古谷経衡氏(本人提供)

写真拡大

 コロナ感染者は増加の一途を辿り、「同調圧力」と「自粛警察」がまたぞろ跋扈するのは時間の問題だ。いつの時代も「世間」に抗えない日本人の闇を作家・古谷経衡氏が喝破する。

 ***

 ルネサンス時代の真っただ中の16世紀、ヨーロッパでは局地的に黒死病(ペスト)が蔓延し、また、太陽活動の異常から小氷期となり各地で大凶作が続いた(諸説あり)。社会は動揺し、キリスト教圏の教会指導者は魔女狩りと並行して、農地を侵蝕してくる氷河や大量発生する害虫を「破門」することにより、天変地異を逃れようとした(池上俊一著『動物裁判』講談社)。

 近代科学が確立される前の中・近世欧州ならば、このような似非科学にすがるのも致し方のないことだ――と、現代人は嗤って馬鹿にするかもしれない。しかし、コロナ禍によって現代日本人ひいては人類全般の感覚も、この時代と大して変わらないことが証明されたように思う。

古谷経衡氏(本人提供)

 コロナ騒動が勃発するや否や、小売店やドラッグストアからトイレットペーパーが消えた。日本の製紙能力はほぼ100%国内で賄われており、世界に冠たる製紙大国である。その製紙能力を知っていればトイレ紙が店頭から消えることなどありえないことだが、人々はネット上に跋扈した似非科学・デマを信じ、我先にと箱買いに走った。オークションサイトではある種の岩石から出る放射線が新型コロナ感染を防ぐ、と喧伝され高値で取引された。日本の理科教育、ひいては科学教育とは何だったのか。

 これらと同様か、もっと低俗なパニックが西欧でも起こった。

 特にアメリカでは一般家庭が大容量の冷蔵庫を完備し、週に1回程度のまとめ買いが常態化している。店頭から物品が消えうせるといったデマに惑わされてスーパーマーケットの棚は空になった。私たちが信じてきた人類進歩の前衛たる西欧近代の進歩主義が、いとも簡単に崩れ去った瞬間である。

 そもそも、全米では銃犯罪による死者が毎年3万人にのぼる。単純計算でその犠牲者は10年に30万人である。関連傷害を含めればその数は数十倍になる。にもかかわらず、CNNもNBCもCBSも第2次大戦やベトナム戦争の死者と比較してコロナ被害が如何に甚大かを語る。

 いやいや、貴方の国の足元で起こっている犯罪で、コロナ禍の累計の何十倍もの死者が出ているのだが――。ところが、そうした内省はほぼ皆無であった。この時こそ、全米ライフル協会の欺瞞や銃犯罪の宿痾をリベラル派が比較対象として口撃する絶好の機会の筈だが、CNNは「COVID-19」が如何に恐ろしいかの話題で持ちきりなのである。

 しかるにこの欧米人の狼狽ぶりは日本以上に惨憺たるもので、その兆しは思えば2011年の福島原発事故当時から垣間見えていた。空間線量にして0・23μシーベルト/時を瞬間的に超過したという理由だけで、家族帯同で横須賀から逃げ出そうと真剣に検討したのは、他でもない在日米軍第7艦隊司令部である。流石にこの行動は日米同盟の「紐帯」を揺るがすものとして退けられたが、いわんや日本国内でも福島事故で「今後5年で首都圏数百万人のがん死」が出ると盛んに喧伝された。ところが、事故後10年を経てその主張は全く科学的に立証されないどころか、日本人の平均余命は伸び続けている(拙著『日本を蝕む「極論」の正体』新潮社、同『草食系のための対米自立論』小学館)。

 いやはやコロナ禍で西欧近代の終焉を垣間見た気がする。そして、私たち日本人が明治維新以来150年を経て、戦後も「近代合理主義・近代科学主義の教師」として欧米を追従の範と見てきた世界観は、彼らのこのような狼狽を以て、もはや水泡に帰すと判断しても差支えないのではないか。

 4月の緊急事態宣言が発せられる前、テレビ局もラジオ局も、その他のメディア関係者も、「新型コロナは人類が過去に経験してきた感染症との闘いの繰り返しに過ぎず、自粛は過剰反応であり、気にする必要はない」という意見が圧倒的大多数であった。少なくとも3月中旬ぐらいまで、メディア関係者には「リモート放送」という概念自体が無かった。ところが、宣言が出されるや否や、各局は出演者にマスク着用は当然のことながら入局前の検温(体温が37・5度を超えるか否か)と、感染拡大防止を大義名分として自宅からの出演に切り替えた。「37・5度以上」という目安は、PCR検査を受ける科学的根拠に「ならない」として後に撤回されたにも拘わらず、金科玉条の如くこの方針は貫徹された。

 私は「たとえ焦土と化しても局に伺います」と言い張り、最後までこの方針に抵抗した。特にラジオ出演については、他の演者との掛け合いが命である。自宅からの放送では、どうしてもゼロコンマ3〜5秒のディレイ(遅延)が生じる。無線通信とは言わないまでも感覚的にはそれに近い。しかし、局の方針にいち出演者が抗う訳にもいかず、渋々私はこれに服した。だが大っぴらには言わないが、メディア関係者のほとんどはこの措置を現在でも馬鹿馬鹿しいと思っている筈だ。

 では、なぜこのような措置が講じられているかというと、一にも二にも視聴者(あるいは聴取者)から「この非常時にどうして“密”な状態で放送しているのか」というクレームが寄せられるからである。要するに、日本社会全体の「同調圧力」に社会の公器たるメディアが屈したのである。

「空気」が正論を遮蔽

 コロナ禍における日本社会の同調圧力は端的に言って異常であった。

 自治体の窓口に「自粛要請を守らないで営業している」という通報が何百件と相次ぎ、それでも自助努力で営業を続けるパチンコ店には投石事件が起こり、郡部の感染者は、菓子折りを持って「感染したことを周囲に詫びる」謝罪行脚を繰り返した事案もあったという。これはもはやリンチであり、差別である。

 だが、それをオカシイと言う正論は、まさに「空気」によって遮蔽された。

 我が国における自粛要請には法的強制力はない。であるからこそ、「強制ではないから公的補償もない」という理屈が当初は先行した。法的には、国や自治体が緊急事態を宣言しても「ウチは営業します」「私は普段通りの生活を続けます」の一声で拒否できる。しかし、こういった健全で民主的な反駁精神は、強烈な同調圧力によって全て吹き飛んだ。感染者はいわれのない差別を受け、特に有名人は、感染前の行動履歴を逐一取り上げられ、ワイドショーによって「不道徳」であるかのように報じられた。

 極めて不思議なのは普段、「人権擁護」、「民主主義的傾向の護持」を謳っている進歩派が、このような同調圧力に特段異を唱えず、「STAY HOME」に拍手万雷、賛同の構えを見せたことである。同調圧力によって生じた私的制裁やメディアリンチの方がよほど「民対民」の私権制限であると思うが、進歩派を含めた野党は、結局、コロナ特措法にも学校の一斉休校にも、科学的根拠が曖昧なまま賛同した。

 翼賛体制とはこのようなことをいうのである。

 1942年に行われた「翼賛選挙」の際、非推薦候補が見せた反骨精神は、現在の進歩派には微塵もない。当時、非推薦候補として当選した議員こそが戦後民主日本の屋台骨を背負う訳であるが、このような気概はまったく現在の進歩派に見られない。

 猫も杓子も「STAY HOME」と言った。自宅に居ようと居なかろうと、自称自粛者がすでに感染していれば何の意味もない。コンビニや小売店ではレジの前に特設のビニール遮蔽板を造った。ところがちょっと角度を変えて横に逸れればガラ空きの無防備さで、飛沫感染防止の根本的対処には疑問符が付く。

 失笑したのはお笑い芸人のコントで、演者2人の掛け合いの間に白線を引き、「ソーシャルディスタンス」を表現する。しかし、この演者が楽屋でもそれを貫徹しているとは到底思えない。移動時間はどうだろう。マネージャーとの人的距離はどうか。舞台上でのみ社会的距離を保つことは非科学的である。

 結局、これらは全て視聴者や観衆に対し、「とりあえず感染防止措置を講じているんです」と示すポーズに過ぎない。そしてそのポーズは、クレームを防ぐための予防的措置であり、とどのつまり批判をかわすための方便に過ぎない。

 結局は姿なき同調圧力に、科学的根拠なく大多数の人間が屈していたのである。これに正面切って異を唱えない多くの日本人と、多くの人類を、後世の歴史家は嗤うだろう。私たちがペスト下のキリスト教指導者を「中世的・非科学」と言って嗤うのと同じように。

 私は千葉県松戸市に永年居を構えている。東京に出るには、一般的に国道6号線を使う必要がある。ところが緊急事態宣言下、この国道の電光掲示板には「県をまたいだ移動は控えて」というメッセージが常に点灯していた。

 松戸市は東京都葛飾区、埼玉県三郷市と隣接しており、県境を跨がなければ日常生活に支障をきたす。「県をまたいだ移動は控えて」というメッセージは普通に考えて何の合理性も科学的根拠もない。コロナウイルスは、「ここから先は千葉県」「ここから先は埼玉県」という鑑別を持ちえないで四方八方に拡散する。当たり前のことだが、五畿七道という人間が作った勝手な行政区分などは無視される。

 ところが7月上旬より東京を中心に検査母数の拡大によって感染者が増加すると、政府は「Go To トラベル」の対象から東京発着の旅行を除外した。無意味極まりない。東京という土地さえ回避すれば感染は防げるとでもいう算段か。県境に関係なく拡大するコロナウイルスにまるで意思があり、行政区分を忖度する存在の如く扱っている。

 これも、いわゆる「東京問題」などと騒いだせいで、科学的合理性より、世論の根拠なき反発を恐れたに過ぎない。失笑したのは小池都知事の「夜の街」への敵愾心である。盛り場とは自然発生的にできるものであり、それは鹿児島にも鳥取にも秋田にも存在する。なんなら自宅で大勢を呼んで飲み会をするのも一種の盛り場の形成である。「夜の街を避ければ感染しない」などという科学的根拠は存在せず、単に心理的な「安心」を叫びたいためのスケープゴートに過ぎない。「安全」は根拠を元にした概念だが「安心」は単なる思い込みの一種である。こうして実に簡単に「仮想敵」を作ることができる。まるでファシズムの萌芽である。

 ところが多くの日本人は、お上の言う「県をまたいだ移動は控えて」というスローガンに対して無批判に追従し、メディアは高速道路のインターチェンジで他県ナンバーの車両をまるで「犯罪者・不道徳者」のように連日報道した。取材している当人は品川ナンバーであるにもかかわらず、土浦や前橋や湘南ナンバーをあたかも「不埒な越境者」として吊し上げた。

知的堕落

 ここに無批判に追従したのがいわゆる「自粛警察」である。西日本のある県では、他県ナンバーの車両をやり玉にあげ、「不要不急に越境している」として通報が相次いだ。果ては「この車は他県ナンバーだが、運転者の居住地は同県です」という抗弁のステッカーをボンネットに掲げないと、おちおち移動もできないという有様が出来した。本当に落胆した。何に落胆したのかといえば自粛警察の無知ぶりである。

 車両ナンバーは、運転者の居住地を意味しない。通称「車庫法」では、運転者の使用の本拠の位置(居住地)から直線2キロ圏内に自動車の保管場所設置が義務付けられている。逆に2キロ内であれば自動車の保管場所(車庫証明が出る限り)はどこでも許可される。

 理論的には、運転者の住所が東京でも、2キロ内なら川崎に自動車を保管することができる。その場合、運転者は東京都民だが、車両は川崎ナンバーになる(逆の例も然りで、使用の本拠を偽って管轄ナンバーを取得する行為を「車庫飛ばし」と呼び、これは違法である)。このような基礎的な知識を、自粛警察は有していない。一度でも自分で車検を通したり、陸運局に行ったことがあれば、この「矛盾」は合法として既知のはずである。

 私は緊急事態宣言下、誰にはばかることなく茨城の大洗に旅行した。大洗は海上航路(フェリー)で北海道(苫小牧)と結ばれている。私の泊まったホテルは中堅の老舗だったが、駐車場には帯広ナンバーや釧路ナンバーの車が大挙し、いい意味で安心した。ところがそのホテルのフロントで、「爪切りを貸してほしい」と頼むとにべもなく拒否された。その理由は「コロナ感染を防ぐために今は、爪切りをお貸ししていないのです」というモノであった。爪切りを介したコロナ感染の事例が一例でもあるのか、と小一時間問い詰めたかったが無意味だと思ってやめた。

 知性とは、懐疑から始まる。為政者やメディアやいわゆる「世間」の言うことをまず疑うのは、知性涵養の第一歩である。逆に疑うことをやめたとき、人々は知的堕落に陥る。「とりあえずお上がそう言うから」「テレビでそう言っているので」という理屈は、知的思考ではなく単純堕落である。何を根拠にそう言っているのか。何を根拠にそれを信じるのか。即答できない人間は知的感性の喪失と同じだ。

 同調圧力に追従していればよい。自粛警察の批判が自分に向かなければよい。そうして破滅に向かったのが大日本帝国である。

 戦後75年を経て、この国の人々は何も反省せず、またひいては人類も先の大戦の悲劇から何も学んでいない。自由・人権を盛んに唱えてきた者は、このような同調圧力と私刑の時代にどう抵抗したのか。遠くない将来、その言説が点検されるだろう。

 氷河と害虫を「破門」に処せば厄災は終わると信じた前近代のヨーロッパの宿痾は、今も全人類を蝕み続けている。

古谷経衡(ふるやつねひら)
1982年札幌生まれ。作家、文筆家。立命館大学文学部史学科(日本史)卒業。ネット保守、若者論などを中心に言論活動を展開。著書に『左翼も右翼もウソばかり』『「道徳自警団」がニッポンを滅ぼす』など。

「週刊新潮」2020年7月30日号 掲載