先週末から上限5000人(または収容人数の50%の少ない方)の観衆を入れ始めたJリーグ。応援を扇動する行為、歌、太鼓、鳴り物、手拍子、さらにはタオルマフラーを振り回したりする行為を禁止するなど、試合の観戦には様々な制約が設けられている。

 観衆が可能な行動は、好プレーに拍手を送ることぐらい。スタンドは5000人が入っているとは思えない不思議な静けさに包まれることになった。

 だが、かつてはこれが普通のスタンド風景だった。Jリーグが始まる前、日本リーグ時代の話だが、日本代表の試合を含め、サッカーは静かに観戦するものだった。なにより応援団というものが存在しなかった。ゴール裏席の観衆も、現在の正面スタンドとバックスタンドの観衆同様、座席に腰を下ろした状態で試合のゆくえに視線を傾けた。

 1980年代のスタンドに戻ったという印象だ。昔を知る者には、それほど違和感はない。懐かしささえ覚える原風景を見るような光景だ。

 だが、かつてと大きな違いもある。好プレーに対して頻繁に拍手が沸き起こることだ。観衆にそれしか選択肢が与えられていないこともあるが、拍手は新鮮なモノとして映る。Jリーグ開始前はもちろん、現在まで欠けていた要素であるからだ。その重要性がこれまで日本で語られることはなかった。

 応援は、ほぼゼロの状態から、Jリーグ開始とともに不可欠なモノとなった。ゴール裏に陣取るサポーターの中に何人かのリーダーがいて、その合図のもとに次の応援が始まるという仕組みである。そうした集団的な応援の中に、拍手という選択肢はなかった。

 拍手は自然に湧き上がる各個人に委ねられた感情の表現だ。集団の制約を受けない場所、正面スタンドやバックスタンドに座る観客が起こしやすいアクションになる。だがここに座る観客像は昔もいまも変わりない。応援はゴール裏席のサポーターに任せ、自らは静かに観戦する。拍手を送る人はゼロではないが、同じ位置で見ている欧州の観客に比べると圧倒的に少ない。存在感はほぼゼロだ。

 正確に言えば、だった。その日本に見られなかった応援のスタイルが、皮肉にもいま開花した状態にある。上限5000人という制限は、8月から収容人員の半分に変更される。観衆はいまの倍以上に膨れあがるだろう。しかし上で記した制限は、継続されると言う。これまでゴール裏で集団的な応援をくり広げてきたサポーターは、元の姿に戻れない状態が続く。つまり「拍手」は湧きやすい状況にある。拍手を応援文化として根付かせる、いい機会だと捉えたい。

 5000人の目が、漏れなくピッチに届いていることがよく分かる瞬間だった。選手の背中を押すのは、見られているという感覚だ。観衆の熱い視線を最大のモチベーションに選手はプレーしている。ワンプレー毎に湧く拍手は、終始、鳴り続ける応援より断然、効果的だ。直接的で、その背中に鋭く刺さる。

 前にも述べたが、カンプノウにはゴール裏のサポーターというものがほとんど存在しない。応援をリードするのは一般の観衆だ。9万8千余人の観衆が一斉につく溜息ほど、選手にとって怖いものはない。背中に強烈な視線を感じる瞬間なのである。 逆に9万8千余人から一斉に起きる拍手ほど、背中を押されるものはない。その特徴をさらに言うなら、他のスタジアムでは湧かないと思われるタイミングで拍手が湧く。何気ない1本の横パスに対して、万雷の拍手が降り注がれる。「このプレーに観衆は拍手を送るのか」と、選手より送ったカンプノウのファンに感動させられることが、一試合に2、3度はある。観衆が芸術的なプレー、美しいプレーを好んでいることが拍手の志向から伝わってくる。