われわれが日常的に行っているクルマの運転と、飛行機の操縦で大きく異なるところは何だろうか。リストアップすればいろいろ出てくるだろうが、目立つところとしては「非常事態に対する備え」があると思う。

縞々で囲まれたページ

米軍機のフライトマニュアルを見ると、必ず「非常事態対処」について書かれたページがある。そのページだけ、周囲を縞々模様で囲んで強調しているので、とても目立つ。カラー印刷なら、計器盤と同様に黄色と黒のトラ塗りにするところだろうけれど、白黒印刷なので濃淡の縞々で済ませているのだろう。

これはどういうページかというと、「こういう非常事態が発生した時は、こういう手順で対応する」という話が延々と、さまざまな事態について書かれているのだ。

もちろん、非常事態になってからマニュアルを引っ張り出して参照していたのでは間に合わないから、自分が操縦資格を持っている機体の非常事態対処手順は、ちゃんと暗記しておかないといけない。

そして、例えば軍の飛行訓練課程では、フライト前のブリーフィングなどの席で教官からいきなり「これこれの場面における対処手順は何か」と訊かれることがあるという。もちろん、ちゃんと答えられなければ怒られる……で済めばまだマシで、その日のフライトがキャンセルになってしまう、なんていう事例もあると聞く。

試しに、F-15Eストライクイーグルのフライトマニュアルで、とりあえず項目数だけ数えてみた。

STARTING(エンジン始動) : 5項目

GROUND OPERATION(地上でのいろいろ) : 8項目

TAKEOFF(離陸) : 9項目

INFLIGHT(飛行中) : 44項目

LANDING(着陸) : 11項目

合計77項目。しかも、項目ごとに「手順が1つ」なんていうはずもなく、複数の操作が並ぶ。それだけでなく、「もしも○○だったら△△する」という条件分岐が発生することもある。

それを全部覚えるだけでも並大抵のことではないが、それだけでは終わらない。もしも何か「おかしい」という事態に遭遇した場合、目の前で起きている事態が、その77項目のうちのいずれに該当するかを判断しなければならない。そこで判断を間違えれば、その先の操作手順が正しくても、適切な対処にならない。

また、事故あるいは事故に至らないインシデントによって得られた教訓に基づき、マニュアルの内容が改訂されるかもしれない。非常事態対処手順が改訂の対象になる可能性だってある。

F-15Eストライクイーグル 写真:US.Airforce

例えば、ボーイング737MAXの事故を受けて、ボーイングはMCAS(Maneuvering Characteristics Augmentation System)のソフトウェアを手直しするとともに、マニュアルの改訂も実施した。ソフトウェアの手直しによって、システムの動作や操作の手順、操作の内容に変化が生じるのだから当然である。

つまり、マニュアルの内容は最初に一度覚えればそれで終わり、というものではなくて、常にアップデートしていかなければならない。間違って、古い非常事態対処手順を頭の中から呼び出したら、困ったことになる。

ボーイング737MAXのフライトデッキディスプレイ 資料:Boeing

シミュレータで危ない経験をしておく

覚えるだけでなく、いざという時には覚えたとおりの手順を適切に行えなければ、事故につながってしまう。しかし、実機で非常事態を起こして訓練するというわけにもいかない。昔、そうやって訓練をしていたら本物の事故になってしまった事例もある。

もちろん、それは訓練の内容次第のところがあるから、クリティカルな事態に至らない内容の訓練であれば、実機で飛行中にやっても良いわけだ。しかし、それで済まない場面は確実に存在する。

そこで威力を発揮するのが、以前にも少し話が出てきたフライト・シミュレータ。シミュレータは、対象機種の動作を忠実に再現する機械だから、もちろん非常事態や異常事態も再現できるようになっている。シミュレータで非常事態や異常事態も再現して、適切に対処できるかどうかを見たり、適切に対処できるようになるまで訓練を繰り返したり、というわけだ。

もし、そこで操作ミスがあっても、シミュレータなら人命に関わる事態にはならないし、機体を壊すことも、地上に被害を出すこともない。パイロットが訓練課程からエリミネート(落第)させられるぐらいのことは起こり得るけれど……。

つまり、シミュレータは単に技量を身につけたり操作手順を覚えたりする場面だけでなく、飛行安全のためにも役立つ機械なのである。

操縦以外の場面でもシミュレータ

非常事態や異常事態に備えた訓練が必要で、しかも本物で訓練すると危険なことになる可能性がある、という話は、何もパイロットに限らない。例えば管制官だって、非常事態や異常事態に備えた訓練は必要だろう。

だから、管制官を訓練するためのシミュレータも実在する。フライト・シミュレータなら、ビジュアル装置があってコックピットの窓の外に見える光景をコンピュータ・グラフィック表示する。これが管制官用のシミュレータになると、管制塔の窓の外に見える光景をコンピュータ・グラフィック表示する。

もちろん、教官卓でさまざまな状況を設定して、極端な話、「滑走路に進入して離陸を始めた機体がいるのに、その後方から別の機体が着陸しようとしている」なんていう物騒なシナリオを用意できる。

航空に限ったことではなく、シミュレーション訓練の技術や機材はものすごい勢いで進歩しているので、もしも興味がおありなら、調べてみると面白いと思う。シミュレーション技術を駆使して、本物の危険を引き起こさずに非常事態・異常事態に備えた訓練を行うこともまた、飛行安全のための取り組みの1つなのである。

著者プロフィール

○井上孝司

鉄道・航空といった各種交通機関や軍事分野で、技術分野を中心とする著述活動を展開中のテクニカルライター。

マイクロソフト株式会社を経て1999年春に独立。『戦うコンピュータ(V)3』(潮書房光人社)のように情報通信技術を切口にする展開に加えて、さまざまな分野の記事を手掛ける。マイナビニュースに加えて『軍事研究』『丸』『Jwings』『航空ファン』『世界の艦船』『新幹線EX』などにも寄稿している。