第2次池田(勇人)改造内閣の発足に際し、池田を出し抜いた形で念願の「田中角栄大蔵大臣」「大平正芳外務大臣」を実現させた2人は、まさに水を得た魚の感があった。高度経済成長へ向けての政策過程で存分に仕事をし、その実績からともに「出世街道」を突っ走っていった。

 田中は持ち前の人心掌握術を武器に官僚を抑える一方で、大盤振る舞いの予算を組んでは自民党内の要望を汲むことで、党内支持を獲得した。大平もまた田中と組んでの「IMF(国際通貨基金)8条国移行」と「OECD(経済協力開発機構)」加盟により、わが国を開放経済体制へ向けた経済外交で、これまた自民党内に「外交通」を定着させた。

 そうした過程を踏み、いよいよ田中が昭和47(1972)年7月の自民党総裁選に出馬することになったが、ここで初めて、それまで打算のなかった友情を軸とした「盟友」に、微妙な感情のブレが生じたようであった。

 総裁選は田中以外に、最大のライバルの福田赳夫、大平正芳、三木武夫の4人で争われた。第1回投票で誰も過半数を取れない場合は、1位と2位の者が決選投票という決まりで、時に衆参の自民党所属国会議員だけによる投票であった。

 結果は第1回投票が、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票で、決選投票では大平が田中を支持する形となり、田中282票、福田190票と田中が圧勝した。ここに、学歴なく、戦後としては最年少、54歳の首相が誕生したのだった。

 しかし、前述したように、この総裁選の渦中で初めて「盟友」2人に微妙な感情も流れたようだった。食うか食われるか、政治生命を懸けた天下取りのような場では、時に人間は周囲が見えなくなる。心を許して相談できる人が周りにいても、頭は自分だけのために回転するのである。

 このときに田中が抱いた大平に対する感情のブレについて、総裁選を直接取材していた政治部記者の、次のような証言が残っている。

「田中にとってこの総裁選の命題は、とにかく第1回投票で1位になることだった。2位になった場合は、大平の力を借りても決選投票での逆転が難しいと読んでいたからだ。ために田中は、大平に『君はまだ幹事長と大蔵大臣をやっていない。俺に、先にやらせてくれ』と頭を下げたそうです。

 その一方、第1回投票で大平票が3ケタを割ると、以後の大平による天下取りが危うくなると、田中は徹底的な情報網を敷いて大平の票割りに腐心、大平にもギリギリの票を回していた。田中の情報戦は凄まじく、大平が何日何時に誰と会ったかなども知っていた。ためにピッタリ“大平3ケタ”の票割りも果たすことにつながった。のちに大平は言っていた。『角さんは凄かった。怖かった』と」

 そして田中政権が発足すると、大平は幹事長ポストを希望したが、田中はこれを呑まなかった。政局をにらめる自派の側近、橋本登美三郎を幹事長とし、大平を外務大臣とした。

 田中は「すぐ日中国交正常化に踏み込む」と密かに大平に伝えたが、幹事長ポストを外された大平はボヤいたものだった。

「角さんと会うと、俺は全部言うことを聞かされるんだ」

★「友情と打算」のはざまで

 田中は政権を取ってわずか2カ月後の9月末、日本の首相として戦後初めて中国・北京空港に降り立った。太平洋戦争以降、日中間は「戦争状態」にあった。

 田中は自民党内などの一部の強い反対論を押し切る形で、日本にとって最大の隣国である中国との間に国交がないという不自然さ、近い将来に経済大国となることを読んだうえで、「善隣友好」関係の確立へ舵を切った。

 日中国交正常化交渉は、決裂寸前まで行く暗礁に何度も乗り上げた末、ようやく決着を見た。時に、落ち込む大平に、マオタイ酒で顔を真っ赤にした田中は、ニヤリとして言うのだった。