iPhoneが全盛となったいま、スマートフォンのホーム画面がさながら地政学的な戦場の様相を呈している人もいるかもしれない。そんな2020年6月初め、ヒマラヤ地帯の国境を巡る中国軍との衝突で、インド人兵士20名が死亡する事件があった。これを受けてインド政府は6月30日、モバイル機器の使用に関するある発表を行い、国民のデジタル生活に衝撃を与えた。

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インドの情報技術省による衝撃の発表とは、データの安全性とプライヴァシーを脅かす恐れがあるとして、59のモバイルアプリの使用を禁止したことである。対象となったのはすべて中国製のアプリで、中国で最も広く使われているメッセージアプリ「WeChat(微信)」や、絶大な人気を誇る動画共有サーヴィス「TikTok」も含まれている。

TikTokは中国企業バイトダンス(ByteDance、字節跳動)が運営している。モバイルアプリ専門のマーケティング調査会社のSensor Towerによると、インド国内におけるダウンロード数は6億回を超えるという。こうしたアプリを使用禁止にすることで、インドは自国の消費者たちをより直接的に紛争に巻き込むかたちで、世界中で高まりつつある中国ハイテク企業勢への反発に加勢することになる。

相次ぐ中国企業の締め出し

中国政府による人権侵害や米国の知的財産を侵害していることを理由に、トランプ政権は中国のテクノロジー企業やその出資元企業に対してさまざまな貿易上の制限を課してきた。オーストラリアや日本などの同盟国もこれに従い、安全性に問題があるとして中国企業のファーウェイ(華為技術)製の機器を5G通信網から締め出す動きがある。

米国では、TikTokと中国政府との距離が近すぎるとの批判が議員らから上がっている。動画コミュニティアプリ「Musical.ly」をTikTokが買収した件についても、規制当局が調査を進めている。

中国のテクノロジー企業がこうした激しい攻撃に晒されていても、いまのところ米国の平均的な“スマートフォン中毒者”たちにさほどの不都合は生じていない。だがインドでは、政府による人気アプリの禁止は避けられないだろうと多くの消費者が考えている。中国製以外のアプリについては、ロシア政府が米国の「LinkedIn」など複数のアプリの使用に圧力をかけており、ブラジルでも米国製の「WhatsApp」がこれまでに何度か政府当局の指示によって一時的に使用不能になった。

迫られる対策

中国のインターネット企業は、欧米ではあまり勢力を伸ばしていない。だが、世界のオンライン人口の3分の1以上を占めるインドの巨大なインターネット市場では、大成功を収めている。

Sensor Towerのデータが示すように、インドはいまやTikTokのダウンロード数で中国と米国を超える世界最大のマーケットだ。ウェブトラフィック専門の調査会社Statcounterの調査によると、中国のアリババの子会社が開発した「UC Browser」は、インドでグーグルの「Chrome」に次いで広く使われているモバイルブラウザーで、その市場シェアは20パーセントに迫るという。だが、これも同じく20年6月30日に使用禁止となった。

インドでは動画共有アプリの「Kwai」も禁止対象になっている。先ごろ米国の人気チャートで1位を獲得しながらも、コンテンツ盗用疑惑の渦中に姿を消したいわくつきの動画アプリ「Zynn」の姉妹版に当たるアプリだ。

グーグルやアップルをはじめとするアプリストアの運営企業は、今後インド国内のユーザーが禁止対象のアプリをダウンロードしたり更新したりできないようにする対策を求められることになる。インド政府もインターネットプロヴァイダー各社に対し、禁止されたサーヴィスへのアクセスを遮断し、ダウンロード済みのアプリを無効にするよう要請するはずだ。

こうしたやり方はほかでもなく、アプリストアを政府の支配下に置いたり、「グレートファイアウォール(金盾)」と呼ばれるシステムでネット上のデータの流れをフィルタリングしたりといった、中国のインターネット規制策にそっくりと言える。

国境問題が決断の転機に?

中国のインターネット企業の台頭と影響力が、インド政府の不安をあおったことは以前にもあった。インドの情報技術省は17年、UC Browserに関する調査を開始している。きっかけとなったのは、UC Browserがデヴァイスの識別子や検査クエリといったデータに適切な保護を施さないまま、自社のサーヴァーに送信するようなプライヴァシー侵害行為を続けていたことが、トロント大学のシチズンラボの調査によって明らかになったことだ。

だがUC Browserは、いまもインドで広く利用されている。こうしたなかグーグルとアップルは、19年4月の2週間、インド国内で閲覧できるアプリストアからTikTokを除外した。TikTokを通じて子どもたちが不適切なコンテンツを目にしたり、児童虐待が助長されたりする恐れがあるとしたタミル・ナードゥ州の裁判所の判断を受けてのことである。

「一部のこうしたアプリは、これまでずっと懸念の対象となっていました」と、ブルッキングス研究所でシニアフェローを務め、米印関係における中国の役割について近著があるタンヴィ・マダンは言う。「いまの中国とインドの国境問題は、どんなかたちであれプライヴァシーや国家安全保障上の理由から検討が続いている、さまざまな決断を下す転機となったのかもしれません」

インド政府はこれまでも、国外のインターネットサーヴィスを問題視してきた。インドの通信規制当局は2016年、Facebookの使用を禁止し、代わりにネットの中立性を侵害するサイトには一切アクセスできないインターネット接続サーヴィスを無料で提供している。

マダンは現在、中国がどんな反応を示すか見守っているところだという。報復としてインド製アプリの使用を禁止しても、中国にとってはあまり意味がないだろう。もともと中国は国外のテクノロジー企業をインドほど積極的に迎え入れてはいないからだ。

事実上の検閲との指摘も

中国側がどう反応しようと、政府の地政学的な戦略によって自分たちの日常的な通信手段や自己表現の手段が奪われたことに、多くのインド国民はもう気づいているはずだ。数百万規模で存在するTikTokユーザーたちは、ほかのサーヴィスに乗り換えることになるだろう。WeChatで中国にいる友人や家族、仕事先とつながっている人々は、別の通信チャネルを探すか、何らかの対策を打つ必要に迫られる。

「これは事実上の検閲です」と、ワシントンD.C.のシンクタンクであるニューアメリカ財団で中国の技術政策を追う研究員のグラハム・ウェブスターは言う。彼はインド政府がプライヴァシーの侵害を懸念して検閲行為をすることに理解を示しながらも、正当な手順を踏まずに行動するインドのやり方には不安を感じている。

「自国のネットユーザーを締めつけて、公共の場であるインターネットの世界にアクセスしたり、参加したりする力を奪おうとする行為です」と、ウェブスターは指摘する。