あのブラジル人Jリーガーはいま
第6回カレッカ(後編)>>前編を読む

 ディエゴ・マラドーナとともにナポリの黄金時代を築いたカレッカ。そのサッカー選手としての歩みは、故郷から100キロほど離れたところにあるクラブ、グアラニのテストに合格したことから始まった。


1993年、ナポリから柏レイソルに移籍、4シーズン在籍したカレッカ photo by Toshio Yamazoe

 カレッカは1年でグアラニのレギュラーの座を獲得し、4年間ここでプレー。1978年にはこの小さな町のチームを、彼のゴールで全国優勝させた。他のチームはどれも大都市にあるビッグクラブだったが、それを差し置いての優勝だった。

 1983年、彼は都会のビッグクラブと契約をした。サンパウロだ。当時はまぎれもなくブラジルナンバー1のチームだったろう。87年までの間に彼は得点王になり、再びブラジルチャンピオンになり、代表入りを果たし、ヨーロッパの多くのチームから望まれる選手に成長した。

 カレッカがヨーロッパに舞台を移したのは26歳の時だった。

 16歳、17歳でブラジルを出ていく選手が多いなかで、かなり遅いほうだろう。実は1984年、イタリアのインテルがカレッカに莫大なオファーをしてきたこともあったのだが、彼の父がそれを阻止した。

「親父はブラジルでプレーの経験を積んで、もっと準備をし、成長してから行くべきだと言った。ヨーロッパで頭角を現すだけの力をつけてから行けと。他の選手たちが、私のような父を持っていないことを残念に思う。父の言ったことは本当に正しかった。ヨーロッパに行く前に準備できたのは幸いだった」

 誰もが疑問に思うのは、なぜ1993年、彼が当時は世界のサッカーの中心だったセリエAを去って日本に移籍したか、だろう。

 当時の日本は今と違って、サッカー未開の地と思われていた。しかも移籍先の柏レイソルはJFLのチームで、まだJリーグに上がれるかも不明な状態だった。

 だが、カレッカには迷いはなかったという。レアル・マドリードからの大金のオファーを断って、ディエゴ・マラドーナとプレーするためにナポリに行ったのと同様、彼はサッカー人生の終盤に、サッカーの世界に対してなにか有意義なことをしたかったのだ。

 ジーコが日本にもたらしたようなことを自分もできたら、サッカーの歴史の1ページになれたら嬉しい。レイソルからの招待は、他のどんなオファーとも異なっていた。予測できない新たな挑戦に彼はワクワクしたという。

「それが私の進む道だと思った。他のサッカー選手とは違う何かができると思ったんだ」

 チームをプロリーグに導く戦いは、カレッカには心躍る挑戦に思えた。そしてレイソルにとってもカレッカは、昇格のためになくてはならない存在となった。

 それにしてもセリエAとのギャップはかなり大きかった。8万人近くが入るスタジアムで世界中に注目されプレーしていたのが、時には800人足らずのサポーターの前でプレーするのだ。

「日本では選手が何でもしなければならなかった。当時のレイソルはまだプロチームに必要なものがそろっていなかったので、ユニホームは自分で洗わなくてはいけなかったし、シューズも自分できれいにする必要があった。

 あまりにも違う世界だったが、私はそれを若い選手たちと一緒に笑顔でしていた。私はそういうことは一切気にしなかった。ただ試合でこのチームを勝たせたかった」

 彼はチーム1のスターで、いつも多くのファンに写真やサインを求められた。しかし、ここにも大きな違いがあった。

「ナポリではスタジアムを出て車にたどり着くまでにも警官のガードが必要だった。ところが日本では、ひとりで外に出て、写真を数枚、サインをいくつか、ハグを何度がした後は、ゆっくり車まで歩いて行けた。いや、家まで歩いて帰ることだってできた。

 本当に日本はそういう点ではすばらしく教育された国だった。日本という国を深く知ることができたことにも、私は満足している」

 ただひとつ残念だったのは「カヴァキーニョを演奏できないことだった」とカレッカは言う。カヴァキーニョとはサンバなどに使うブラジルの弦楽器で、少しハワイのウクレレに似ている。

 日本滞在後半の彼のフィジカルコンディションはあまりよくなかった。それでもカレッカは決して手を抜かなかった。

「レイソルの新たな時代を作るため、私は心血を注ぎ、奇跡を起こそうとした。痛みがあり、プレーするコンディションになかったことも少なくなかったが、それでも私はピッチに残った。チームメイトの傍らに留まった。レイソルをビッグなチームにしたかったからだ。そしてたぶん、私はそれに成功した」

 1994年、カレッカはレイソルをJFL2位に導き、ついにJリーグに昇格させた。彼はこの時のことを振り返り、「私の人生の中でも一番すばらしかった瞬間のひとつだ」と言っている。

 カレッカの物語でもうひとつ語らなくてはいけないのはブラジル代表だろう。カレッカはセレソンで64試合をプレーし、30ゴールを決めている。1986年メキシコと90年イタリアと、二度のW杯でプレーしているが、実は4回プレーする可能性も十分にあった。

 だが、1982年スペイン大会は、大会の直前にケガをし、背番号9を背負うはずだったのが、リザーブとなってしまった。

 そして1994年アメリカ大会は、予選ではほとんどの試合でプレーしたものの、その後はロマーリオとのライバル関係もあり、メディアに”年寄り”と呼ばれたことに腹を立て、大会の数カ月前に代表を去ってしまった。もしそこで辞めていなければ、彼は世界チャンピオンになれたのだが……。

 セレソンの試合の中で一番悔やまれるのは、1986年のメキシコW杯だとカレッカは言う。ブラジルは準々決勝でPK戦の末、ミシェル・プラティニのいるフランスに敗れた。

「今でもあの時、何が起こったのか私にはわからない。あの大会のセレソンは強かった。まだジーコもいた。私も調子がよかった。あのフランス戦は、あと10回繰り返しても10回勝つ自信がある。しかし我々は負けた。

 あの時決めた私のゴールは、私のサッカー人生の中のベストに入るものだったが、それも負けてしまっては何の意味もない」

 この大会のカレッカは得点王のガリー・リネカーの6ゴールに1点及ばず、マラドーナとエミリオ・プトラゲーニョとともに2位だった。

 カレッカの嫌いなこと。それは美しくないゴールを決めることだという。

「ただゴールを決めるだけというのは、私は好きではない。私はいつも美しいゴールを目指してきた。本当に見事なゴールを決めた時は、心の中で自分を褒めてやるんだ。『お前はなんてすばらしいゴールを決めたんだ!』ってね」

 彼はプロとして300以上のゴールを決めているが、カレッカ自身が認めるすばらしいゴールがふたつある。ひとつは1985年のアルゼンチンとの親善試合で、前半7分に決めたファンタスティックなバイシクルシュート。

 もうひとつは前に挙げた1986年メキシコW杯のフランス戦でのゴールだ。フランスのゴールを守っていたGKジョエル・バツも「あれはすばらしいゴールだった」と認めている。

 レイソルでカップ戦を含む74試合に出場、40ゴールを挙げた後の1997年、カレッカはブラジルに戻り、子供のころからの憧れのチーム、サントスのユニホームを着る。その後、1999年にサン・ジョゼで引退した。

 また2004年には、自らが作ったカンピナスFCで1試合だけセリエBに返り咲いている。

 このカンピナスFCは、引退直前の1998年に、同郷で1994年から96年までブランメル仙台(現ベガルタ仙台)でプレーしたエジマールと創設した。500万ドル(当時のレートで約6億円)をかけて作った豪華なスポーツ施設を完備するこのチームには、興味深い目的があった。

 その目的とは、日本の若手選手を育てること。優秀な日本人選手をここで育て、ヨーロッパのチームに売るのだ。半年ごとに100人の日本人を滞在させようとしていた。参加費は月3000ドル(約36万円)。練習場にはホテルもプールもレストランもあって、若い選手たちが快適に滞在できるようになっていた。

 しかし、すべての準備が整った時、日本はすでにバブル崩壊から久しく経済的に苦しくなっており、この計画は失敗してしまった。

 現在59歳の彼は、落ち着いた人生を楽しんでいる。郊外に牧場をもち、一時はナポリ風のモッツァレラチーズを売る店も経営していた。この店は閉めてしまったが、時折、友達のためにモッツァレラを作るそうだ。

 奥さんのファティマとは連れ添って38年、彼女との間には3人の子供がいる。長女のアリーネは栄養士、次女のエレンは獣医、33歳になる息子のティアゴはプロテニスプレーヤーだ。3人ともイタリア語と日本語を話す。

 日本人選手育成というプロジェクトはうまくいかなかったが、カンピナスに作ったスポーツ施設は健在で、今はカレッカスポーツセンターという名前で地域のスポーツをリードしている。サッカー場、テニスコート、ジム、プール、レストラン、イベントホールなどを完備し、とくに有名なのは9ホールのゴルフ場だ。

 日本で初めてゴルフをプレーして以来、彼はこのスポーツの魅力に取りつかれた。

「私の膝には現役時代のケガの後遺症がまだ残っていて、30分以上はサッカーをすることはできない。そんな私でもゴルフなら十分楽しめることができる」

 日本でプレーしていた呂比須ワグナーとともに、カレッカはいま、引退したサッカー選手にゴルフをプレーすることを推奨している。マラドーナやロナウドにも声をかけ、ブラジルとアルゼンチン、イタリア、ポルトガルの元サッカー選手のゴルフ大会も企画しているという。もちろん、すべてはコロナが去ってからの話だが。

 最後に、彼はまだ叶えていない夢を教えてくれた。それは自分の名前がついたサッカーシューズの実現である。

「ぜひどこかのメーカーにカレッカというシューズを作ってほしいんだ。自分の名前がついたシューズを履いた若者が成長し、いいサッカーをする。最高じゃないか」

カレッカ
本名アントニオ・デ・オリヴェイラ・フィーヨ。1960年10月5日生まれ。グアラニでデビューし、サンパウロを経て1987年、ナポリに移籍。1993年、柏レイソルに移籍すると、チームのJリーグ昇格などに貢献した。その後はサントスなどでプレー。ブラジル代表として1986年、1990年のW杯に出場している。