海の見える駅として観光地化している日立駅舎。デザイン監修者の妹島和世氏は2020年にブルーリボン賞を受賞した西武鉄道001系「Laview」のデザイナーとしても知られる(筆者撮影)

日本を代表する総合電機メーカーの日立製作所は、茨城県日立村(現・日立市)で産声をあげた。日立製作所は日立鉱山(現・JX金属)で使用する機械を修理・メンテナンスする一部門として1910年に発足。そのため、この年を創業年としている。

日立鉱山は政府が推進する殖産興業の一翼を担い、日本の近代化を推進。日立製作所が正式に会社として日立鉱山から分離・独立を果たすのは、それから10年後の1920年。実質的に今年が株式会社日立製作所としての創業100周年にあたる。

独立後、日立製作所は世界屈指の電機メーカーへと成長を遂げていった。その過程には、鉄道が大きく関わっている。鉄道分野で世界屈指の技術力を有する日立製作所は、鉄道業界をその高い技術力で支えてきた。

「日立」の発展は鉄道とともに

他方、日立市という自治体も鉄道がなければ発展することはなかった。日立の発展を牽引した鉄道とは、言うまでもなく日本鉄道(現・JR東日本常磐線)のことだ。

1897年、日本鉄道は水戸駅―平(現・いわき)駅間を開業。これにより上野駅―平駅間が1本でつながり、同区間は湾岸線と総称された。開業当初、水戸駅―平駅間には助川(現・日立)駅のほか、下孫(現・常陸多賀)駅や大甕駅が同時に開設された。


日立駅中央口にはバスロータリーが広がり、その中心には日立製作所から寄贈された発電用タービンの一部が展示されている(筆者撮影)

現在、日立市の中心駅は日立駅とされているが、当時の助川駅は利用者が多くなく、にぎわいも乏しかった。利用者数は、県都・水戸に近く漁業が盛んな港町の大甕駅や下孫駅の後塵を拝していた。

帝都・東京の北の玄関でもある上野駅と東北の中心でもある仙台駅とを結ぶ路線には、東北本線と常磐線の2路線がある。そのうち、常磐線は太平洋側を通る。東北本線と比べると、常磐線は沿線人口が圧倒的に少ない。それでも日本鉄道が太平洋側の路線建設に意欲的だったのは、福島県南部から茨城県北部に広がる常磐炭田で産出する石炭を迅速かつ大量に輸送するという目的があった。

東京から至近の炭鉱だった常磐炭田は、明治初期から活況を呈した。常磐炭田から東京までの運炭に列車がフル活用されることになった。

常磐炭田が活況に沸く中、秋田県の小坂銅山を成功に導いた久原房之助が鉱山開発のために日立へと進出してくる。久原は日立鉱山の実質的な創業者とされるが、なによりも鉱山業を近代化させた立役者でもある。鉱山の近代化とは、人力に頼っていた採鉱を機械化へシフトしたことを意味する。

久原が推し進めた鉱山の近代化は、機械化だけにとどまらない。新たなビジネスモデルも構築した。大量かつ迅速に銅を運ぶことができるという鉄道の力に着目した久原は、日立鉱山が助川駅から近い立地を活かそうとした。鉄道は単に採掘した銅を搬出するだけではなく、ほかの鉱山から買いつけた銅を搬入するのにも役立つ。

こうした特性を踏まえ、鉱山の麓に精錬所を開設。日立鉱山で採掘した銅と、よその鉱山から買いつけた銅を同じ工場で精錬した。こうした効率的な使い方により、精錬所は絶え間なく稼働し、生産性は向上。さらに、精錬による加工収入も得るようになった。

機械部門は苦戦続き

久原による鉱山の近代化により、1906年に260トンだった日立鉱山の採銅量は、1912年には7800トンまで増加。当然ながら日立鉱山で働く労働者は増え、関連工場も増えた。


日立鉱山専用電気鉄道で使用されていた電気機関車。現在は、日鉱記念館の敷地内で展示・保存されている(筆者撮影)

1908年に開業した日立鉱山専用電気鉄道は貨物列車としての趣が強いが、鉱山の労働者やその家族も利用するなど旅客輸送としても活躍する。日立鉱山の恩恵を受け、助川駅一帯も大いににぎわうことになった。

しかし、活況を呈する日立鉱山とは裏腹に、機械部門である日立製作所は苦戦を強いられていた。日立鉱山では採鉱で稼いだ収益を機械工業部門に回すことに理解は薄く、久原も機械工業分野への進出に消極的だった。そのため、日立製作所の創業者だった小平浪平は数少ない技術者と悪戦苦闘する日々を送る。

転機になったのは、1914年に勃発した第1次世界大戦だった。鉱山で使用していた機械の大半は、海外からの輸入に頼っていた。大戦の影響で輸入が途絶えると、機械を自作するしかない。小平は社内の技術者を結集して機械製作に取り組み、第1次世界大戦という危機を乗り切る。

しかし、これで日立製作所が成長軌道に乗ることはなかった。第1次世界大戦が終結すると、機械製品の需要は減退。当時、電化製品を所有している家庭などはなく、工場でも機械による生産体制が整えられていたのは一部の大規模工場に限られていた。

そもそも機械を動かすにも、動力の電気が不足していた。電力を使う企業も人も限られていたので需要は少なく、そのために電力会社は発電所を増設しない。発電所を増設しないので供給量は乏しく、だから多くの機械を動かせない。

そんな負のスパイラルを打開したのが、鉄道省による東海道本線の電化計画だった。東海道本線は、1889年に新橋(後の汐留)駅―神戸駅間が全通。次なる課題として、電化に取り組んでいた。

1909年、烏森(現・新橋)駅―品川駅間が電化。それを皮切りに、1914年には横浜駅まで電化区間が拡大。烏森駅―横浜駅間には電車が運行されるようになったが、横浜駅以西は電気機関車による運転が予定されていた。

鉄道車両メーカーとして成長

東海道本線の電化工事は歳月と資金を投じれば、いずれ完了する。しかし、日本には電気機関車を製造する技術がなかった。いくら工事を終えても、電気機関車がなければ電化は無意味になってしまう。だが、鉄道省が推進する東海道本線の電化は、国家を挙げたプロジェクト。計画の延期・中止はできない。

政府は外国製の電気機関車を輸入することで凌いだが、東海道本線の電化計画を察知した小平は、電気機関車の開発に着手していた。スタートが遅かったこともあって最初の機関車納入は外国製に譲ったが、1925年には日立製作所が開発・製造した電気機関車が横浜駅―国府津駅間を走った。

以降、日立製作所は鉄道車両メーカーとして実績を重ねることになる。こうして日立製作所は大正末期から成長していく。

一方、日立鉱山を抱える日立町と助川駅を擁する助川町が1939年に合併し、新たに日立市が発足した。常磐線の助川駅は日立駅へと改称する。

市制を施行した頃、日立製作所は軍関連の機械製造も受注するようになっていた。それらの工場は輸送の関係から日立駅の近くに集積した。そのために日立駅一帯に子会社・関連会社が並び、これらの工場によって日立駅一帯はますます栄えた。しかし、それが太平洋戦争末期にアダとなった。

1945年、敗戦が濃厚になっていた日本では、本土のあちこちが空爆された。軍需工場が多く立地していた日立市も戦略上で重要だったため、大規模な空襲を2回も受けた。日立空襲では日立製作所敷地内にも1トン爆弾が着弾している。日立市への攻撃は空からだけではなかった。連合軍は日立沖から日立製作所の工場を狙った艦砲射撃を実施。激しい攻撃を受け、日立の街は灰燼(かいじん)に帰した。

再起不能な戦禍を負いながらも、日立製作所は復活を遂げる。その復活にも鉄道が影響を及ぼしている。

1964年、東京五輪が開幕。事前に、インフラ整備として羽田空港と都心部を結ぶ輸送機関の新設が検討された。議論の末、同区間にはモノレールという新たな輸送機関を導入することが決まる。その車両製造を日立製作所が担当することになった。車両製造を担当した日立製作所だが、子会社が東京モノレールに出資して経営にも関与。現在は子会社から株を譲渡された日立製作所が東京モノレールの株主に名を連ねている。

戦災復興と高度経済成長で日立製作所が再生すると、お膝元でもある日立市も都市としての活力を取り戻していく。

戦災復興事業により、日立駅は新駅舎へと改築されていた。改築と同時に駅から約1kmにわたって西へと延びる道路は幅員36mに拡張された。そして、その両脇には桜が植樹され、歩道と車道の間にバス停車スペースを整備。駅を中心とした交通体系が構築されていく。

勢いを失った鉱山

日立市が戦災復興を遂げ、経済を支える日立製作所も高度経済成長で力を取り戻した。その一方で、母胎だった日立鉱山は昭和30年代から深刻化する公害問題を端緒に規模の縮小を迫られていた。


日立鉱山専用電気鉄道の助川駅跡地は日立シビックセンターへと姿を変えた。館内には科学館や図書館などがある(筆者撮影)

日立鉱山は1958年からトラック輸送へ切り替え、鉱山と日立駅前を結んでいた日立鉱山専用電気鉄道は1960年に運行を停止。鉱山電車の運行停止は公害対策が主眼だったが、折しもモータリゼーションの波とも重なって、旅客専用路線に転換するという意見も出ないまま姿を消した。

日立の活力を牽引してきた日立鉱山が勢いを失い始めた頃、政財界からは新たな産業の柱を模索する動きが芽生えていた。そこで白羽の矢が立ったのは、日立駅からアクセス良好な神峰公園(現・かみね公園)だった。

戦前期、日立町と助川町の合併協議では、市民の憩いの場となる都市公園を設置することが条件として付されていた。第2次世界大戦の開戦で頓挫するが、戦災復興が一段落した1953年に構想は再浮上。こうした背景から、1957年に神峰動物園が開園する。神峰動物園は歳月とともに園地を拡張し、飼育する動物も充実。その後、動物園だけではなく、遊園地や市民プールなども整備されていった。

しかし、日立市は企業城下町のイメージが濃く、市民の大半が日立関連企業で働く従業員だった。そうしたことから、公営ながらも神峰公園一帯の諸施設は日立グループの福利厚生施設と見られがちだった。市外からの来園者は乏しく、観光面での貢献度は低かった。

そうした状況を打破するべく、日立市は1971年に観光課を発足。それを受け、観光振興にも力を入れるようになる。その成果もあり、かみね動物園の来園者は年間45万人まで増加。しかし、かみね公園・動物園の来園者の大半は県内からの行楽客。これが観光都市を目指す日立市の課題として残った。

2010年代に入ると、グループの再編が加速。日立駅一帯に集積していた日立製作所およびグループ企業は存在感を薄くしていった。こうした産業構造・都市の変化もあって、日立市の観光振興は急務になっていく。

駅が街の新たな観光名所に

日立市は都市の再生策として、日立駅のリニューアルを検討する。戦災復興で建て直された日立駅舎は竣工から50年以上の歳月が経過して老朽化が目立つようになり、2005年から整備計画の検討が始まった。


日立市の表玄関となる日立駅中央口(筆者撮影)

駅舎は市の顔でもあるため、日立市は慎重に議論を重ねていく。最終的に、新駅舎は日立市出身の建築家・妹島和世さんがデザイン監修を務めることになった。東日本大震災で開業が遅れたものの、2011年4月に印象に残る外観の新日立駅舎が供用を開始。駅の自由通路には、全面ガラス張りで海の見える広場が新たに開設された。

その広場から眺める朝焼けは特に美しく、SNSなどで拡散されて評判を呼ぶ。これらが起爆剤になり、オーシャンビューを楽しもうと日立駅に立ち寄る観光客も出てきた。期せずして、日立駅舎は新たな観光名所になっている。

近年は茨城県の政財界が一丸となって、かみね動物園へのパンダの誘致に力を入れている。それらと連動し、日立駅は観光都市の玄関口としての役割を強めようとしている。

日立鉱山や日立製作所でにぎわった鉱工業都市の面影は薄れつつある。企業城下町の玄関駅は、今、新しい局面を迎えている。