Photography:James Lipman

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この記事は『オリジナルのMX-5ショーカーに試乗!│ロードスターもクラシックカーの仲間入り』の続きです。

初代ミアータを手に入れてからちょうど一年後、運命の歯車が動き、サワードはクライスラーのカリフォルニア・オフィスに移籍することになった。

言うまでもなくアーヴァインのマツダに近く、学生時代に知り合っていたMX-5のデザインリーダー、トム俣野との関係が復活した。トムはサワードを面接に誘い、オフィスの席を提示したのである。それがほぼ30年前のことだが、ケンはそれからずっとここにいて、今ではアーヴァインのデザインチームを率いている。
 
俣野とホールの名前は常に挙げられるが、実は登場人物はずっと多い。広島の上役だけでなく、米国やヨーロッパ、さらには英国からもデザイナー、エンジニア、プロジェクトマネジャーたちが計画に巻き込まれていたのだ。彼らに共通していたのは情熱的なゥルマ好きイ世箸いΔ海函△箸蠅錣臼儿颪筌ぅ織螢△離瓠璽ーが1950年代から70年代にかけて造ったコンパクトでシンプルな後輪駆動のロードスターを愛していたということである。


 
MX-5のヒストリーを読むと、ボブ・ホールがオースチン・ヒーレー100で運転を学んだという記述がある。いっぽうデザイナーのマーク・ジョーダン(伝説的なGM のデザイナー、チャック・ジョーダンの息子)は、80年代初めにマツダに加わった時に、ホールがいかにス況眦にゲ甬遒留儿饑愁蹇璽疋好拭爾砲弔い洞軌蕕靴討れたかを述べている。

また、英国のIAD(初期のプロトタイプを製作した)の代表だったジョン・シュートは2ダースもの車を所有するMGエンスージアストだったし、レイアウト担当のエンジニアだったノーマン・ギャレットは、アーヴァインのチームをゥニ目のスプライトからカウンタックまで、76種もの車を所有するホットロッダーたちイ班集修靴討い襦E時の写真を見ると、R&Dセンターの周りには、ほぼいつでも古いエランか何かが映り込んでいるし、フィアット・スパイダーを覗き込むエンジニアや、カリフォルニアの道でそれらに試乗する姿が捉えられている。

 
それほど熱い車好きのチームなのだから、録音した排気音を皆で聴き、自分たちのエンジンに最適な音を追求してもまったく驚きではない。同じ情熱を持つ人間がLA 近郊に集まったのもまるで不思議ではない。今なおロサンゼルス周辺は、日曜の朝の気軽なミーティングに出かけると、いかにも大切にされているシボレー・シェベルのチューンドカーがメルセデス300SLガルウィングとジェンセン・ヒーレーの間に挟まれて停まっているという、そんな光景が当たり前の土地柄なのである。

このような環境がチームメンバーを結び付け、MX-5を芽吹かせたのである。「いつもオープンで走れる場所は他にあるかい?」と言うのは東海岸からの移住者であるサワードだ。「メインやシアトルではこんな車は創れない。コンバーチブル・スポーツカーは南カリフォルニアで作るべきなんだ」と。確かにMX-5がクラシックカーへの愛情から生まれたのは間違いないようだ。だが、それは本物と感じられるのだろうか。


 
座っただけではそうは思わないかもしれない。室内は手際よくきちんと設計されている。ミニマリズムに加えて、レトロな装飾が注意深く施されている。円形のアウトレットやダイヤルは保守的だが時代遅れというものではなく、ギアレバーはステアリングホイールにごく近く、掌分ぐらいしか離れていない。身体にフィットした申し分ないドライビングポジションだが、もっとも6フィート以上の大柄な体格の人はちょっと苦労するだろう。

「女性の車と言う人もいるが、それはまったく違う。おそらくそれは大男のラインバッカーが運転しているのを見たことがないというだけだ。彼らもたぶん運転したいはずなんだが、単に大男には狭すぎるんだ」

アメリカ仕様のエアバッグが備わったステアリングホイールを除けば、インテリアは外観同様決して古びては見えないが、硬質プラスチックのトリムはまるっきり90 年代の日本車の典型で、少々安っぽく感じられる。だがあの当時、実際に安かったのである。当時の価格は?・・次回へ続く