも関与している。車両の技術開発において、としまえんが果たした功績は無視できるものではない。

遊園地と住宅地の共存

時代とともに豊島園は西武鉄道にとってなくてはならない存在へと成長する一方、良質な住環境を目指した城南住宅の住民たちは西武鉄道と豊島園とは一定の距離を保った。そのため、城南住宅の住民は豊島園駅一帯の活性化に関しても必ずしも協力的とは限らなかった。むしろ住環境を守るために、住民が一丸となって反対運動をすることも少なくなかった。

高度経済成長期以降の東京は不動産価格が高騰し、農村然としていた練馬区にも開発の手が及ぶ。城南住宅も無縁ではなく、たびたび住環境を脅かす問題が勃発した。

従来、城南住宅の周辺は住民間の取り決めで高層建築物は規制されていた。しかし、広大な江木邸跡地に高層マンションの計画が浮上する。日照や景観の問題などから、住民は猛烈に反対。その熱意が行政を動かし、江木邸跡地は区が買い取ることで決着。その後も豊島園に場外馬券売場を併設する計画が持ち上がり、これも反対で白紙撤回させた。一度は潰えた場外馬券場問題は3年後に再燃するが、同じ経過で頓挫している。

1980年、江木邸跡地は向山庭園として整備されて一般開放された。


豊島園駅の南西に広がる城南住宅組合が作成した環境宣言の看板。宣言文からも住環境を守る強い決意がうかがえる(筆者撮影)

このときに城南住宅組合は、不動産学の大家でもあった早稲田大学の篠塚昭次教授に助言をもらい、環境宣言を起草。宣言文がしたためられた看板は城南住宅内に掲げられて、今でも良質な住環境の維持に寄与している。

豊島園駅一帯の都市化・開発の波は、バブル崩壊で落ち着きを見せていく。さらに、西武池袋線の高架化事業や西武有楽町線の開業によって開発ターゲットが練馬駅一帯へとシフトしていたことも豊島園駅一帯の開発意欲を削いだ。

練馬駅の高架化工事は、豊島線の豊島園駅にも影響を及ぼした。1988年に練馬駅の高架化工事が始まると、豊島線は練馬駅―豊島園駅の1駅間を行き来する独立した路線になった。そのため、池袋駅―豊島駅間の直通列車の運転は休止となった。それが豊島園駅の利便性低下を招き、不動産事業者の熱を奪った。

跡地は「ハリポタ」に?

1991年には、都営12号線(大江戸線)の光が丘駅―練馬駅間が部分開業。豊島園駅も開設されて利便性は向上したが、練馬駅で乗り換えを余儀なくされることもあって豊島園駅周辺は盛り上がりを欠いた。


豊島線が分岐する練馬駅。近年は拠点性が高まっている(筆者撮影)

だが、1997年には都営12号線の練馬駅―新宿駅間が延伸開業。1998年に練馬駅の高架化事業も完了し、池袋駅―豊島園駅の直通運転が復活する。これにより豊島園駅の利便性が再認識されるようになり、駅周辺は再び宅地化の兆しを見せることになる。

豊島園駅のにぎわいを牽引してきたとしまえんは間もなく閉園する。だが、跡地は東京都が公園を整備し、一部は「ハリー・ポッター」のスタジオツアー施設開設が検討されている。駅周辺にはシネマコンプレックス「ユナイテッド・シネマとしまえん」、としまえんに併設された温浴施設「庭の湯」などがあり、今後も一定の利用者は見込める。

レジャー施設と住宅街という相反する2つの顔を抱えながら、豊島園駅は激動の1世紀を過ごしてきた。間もなく、としまえんは閉園する。それでも、豊島園駅は西武鉄道の重要な駅としての役割を担い続ける。