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フーパー社が手掛けたドロップヘッド・クーペ

text:Martin Buckley(マーティン・バックリー)photo:John Bradshaw(ジョン・ブラッドショー)translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
荘厳な雰囲気を漂わせる、デイムラーDE36 グリーン・ゴッデス。多くの人を魅了するクラシックだが、招き入れたいと思う人は見つかるだろうか。

ボディの全長は5.6m、車重は2.7t。最小回転直径は15.2mもある、大きなコンバーチブルだから、手を出せる人は限られてしまう。

デイムラーDE36 フーパー・ドロップヘッド・クーペ「グリーン・ゴッデス」(1948年〜1953年)

英国で歴史を重ねてきたブランドが、戦後の世界に放った巨人。直列8気筒エンジンを積んだグリーン・ゴッデスは、象牙色のブガッティ・ロイヤルとの比較対象になった。

現在も生き残っているグリーン・ゴッデスは、5台だと考えられている。今回ご紹介する1台は、シャシー番号51724。2番目に誕生した女神だ。

グリーン・ゴッデスは、コーチビルダーのフーパー社が手掛けたドロップヘッド・クーペ。その美しさで、デイムラーは抱えきれないほどの評判を集めた。

英国の新聞は、「太陽の騎車」と呼んだ。第二次大戦後の冷え込んだ英国に熱気を取り戻す、素晴らしいクルマだと評価された。

戦後間もない英国では、ガソリンは毎月45Lの配給制。燃費4.2km/Lの女神を養える人は、極めて限られていた。

反面、乗り回せる余裕を持つ人物にとって、1940年代後半では最強のコンバーチブルだったに違いない。優雅な乗り心地を、俳優のスチュワート・グレンジャーも楽しんでいたのだろう。

あるいは可能性として、女優のダイアナ・ドースも。英国のマリリン・モンローと形容された彼女は、コーチビルダーのソーチックが仕上げたドライエを所有するほどだった。

当時最も高額だったグリーン・ゴッデス

1948年のアールズ・コート、ロンドン・モーターショーに出品されたグリーン・ゴッデスのプロトタイプは、7001ポンド。現在の価値では、25万ポンド(3350万円)ほどになる。

デイムラーの会長を務めていた、バーナード・ドッカー卿のために作られたクルマで、当時の出品車両では最高額。おそらく、世界で一番高いクルマだったと思われる。

デイムラーDE36 フーパー・ドロップヘッド・クーペ「グリーン・ゴッデス」(1948年〜1953年)

デイムラー製のシャシーには、独立懸架式のフロント・サスペンションとガーリング社製の油圧ドラムブレーキを備えていたが、価格に対する割合は29%程度。残りは、コーチビルダーのフーパー社へのボディワークと、政府の物品税に消えた。

およそ5.6mの全長だから、ホイールベースもボディサイズも、当時の欧州モデルでは最長。2席のリアシートは、オペラ・スタイルとして高く持ち上げることが可能だった。ドライバーの頭上から、良い眺めを楽しめた。

あるいは折り畳み、小さな荷室を補う荷物置き場にも使える。そうすれば、巨大な3シーターのロードスターになる。

英国王室御用達の保守的なロイヤル・リムジンを製造していたデイムラー。グリーン・ゴッデスは、世間を驚かせる方針転換として受け止められた。1930年代初頭にまでさかのぼれば、派手なダブル・シックス・スポーツという前例はあったが。

エンジンは、排気量5.4Lの英国最後となる直列8気筒。最高出力は152psで、大人5人が乗れば3tを越えるコンバーチブルを、144km/hの最高速へなんとか届けた。

壮大な雰囲気を放つコーチビルド・ボディ

デイムラーがこの8気筒ユニットの製造を始めたのは、戦前の1933年。戦後の改良で、シリンダーヘッドの取り外しが可能となり、整備性を高めている。

ロンドン・モーターショーで多くの観衆の足を止めさせた理由は、もちろんこのエンジンではない。ボディが漂わせる、壮大な雰囲気にあった。

デイムラーDE36 フーパー・ドロップヘッド・クーペ「グリーン・ゴッデス」(1948年〜1953年)

グリーン・ゴッデスが土台としたのは、デイムラーで最大の、ホイールベース3734mmのDE36用シャシー。例を見ない、巨大なスケールを持つクルマだった。取り回しの悪さを想像できるほど、ボンネットは長大だ。

曲面を描く複層ガラスが未来的。ワイパーは3本も付いている。フロント・フェンダーにはルーカス製のヘッドライトが重なり、ガラス製のカバーで覆われた。

フロントグリルだけでなく、ヘッドライトカバーにもデイムラーらしい波形模様があしらわれる。当時の人々は、近づきがたいオーラを感じたに違いない。

ソフトトップの開閉もサイドガラスの上下も、当時では先端の電動式。油圧ジャッキを内蔵し、クロムメッキされた純正工具キットには、手を洗う装備も付いていた。

一方で純金のプレートがあしらわれ、ゼブラの革でトリムされた、ドッカー・デイムラーではなかった。フーパー社のデザイナー、オズモンド・リバーズは、会長のためのクルマとしてボディを描いた。

コーチビルダーのフーパーは、イングリッシュ・アッシュ材のフレームと手打ちのアルミニウム・パネルで見事なボディを成形。1948年10月のアールズコートへ、プロトタイプを間に合わせた。

緑の女神を注文した謎の人物

展示が終わると、バーナード・ドッカー卿が南フランスへのドライブを楽しむため、数ヶ月の修正が加えられた。ドッカーが個人的に乗った後、1953年にフーパー社へ戻りボディに手直しを受け、新車として売りに出された。

当時のフーパー社の資料には、デモンストレーション車両と記されていた。課税を逃れる手段だったのかもしれない。

デイムラーDE36 フーパー・ドロップヘッド・クーペ「グリーン・ゴッデス」(1948年〜1953年)

1953年の作業は、ボディの載せ替えではなく、修正程度の変更だったようだ。DE36 ドロップヘッドに見られる、従来的なヘッドライトの造形へ改められている。

グリーン・ゴッデスのプロトタイプは、2009年のクウェイル・ロッジでの売買以来、姿を見せていない。現在は、アメリカのマサチューセッツ州にあると思われる。

フーパー社の記録によれば、今回の2台目のグリーン・ゴッデスは、謎のFナイルドという人物が最初に手にしたクルマだった。シャシー番号は51724だが、詳しい経緯は明らかではない。

注文が入ったのは1948年の終わり。1949年5月には、納車の準備が整っていた。Fナイルドは、ほかに2台のサルーン、フーパー・レイスを購入した記録も残っている。

シャシー番号51724はその後、3名の英国人オーナーのもとを転々とし、1979年までは英国のウィンザー郊外で過ごした。2000年になると、GAU 10というナンバーを獲得。アメリカ人に売却され、チェコ共和国でレストアされている。

2018年からはヴィンテージ&プレステージ社が、このグリーン・ゴッデスを売りに出している。代表のクリス・キトゥーが、この歴史を調査している。

この続きは後編にて。