「Go Toキャンペーンとか、政府はなんてばかなことをやっているんだろう」と考えている人は多い(写真:つのだよしお/アフロ)

新型コロナの感染確認者数が急増しているという報道が盛んだ。日本全体では、4月の緊急事態宣言の時期を遥かに上回っているし、多くの各都道府県でも、現在が1日あたりの感染確認者数はこれまでで最高となっている。

「4月の緊急事態宣言時」と何が変わったのか?


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このようなタイミングで、政府が観光推進のGo Toトラベルキャンペーンを実施したことが波紋を呼び、激しく批判されている。

地方では、「東京から来た」というだけで強く忌避され、私の周りの多くの友人も、実家から「今年はお盆に帰省するな」と言われている。

「いや、感染していないし、万が一の対策も万全にとるよ」と言っても、「近所の人にお前がいることを見られたら『あそこの息子さんは東京から帰ってきて』、とものすごく悪口を言われるからお願いだからやめてくれ」、と言われるようだ。実際、家族の葬儀に行くのを親族の人に強く反対されて断念したという例も聞く。

東京都民は「ばい菌マン」扱いなのだが、小池百合子東京都知事や有識者も、「不要不急の他県への移動は控えろ」、と繰り返しお説教している。だが、例えば新宿区から中野区に行くのはいいのか?東京都の奥多摩から北海道はダメで、神奈川県の川崎市からならいいのか?という大きな疑問がある。政府の政策をとにかく非難したい、というようにしか見えないが、どういう心理なのか、興味深い。

一方、さらに興味深いのは「緊急事態宣言を出せ」とか、「より厳しい自粛措置を求める」とか、かつて有名になった「(接触)8割削減」などはあまり議論にはならない。夜の街と政府の態度、ちぐはぐさ、狼狽振りが槍玉に挙げられているだけで、4月時点での新型コロナウイルスに対する異常とも言える恐怖感、自粛警察ぶりは影を潜めている。

いったい、4月と7月以降で何が変わったというのだろうか? 2つの仮説をあげてみよう。

まず仮説1は「新型コロナウイルス自体が変化し、それほど恐れる必要がなくなった」という説である。

「ウイルスが弱毒化した」とか、「若年層への広がりなので大丈夫だ」、などの解釈をしている人々もいるようだ。しかし、弱毒化はほとんど根拠がないし、若年層から高齢者層に広がるのはこれからだ、という議論には対応できない。この仮説を採る人々の心理に対する私の解釈は「そう信じたいから信じている」、ということだと思う。

4月は「異常反応」、政府は「国民のいいなり」

仮説2は「コロナウイルス自体は変化していないかもしれないが、人々は、新型コロナをもはや恐れなくなった」という説だ。

これは、現実に当てはまると私は見ている。「なぜ今や恐れないのか」というよりも「4月になぜあれだけ恐れていたのか」の方が正しい謎であって、4月と7月で反応が違うことは「ベンチマークをどちらに採るかの違い」であり、4月の方が異常反応だったと思われる。

ちなみに、政府の対応がまるで違うのは、この人々の反応をそのまま反映しただけで、政府は何も変わっていない。良くも悪くも、ポピュリズムで、国民の言いなりに動いているだけだ。ただ、動きが遅いので、人々が数週間から1カ月前に要求したことをやっているので、人々の要求が1カ月で大きく変わってしまうと、政府の対応が間抜けに見えるだけのことだ。「何をいまさら」と批判を受ける。

実際「マスクがない、韓国ではマスクを配布している」という声が高まったのが3月で、それに官邸の腰の軽い官僚が乗っかっただけなのが、アベノマスクである。「Go Toキャンペーン」も、「地方がかわいそうだ、疲弊している、スナックなど夜の飲食店、観光地の人々を救え」、という世論が高まっていたことに反応した。実際、地方の観光団体、旅行代理店業者たちも悲鳴を上げていたので、浮動票の人々への人気取り、および固定票の支持者たちに対する利益誘導で動いただけで、典型的な政治的政策である。

それがここまで批判を浴びるのは、対応が稚拙だったとは言え、少し気の毒だ。「政府は愚かだ」と批判している人々は、「1カ月前の自分は非常に愚かだ」、と言っていることに他ならないことに、そろそろ気づいたほうがいい。そして、世の中を動かしているのは、官邸ではなく、世論でありメディアであることに気づかないふりをするのはやめるべきだ。

さて、仮説2を採るとすると、人々はなぜ4月はコロナウイルスを恐れ、7月はそれほど恐れなくなったのであろうか?

これに対する仮説Aは、4月に恐れすぎた理由としての仮説だが、初めてのことであり、かつ目に見えない恐怖、症状がない人からも感染する恐怖、というものによってパニック的に恐怖感が広がった、という説である。
これは、感染リスクを恐怖により過大評価しているわけだが、行動経済学では「プロスペクト理論」で典型的にモデル化されているように、微小確率の過大評価、という現象だと考えられる。

恐怖感が煽られ、コロナを過大評価した

しかし、微小確率を過大評価してしまう(宝くじで1等が当たる確率は隕石にぶつかって死ぬ確率よりも低いらしいが夢を買う人々が多くいる、いまや60歳前に死ぬ確率はかなり低いが、子供が生まれると多くの人が生命保険の死亡保障をつけるか、増やす。離婚して親権を失う確率の方が何十倍も高いのに)のは、学問の世界でもコンセンサスである。

だが、どのようなときに過大評価するかは、ほとんどわかっていない。つまり、あるときは過大評価するのに、別のときの微小確率は過大評価するどころか、過小評価、いやいやまったく無視してしまうことも多い、という現象があり、これをうまく説明できない。

今回のケースで言えば、初めてのこと、未知のこと、それもネガティブなことに対しては、恐怖感が煽られ、過大評価するというのが、多数派の解釈だろう。目に見えない、というのも恐怖を煽るには効果的で、放射能を極端に恐れるのも(ラジウム温泉にみんな行っていたのに)同様の理由だ。

これを利用したのかどうかわからないが、4月には「8割削減キャンペーン」が、「ニューヨークの次は東京だ」、というような有識者による脅しが功を奏して、成功した。しかし、今回は2度目であり「ぜんぜんニューヨークにならなかったじゃないか」、ということで、誰も恐怖感を抱かない。

一方、感染者を見たことも聞いたこともない、地方圏の人々は、恐怖を抱き「東京はすべてばい菌マン」という観念に支配されてしまう。これは、ウイルスを恐れているのか、コミュニティでの評判、圧力を恐れているのか、解釈は分かれるところかもしれない。

ただ、一方で「臭いものに蓋」「存在する確率を無視する」「リスクが存在しないことにする」、という現象も見られる。まさに「感染は若い人だけだ」「夜の店だけ」などと信じ込もうとしている(都知事がそうプレゼンしているように見えるからかもしれないが)現象がそうだし、弱毒化説もそうだ。

感染が拡大しているように見えても「いったん動き出した経済はとめられない」、とばかりに、政府も企業も「働き方を変える」ということは言わなくなったし(アリバイ作り的に控えめに言うようになったし)、夜の店も、休業要請でなく「適切な予防措置を施しステッカーを貼る」という方針に切り替えている。「それなら4月もそうすればよかったのに」、と思うが、もう経済を動かすのだから、それに都合の悪い現実には目をつぶる、ということだろう。

これは、行動経済学では古くから名前がつけられており、自分の都合のよいことだけ信じるのは、「確証バイアス」と呼ばれている。選挙で政治家が、事前調査で違う調査が出ると自分が優勢な調査だけ信じるとか、自分の買いたい株式について、良いニュースだけ信じるとか、さまざまな場面で観察される。

逆に、都合の悪いことに目をつぶるのは、「認知的不協和」と呼ばれ、無視する。ビジネス戦略を検討するときに、うまくいく可能性が80%を超えてくると、10数%のダウンサイドリスクは無視して、楽観してバンバン投資する(例えば日本航空との対比で、ここ数年のANAホールディングスはひとつの例かもしれない)ようなことがある。

ただ、ビジネスの投資の例で言うと、広告代理店や商社など、平成バブル期のイケイケのカルチャーが残っている業界と違って、例えば銀行業界など慎重な業界は「部長、リスクがあります、こういう事故が起きる可能性があります」、と言うと、投資はストップされる。「その事故の確率は1%以下なんじゃないの?」と聞くと部下は「確率はなんともいえませんし、たぶん大丈夫ですが、リスクがないとは言い切れません」、と言う。すると部長は「リスクがあるのか、じゃあ中止」、などとなってしまう。

「目立った軸」を中心に「選択肢」を評価

この差はどこから来るのか? 前述の例では、人間のタイプが違いすぎて適切な例ではないが、ハーバード大学のアンドレ・シュライファー教授らが提唱していた「Salience Theory」(Salienceは特徴、突出などの意)というものがあり、リスクや選択を迫られたときに、目立った軸を中心に選択肢を評価する、という理論がある。

これはコンセンサスが得られた理論ではないが、そういうこともあるかもしれない。ただ、この分野は発達途上で、行動経済学者に聞くよりも、人生経験豊富な人々に「脅しのテクニック」を学んだほうがいいかもしれない。いろんな勧誘商法は非常にこのような点を巧みに捉えており、消費者がどのような点に強く反応するか良くわかっているからだ。だが、もっとまともな話でも例は多数ある。

たとえば、今や若い世代は見たことがない人も出てきたかもしれないが、スマホ以前にはデジタルカメラ(デジカメ)というものがあり、ほぼ四半期ごとにモデルチェンジを繰り返した。しかも、ライバル製品に勝つためにひたすら、画素数を競っていた時代があった。1300万画素とか。日本のガラケーのディスプレイもカメラも、そういう競争をしていた時代があった。

しかし、実際には画素数は完全にオーバースペックで、1000万画素も誰も必要としないのである。では「メーカーは自己満足で競っていたか」、というとそうではない。消費者が、画素数の多いものにとにかく飛びつく、ということがあったから技術的には無駄な投資、マーケティング的には的確な投資をしていたのである。ただし、長い目で見れば、スマホにやられ、デジカメに投資していたこと自体が失敗だ、ということに現在から見ればなるだろうが。

結局、人間がどういうときに、微小確率を過大評価するのか、無視するのか、というのか、恐怖を煽ることをうまく使う、ということ以外はあまり経験則もなく、これから学問的にも発展途上である。またビジネス戦略としても常に儲かる探求分野である。

コロナ関連でも、政策担当者はマーケティングには優れているかもしれないが、私としては、普通にウイルスという感染症と淡々と静かに戦ってほしい(本編はここで終了です。次ページは競馬好きの筆者が週末のレースや競馬論を語るコーナーです。あらかじめご了承下さい)。

競馬である。「Win5」(JRAが指定する5つのレースの勝ち馬を予想する投票)について書きたかったが、本編が長くなったので簡単に、札幌で行われるクイーンステークス(G3、8月2日、札幌競馬場11R、距離1800メートル)を予想しよう。

このレースは夏の牝馬の重賞として極めてレベルの高い馬たちが集まることが多い。今年はG1ホースは参戦していないが、2019年はミッキーチャーム、一昨年はディアドラ、その前はアエロリットと、名だたる牝馬が勢ぞろいしている。

クイーンSは一番強いスカーレットカラーで

私は、これを夏のG1として、また3歳路線も、2歳も、そして4歳以上の古馬も、すべてG1を作って「夏の札幌G1ウィーク」として開催したらよいと、過去20年以上にわたって提案しているが、微小確率よりも低い状態で無視されている。

アメリカには、サラトガスプリングスというニューヨーク州の北部の高級避暑地にあるサラトガ競馬場で、例年であれば8月後半にサマーシリーズが行われ、サマーダービーといわれるトラヴァーズステークスなど、多くのG1レースが行われる。この手法の良いところを札幌でも取り入れたらどうかと思う。しかもGo Toキャンペーンよりもましな北海道経済振興策でもあると思うので、誰か、よろしくお願いします。

さて、肝心の今年のクイーンステークスは、スカーレットカラー。理由は一番強いから。単勝。