台湾のデジタル担当大臣、オードリー・タン氏は台湾政治に新しい風を吹かせている(写真:今周刊)

台湾の唐鳳(オードリー・タン)デジタル担当大臣。彼女には、必ず「天才」という呼び名がつきまとう。

台湾政府の中でも特殊な存在であるというタン氏だが、彼女は自身が英雄になることを望んでいない。タン氏が求める道は、市民と意見を交わし、ともに社会へ貢献していくことだ。日本でも話題となった「マスクマップ」はその一例だ。では、この天才はどんな信念をもって台湾の政治に新しい風を吹かせたのか。

台湾政治に新スタイルをもたらした

タン氏は2016年、当時の林全・行政院長(首相に相当)の要請を受け、デジタル政務委員(大臣)として入閣した。林院長はタン氏の持つ「異質な遺伝子」を内閣に取り入れたいと考えていた。政策づくりに才能ある民間人を積極的に登用し、異なる視点や意見から刺激を与えることで、政治に革新を起こそうと試みたのである。

タン氏本人も民間と官庁をつなぐパイプ役になりたいと希望し、彼女が長年関わってきた世界のオープンコミュニティの経験を政府と共有したいと考えていたところだった。

林氏が辞任しても、タン氏は続く2人の行政院長の期待を裏切ることはなかった。その代表例が、2020年の新型コロナウイルス流行時に発表されたマスクマップである。これはタン氏らと民間の技術者が協力して作り上げたものだ。マスクマップは海外でも話題となり、日本や韓国で同様のサービスが展開された。その成功はタン氏が長年提唱してきた官民連携の有効性を証明し、台湾の政治に新しいスタイルをもたらした。

マスクマップをはじめ、デジタルツールを駆使して世界的な注目を浴びたタン氏。ここで彼女が強調するのは、「マスクマップは決して特定の個人が作ったものではなく、ソーシャル・イノベーションの結果」ということだ。

タン氏は「簡単に言えば、『みんなのことを、みんなで助け合う』ということ。政府が何をしようとしているかに関係なく、1人ひとりがより良い方法を考え、思いついたらやってみる。マスクマップは、みんなが良いアイディアだと思ったから、みんなで作った」と強調する。

では、社会にイノベーションが起きるとき、政府が果たすべき役割は何か。タン氏はイノベーションにおける政府の役割を政府が市民を全力で支持することだと考えている。

「過去によく聞かれた『シビック・エンゲージメント(市民の社会参画)』というものは、政府がテーマを設定して、市民に意見を求めるというものだった。しかし、ソーシャル・イノベーションは市民がテーマを決め、政府が協力して完成するもの。政府は決して主体ではなく、方向性をコントロールする存在でもない」

イノベーションのために新設された職務

タン氏がこれまで強く信じていたのは、「1つの意義のある任務を完成させるには、多くの人の知恵が必要だ」ということだ。タン氏は個人による試行錯誤よりも、大衆の知恵を出し合うことのほうがはるかに効率がよいと考えている。

また、どんな公共政策でも、その影響を受ける市民の数に対し、政策決定する政治家の数は極めて少ない。もし実際に影響を受ける市民らが政策のテーマを設定すれば、その討論の中には多くの意見が取り入れられる。つまり、市民の声を反映した政策は、一部の政府関係者が無理に推進した政策より優れたものになるはずだとタン氏は考えている。

イノベーションを実現させるために、台湾では「パブリック・デジタル・イノベーション・スペース」(PDIS)と「パーティシペーション・オフィサー」(PO / 開放政府連絡人)という2つの職務が創設された。

POに就くのは行政院所属の各機関と独立機関からの出向者で、その役割はメディアや政府のスポークスマンのようなものだ。また、POには自身の所属機関の業務を熟知し、かつ市民にわかる言葉で対外的な説明ができる能力を求められる。同時に市民の意見を内部に伝え、必要であれば会議を開く。PO間でも定例会議があり、各機関を横断する議題について話し合う。

2017年に始まったPOによる成果のうち、タン氏が最も誇らしく思うのは、2017年5月の納税時期に起きた電子納税システム炎上事件だ。きっかけは市民によるFacebookへの書き込みだった。当時、財政部(財務省に相当)が提供していた電子納税用のアプリケーションは使い勝手が悪く、Mac OSにも対応していなかった。

ある市民がMacユーザーはどう納税すればよいのか問い合わせたところ、財務部は「Windowsがインストールされているパソコンを借りて納税してほしい」と回答した。事の次第をネット上に書き込むと、同じ不満を持つネットユーザーから財政部への批判が殺到し、炎上した。

成功例の積み重ねでイノベーション強化

炎上するや否や、財務部のPOはすぐに書き込みにコメントした。そして、不満の声を上げたネットユーザーらを招き、対策会議を開いた。その会議の意見を基に、財政部と共に電子納税システムの改善が図られた。

タン氏は「財政部からのPOがコメントした途端、流れが変わった。80%のネットユーザーが(システム改善のための)具体的な提案を出し、残る20%のユーザーは財政部長(大臣に相当)の退任を求めたが、そんな意見は見向きはされなかった。最初の書き込みをした人は単なる財務部批判ではなく、アイデアがあった。伝統的な市民参画のスタイルを打ち破り、完成した電子納税システムの満足度は90%以上だ」と振り返る。

「自身の意見が政策に反映できる」と多くの市民が実感できれば、民間発のアイディアは尽きることなく湧いてくるはずだとタン氏は考える。延べ2000万人以上が利用したマスクマップも同じで、これらの成功例を積み重ね、台湾は市民の手による公共政策イノベーションの力をさらに強めることになるだろう。

中学2年生で学校を離れて自主学習を始めて以来、タン氏はある1つのテーマを研究し続けてきた。それは、2人の間で行われるインタラクティブな対話をいかにして20人、200人、1000人、1万人単位へと広げていくかということだ。これを重んじるタン氏は、大臣に就任後も学校での講演をすべて受けている。すでに100回以上になる。

講演を取り仕切るPDISメンバーの黄子維氏は「タン氏の思いはとてもシンプルで、若い人にもっと政府の運営や実務について知る機会をもってほしいと願っている。もし彼らが(タン氏との)交流の中で政府に興味を持ってくれたら、それはイノベーションの種を未来へまいたことになる」と話す。

公務員といえば「保守的」「慎重」というイメージが強いが、タン氏が提唱する作業を通じて、彼らもイノベーションへの想像力を発揮するようになってきた。

公務員には「他者の成功体験に学び、模倣することに長ける」という特性があり、政府によるイノベーションが最初から大規模になることはない。言い方を変えれば、前例があればスムーズに事が運ぶということだ。市民の意見を取り入れ、大幅に改善された電子納税システムの成功例は、政府機関が民間と協力するためのハードルを下げたと言える。

その一方、タン氏は「私が出会う公務員は、誰もがイノベーションに積極的だ。私たちのところに来るのはチャンスを待っていた人たちなのだ。革新的でない人には会ったことはない」とも語る。

道を変えても目的地は変わらない

PDISの運営において、タン氏は「市民の知恵こそが至上である」という原則を守り続けている。PDIS内に階級はなく、1人ひとりが異なる専門性を持つプロとして全員が平等に扱われる。

誰か1人に決定権があるわけではなく、何をするにしてもタン氏はまず全員の意見を聞く。そして、大まかな方針のみを決め、細かい手順は随時修正していくやり方でさまざまなプロジェクトを進めている。

このPDIS方式は、従来の公共政策で使われがちな「1つひとつの手順を踏んで事を進め、その進度を厳しくチェックする」という方法から見ると、まったく正反対の考え方だと言える。そのため、「朝礼暮改」「リーダーシップに欠ける」などという批判を受けることも多かった。

これに対し、タン氏は「朝令暮改とは、車の運転に例えるとバックさせたり、外出自体をキャンセルするようなもの。しかし私たちのやり方は『前方の渋滞に気づいたら、別のルートに切り替える』ということだ。道を変えるだけで目的地は変わらない」と反論する。

この新しいやり方で台湾は未来に前進しようとしている。だが、タン氏が退任したら、台湾の政治はこの方向性を維持できるのだろうか。この問いに対し、タン氏は「(オープンガバメントと官民連携は)すでに浸透している。PO制度も公共政策参加プラットフォームも、核心部分はすでに出来上がっていて、あとはそこを押さえてみんなが実践するだけ」と答える。そして、オープンイノベーションが定着していけば、「私という個人がここにいるかどうかは、重要なことではない」と言う。

神童、天才と言われながらも、自身の考えが他人より優れていると考えたことはないというタン氏。彼女の望みは、すべての人が自分の意見や知識を惜しみなくシェアし、誠実に話し合いのできるプラットフォームを作ること。誰もが認める天才がもっとも忌避するのは、孤独なのである。〈台湾『今周刊』2020年7月8日〉