浦和への来季入団が内定した流通経済大のMF伊藤。幼い頃から夢見てきたレッズのユニホームに袖を通すことが決まった。写真:安藤隆人

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 6月25日、流通経済大のMF伊藤敦樹の来季、浦和レッズへの加入内定が発表された。

「厳しい狭き門と言うことは分かっていましたが、レッズでプレーしたいという気持ちしかなかったし、信じて大学生活を送っていました」。

 183cmの高さを誇り、CB、サイドバック、ボランチを器用にこなす伊藤は、浦和ユース出身。ユースからトップ昇格の流れでは原口元気、関根貴大、橋岡大樹と荻原拓也と多くのタレントを生み出している一方で、大学経由からの帰還は宇賀神友弥が史上初で、その後は2013年に阪野豊史(現・松本山雅FC)が2人目となって以降、伊藤は実に8年ぶり3人目の選手となる。

「小さい頃から両親がレッズサポーターで、よく家族でスタジアムに行ってはゴール裏で飛び跳ねてチャントを歌っていました。ホームはもちろん、アウェーでも応援に行っていましたし、優勝した天皇杯決勝、ルヴァンカップ決勝もゴール裏で応援していました。大原の練習場にもよく行って、練習を見て、選手の出待ちをしてサイン色紙に『敦樹くんへ』と入れてサインをもらいました。家に色紙は30枚以上も飾っていましたね。家で両親と新聞を切って紙吹雪を作って、スタジアムに持って行って、みんなでばら撒いた記憶もあります(笑)。小3で道祖土サッカー少年団に入ってからは土日が試合で観に行く事ができなくなりましたが、やっぱりレッズは特別な存在でした」

 生まれも育ちもさいたま市緑区。駒場スタジアムから徒歩10分のところに住み、中学から憧れだった浦和の下部組織に入ってユースまでの6年間を過ごした。

 ジュニアユースではレギュラーに定着できなかった。中3時には高円宮杯全日本ユースU-15で優勝したが、1試合もスタメン出場はなく、決勝の大宮アルディージャユース戦も1分ほどしかプレーできなかった。

「関東リーグでも途中出場ばかりで、スタメンは数えるほどだったので、ユースに上がりたかったけど、上がれるとは思っていませんでした」

 そんな彼をユース昇格に導いたのが大槻毅監督だった。当時、育成ダイレクターとユース監督を兼任していた大槻監督は、彼の長短のキックの精度やサッカーセンスに「将来性に期待をしている」と高く評価。彼のユース昇格を後押ししてくれた。

 ユースでは大槻監督の下、高1の時から出場機会を掴んだが、「2年になると僕のサッカーに向き合う姿勢の甘さを指摘されて、どんどん出場機会が減っていった」と語るように、高3になるとレギュラーはおろか、途中出場もしくはそのまま出番が来ない試合も増えた。

 1学年下の橋岡や荻原が試合に出て躍動するなか、「悔しい思いはあったけど、自分には実力が足りないと思っていたし、大槻さんの期待を裏切り続けてしまった」と、自責の念に駆られていた。

 結果、彼はトップに昇格できなかった。
「そもそもトップに上がれるか上がれないかの天秤にすらかかっていないと思っていました。なので、具体的に『トップに昇格できない』という言葉すらももらっていませんし、それが当たり前の状況だった。でも、絶対にレッズに戻ってきたいという思いはあったので、ひたすら大学でサッカーを続ける道を模索していました」と、彼は大学経由での帰還を目指し、大学サッカーに活躍の場を求めた。

 しかし、大学もすんなりとは決まらなかった。
「最初に法政大に行きたいと希望をして、練習参加に行ったのですが不合格でした。その後、桐蔭横浜大の練習に参加したのですが、その1週間後に大槻さんに呼び出されてダメだったと告げられました。他のチームメイトがどんどん大学を決めていく中で、僕だけ2つダメで決まらない状況。それに僕は試合にもろくに出ていないので、当然他の大学からもオファーが来ることはありませんでした」