オリンピック出場がサッカー人生に与えた影響
第3回:2012年ロンドン五輪・永井謙佑(前編)

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本来であれば、2020年7月22日から8月9日の日程で開催される予定だった東京五輪。新型コロナウイルスの感染拡大の影響によって、1年後に延期されることになったが、サッカー選手にとって、五輪とはどういう舞台になるのだろうか。また、五輪はその後のサッカー人生にどんな影響をもたらすのか。第3回は、2012年ロンドン五輪に出場した永井謙佑に話を聞いた――。

◆ ◆ ◆

 2012年に開催されたロンドン五輪。男子サッカーはスコットランドをはじめ、イギリス各地で試合が組まれた。


永井謙佑が、2012年ロンドン五輪の自らのプレーやチームの戦いを詳細に語った

 日本サッカーは、日本代表が10年南アフリカワールドカップ(W杯)でベスト16に進出し、その後、アルベルト・ザッケローニが監督に就任。本田圭佑、香川真司ら主力選手が成長して非常に注目され、人気、実力共に高まっていた時代だった。

 だが、ロンドン五輪に出場したU−23日本代表チームは、アジア最終予選で苦戦した。そのためA代表への期待感や人気とは正反対に、チームへの評価、選手の知名度は低かった。グループリーグでスペイン、モロッコ、ホンジュラスら強豪国と同組になった日本は、突破は厳しいと言われていた。

 そのチームが大方の予想を覆し、ロンドン五輪で快進撃を果たすのである。

 このU−23日本代表のFWだった永井謙佑は、当時を振り返り、こう語る。

「ロンドン五輪のチームは、前評判が低くて、すぐに(日本に)帰ってくるだろうと言われていました。でも自分としては、チームはそこまで悪くないし、何が起こるかわからないと思っていました。それは南アフリカW杯での経験が大きったと思います」

 永井は南アフリカW杯の時、日本代表の練習パートナーとしてチームに帯同した。岡田武史監督率いるチームも前評判が低く、ロンドン五輪の時と同じように「グループリーグ敗退レベル」と揶揄されていた。だが、大会直前の大がかりなチーム改造が功を奏し、最後はベスト16進出という結果を残した。

「南アフリカW杯の雰囲気を味わえていたのは大きかったですね。周りには期待が高くないチームでしたが、直前に戦い方を変えて結果を出した。ロンドンの時のチームはもっと期待されていない感じでしたけれど、南アフリカにかぶる部分がありました。大会前に戦い方を変えて、『見とけよ!』という思いで、みんなが一つになれたのが大きかったです」

 南アフリカW杯とロンドン五輪のチームの共通点は、大会前に戦い方を大きく修正したことだ。ロンドン五輪の時は、大会前の練習試合ベラルーシ戦までは4−4−2のポゼッションスタイルをとっていたが、最後の練習試合であるメキシコ戦から4−2−3−1と永井の1トップに変更。カウンター攻撃を軸にし、守備の細かい約束事を決めた。

「1トップは、攻撃も守備も全部やらないといけないので、めちゃくちゃ走ります。五輪代表では(1トップを)半年以上やっていなかったですし、クラブ(当時は名古屋グランパスに所属)でもやっていなかったので、正直、体力が持つかなという不安がありました。ただそのなかで、変化としていちばん大きかったのは、守備のやり方が機能したことだと思います」

 メキシコ戦で、守備はどう変わったのか。

「最初は縦のパスコースだけ切って、背後にボールを蹴られないようにする守りでした。でもオーバーエイジ枠で吉田麻也選手が入って、自分がまず守備に動いて相手の縦に蹴るコースを限定して、ボールの取りどころをハッキリさせました。それで、みんなが連動して前からボールを追えるようになり、奪ったら速く攻めるカウンターを確立することができた。すごくイメージがよかったので自信になったし、そこからイケるなって思いました」

 大胆な戦術変更に加え、選手たちはグラスゴーで行なわれる初戦のスペイン戦に向けて、コンディションを100%にすべく調整していた。グループリーグから決勝まで徐々に上げていくのではなく、一戦必勝で初戦からフルスロットルで戦うと決めていたのだ。

「自分たちに出し惜しみしている余裕はないし、最初から100%でいかないとスペインには勝てないと思っていました」


ロンドン五輪初戦で日本はスペインに勝利。チームは勢いに乗った photo by AFLO

 スペインは、A代表が南アフリカW杯で優勝していた。U−23代表もA代表の流れを組むパスサッカーで、イスコやジョルディ・アルバら個人の質も非常に高い、優勝候補だった。

 しかし、日本はスペイン戦を絶対に落とすわけにはいかなかった。

「初戦を落とすとグループリーグ突破が厳しくなる。だから、スペイン戦が非常に大事なのはわかっていました。試合は、みんなモチベーションが高く、フレッシュでほぼ互角に戦えた。大津(祐樹)選手が先制点を決めましたが、それが大きかったですね」

 前半34分に大津が先制点を取ったことで日本は勢いを増し、守備もハマっていた。前半41分には永井にボールを奪われたDFイニゴ・マルティネスが、そのまま永井を倒してレッドカードで退場した。

「相手がアバウトなトラップをして、ミスをしたところを狙いました。うまく寄せて取れたのでよかった。ただ、スペインが10人になって(試合は)こっちの流れかなと思ったら、そんなに甘くはなかったです。逆に相手が割り切って攻めてきたので、本当にヤバかった。11対11だったら、どうなっていたかわからない。

 それでも、日本は守りではなく攻めて、もう1点を取りにいくプレーをしたのが、逆によかったと思います。おそらく、引いたままだと、相手の思うツボになっていました」

 日本は、スペインに1−0で勝利し、勝ち点3を獲得した。それは「グラスゴーの奇跡」と名付けられ、世界に大きく報道された。

 つづくモロッコ戦は、終盤に永井が決勝ゴールを挙げて勝利し、日本は早々に決勝トーナメント進出を決めた。

 この時、得点パターンがひとつ確立されたのだが、それが清武弘嗣と永井のホットラインだった。モロッコ戦では清武が前線を見ずに相手 の背後にボールを出し、快速を飛ばした永井が前に出てきたGKの鼻先でボールを蹴り上げて、頭越しにシュートを決めた。

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「あのゴールはGKより先に触れると思ったけれど、ピッチが硬かったので、シュートが途中でバウンドした時にゴールを外れてしまうのではないかと心配しました。清武選手のパスは絶妙でした。パスを出す瞬間、顔を上げるんです。ボールが来るなと思って走ったらポンと出てくる。

 僕の場合、スペースにアバウトにパスを出してもらったほうがいいです。清武選手はそれを理解してくれていて、ほかの選手よりもひとつ奥の場所にパスを出してくれる。それで僕の次のプレーは楽になります。相手の懐深くに入れる回数が増えるのでチャンスになるし、そこでファウルをもらえば相手に警告が出ることもあるので」

 モロッコに1−0で勝利した日本は、3戦目のホンジュラス相手には主力を温存して0−0のドロー。グループリーグを首位で通過し、準々決勝でエジプトと対戦することになった。

 そのエジプト戦も、日本は安定した戦いで3−0の完封勝利を挙げ、68年メキシコ五輪以来、44年ぶりの準決勝進出を決めた。

 永井はエジプト戦でも先制点を挙げて、勝利に貢献した。しかし、ゴール直後に相手のラフプレーでモモ裏を打撲し、途中交代を余儀なくされた。

「あれは、サッカー人生でいちばん痛い太ももの打撲でした。100kg近い選手に後ろから思いきりやられましたからね。ゴールを決めた瞬間、喜びたかったですが、痛すぎて喜べなかった(苦笑)。シュートを打ったあとに来たので、狙われていましたね。カードが出るかなと思ったけれど、出なくて。

 僕は、まだ行けるかなと思ったけれど、途中からヒザが曲がらなくなったので交代させてもらいました。その後、大津(祐樹)選手と吉田麻也選手が決めてくれたので、ロッカールームでアイシングをしながらゆっくり試合を見ていました」

 永井のモモ裏の負傷は、かなり重かった。実際、次の準決勝メキシコ戦前日まで出場の目処が立なかった。しかし、永井は治療に専念するなか、チームに大きな変化が生じているのを感じていたという。

「スペイン戦からエジプト戦まで勝ってきたけれど、自信ってすごいなと思いました。みんな伸び伸びとプレーし、試合を楽しんでいた。そういうムードになったのは、やはりスペインに勝ったのが大きかったですね。いちばん大事な試合で、自分たちのやり方がハマって勝てた。その自信が試合に勝つごとに大きくなって、エジプト戦は負ける気がしなかった。そのくらい、みんな強くなっていたんです」

 チームには勢いがあり、選手たちは自信に満ちていた。たしかに、グループリーグ3試合、そして準々決勝の1試合で失点はゼロ。堅守速攻型のスタイルがハマり、現地での評判も高く、いつしかメダル候補とまで言われるようになった。

「ここまで来たら、メダルやぞ!って、みんな気持ちがひとつになっていた」

 永井は、太モモの痛みを抱えながら、準決勝のメキシコ戦に出る覚悟でいた。
(つづく)

永井謙佑
ながい・けんすけ/1989年3月5日生まれ、広島県出身。FC東京所属のFW。ロンドン五輪時のU-23日本代表のFWとして活躍。日本代表国際Aマッチ12試合出場3得点。九州国際大付属高→福岡大→名古屋グランパス→スタンダール・リエージュ(ベルギー)→名古屋グランパス→FC東京