あのブラジル人Jリーガーはいま
第5回エメルソン(後編)>>前編を読む

 コンサドーレ札幌、川崎フロンターレ、浦和レッズを経て、2005年にカタールのアル・サッドへ移籍したエメルソン。2007年、彼は次のステップとして、ヨーロッパのリーグを狙う。

 フランスのリヨン、リール、サンテティエンヌが彼をほしがったが、最終的に移籍したのはレンヌだった。一番移籍金が高かったのだ。しかし、北フランスの小さな町は、彼の肌に合わなかった。チームも彼を日本やカタールのように特別扱いしてくれず、レギュラーも約束されない。エメルソンは不満だった。


コリンチャンスではチェルシーを破りクラブ世界一となったエメルソンphoto by Yamazoe Toshio

 一度嫌だと思うと、ブラジル人は我慢できない。ある土曜日の夜、彼はカタールのシェイクに直々に電話をし、アル・サッドに戻りたいと告げた。翌日、シェイクの代理人がフランスにやってきて、レンヌに即決で違約金を払い、エメルソンはまたカタールに帰ることになった。結局彼はフランスで合計101分しかプレーしなかった。こうして彼のヨーロッパでの夢は終わった。

 その後、彼はカタールの国籍を取得し、カタール代表として南アフリカW杯の予選を戦った。しかしこれがまた問題になった。一度どこかの代表でプレーしたことのある選手は、国籍を変えても他の代表チームではプレーできない。これがFIFAのルールである。エメルソンはブラジル代表ではプレーしていないものの、U−20ブラジル代表としてプレーしたことがあった。本来、A代表でなければ問題ないはずなのだが、彼はその時、例の偽の出生証明書で年齢を偽っていた。つまり、その時彼はすでに20歳を超えていたのだ。FIFAは彼がカタール代表に入ることを認めなかった。

 こうして彼は永遠に代表チームでプレーすることができなくなってしまった。カタールでも、そしてブラジルでも。

 それからカタールで1年半ほどプレーすると、名声と大金を持ったエメルソンは国に帰ることを決めた。

「日本の2つのチームからもかなりいいオファーがあった。それを断るのは心が痛んだが、そろそろ家に帰りたくなったんだ。母親の近くにいてやりたかったし、ブラジルのサッカーを、もっと知りたいと思うようになったんだ」

 2009年にブラジルに帰った時、すでに30歳になっていたが、母国で活躍するのに遅すぎることはなかった。その後。彼はブラジルで3年連続、3つの異なるチームで全国選手権優勝を果たす。2009年はフラメンゴで、アル・アイン(UAE)を経て2010年はフルミネンセで、そして2011年はコリンチャンスで。これはブラジルサッカー史上でも唯一の記録である。

 また、2012年には、南米のクラブチームにとっては最重要のリベルタドーレスカップの決勝でボカ・ジュニアース(アルゼンチン)相手に2ゴールを決め、南米チャンピオンとなった。

 そして、クラブワールドカップが行なわれるのは日本だった。こうしてエメルソンは、世界最高峰に挑戦するために再び日本に戻って来た。それも34歳という、普通の選手なら引退を考え始める年齢で、だ。

 2012年12月6日、横浜。対戦相手のチェルシーを率いるのはスペインの名将ラファ・ベニテス。擁する選手たちもペトル・チェフ、ダビド・ルイス、アシュリー・コール、ラミレス、フランク・ランパード、マタ、フェルナンド・トーレスとスター選手がキラ星のごとく並んでいた。一方のコリンチャンスは……世界的に名前が知れている選手はほとんどいなかった。

 だが、エメルソンのアシストのおかげでペルー代表パオロ・ゲレーロがゴールを決め、コリンチャンスは優勝を手にした。わざわざ日本までやってきた3万人のクレイジーなサポーターの前で、コリンチャンスは世界ナンバー1クラブとなり、エメルソンはチーム史上に残るスター選手となった。

 エメルソンのサッカー人生のすばらしいページは日本で始まり、また日本で完結したのだ。

 このように、ピッチでは非常に優秀なエメルソンだったが、ピッチの外では多くのとんでもない逸話にあふれている。いつも品行方正なわけではないし、青少年のお手本でもなかった。

 コリンチャンス時代には、ヘリコプターで練習場に来て、皆のド肝を抜いた。コリンチャンスの会長アンドレアス・サンチェスがそれを教えてくれた。

「エメルソンは怠惰だった。しかし練習に遅れることはできなかった。なぜなら監督のチッチは遅刻した選手を使わなかったからだ。そこで彼はヘリコプターをレンタルして、遅れないようにやってきたのだよ」

 ある時、ペットにサルを飼いだした。「クタ」という名前をつけて可愛がり、当時ひとり暮らしだった彼の最高の相棒となった。どこに行くのも「クタ」と一緒。練習場にサルを連れてきたサッカー選手は彼が初めてだろう。

 2013年にはあと少しで逮捕されるところだった。ブラジルではまだ販売されていない高級車をアメリカから密輸入し、それを申告しなかったという容疑だ。1年以上裁判が続いたあと、やっと無罪が言い渡されたが、彼はかなり立腹している。

「あと少しで監獄に入れられるところだった。子供の頃、俺はズボン1着にシャツ2枚しか持っていなかった。俺はすごく貧乏だった。お腹が空いて、近所の市場でお菓子を盗んだことも何度かあった。でも俺も今は家族がいて、三児の父だ。国際的な名声もあるのに、なんでそんなケチな詐欺をする必要がある? みんな俺を陥れたいんだ。でも最後は正義が勝った」

 40歳の時、エメルソンはサッカーから引退することを決意し、2018年の11月、ピッチを去った。そして2019年の1月にはコリンチャンスのコーチと選手の間をつなぐチームコーディネーターに就任した。しかしその職には10カ月就いただけだった。

「チームに金はなく、成績は不振。これまで俺のことを長年愛してくれたサポーターが、俺に向かってもブーイングするのを見るのは、はっきり言ってきつかった」

 2019年の10月にコリンチャンスを去ってから、彼は自分のこれからをもう一度見直そうとしている。自分の持つ店と不動産を管理して過ごす。そしてこの2月からは、彼もまた多くのブラジル人同様、3人の息子たちとともに家にいる。息子たちは上から18歳のケビン、14歳のエメルソン・フィーヨ、12歳のヘンリ。子供たちの母親は一緒には住んでいないが、もちろん女性の影は常にある。

 とんでもエピソードの多いエメルソンだが、彼の人となりがよくわかる、とっておきのいい話を最後に披露しよう。

 コリンチャンスが横浜で世界一になったあと、帰国した彼らはクラブハウスで祝勝シュラスコパーティーを開いた。私も記者としてそこに呼ばれていた。しばらくするとエメルソンが2つの皿に肉とパンを大盛にして、会場から出ていこうとした。仲間の選手たちは、「家に持って帰って食べるのか」と、彼を笑った。

「違うよ。俺のじゃないよ!」

 エメルソンはそう答えた。

「パーティーの間、入り口を警備してる人たちがいるだろう? これは彼らに持ってくんだ。俺たちのために何時間も門の前で立っているんだから、せめて俺ができることをしようと思ったのさ」

エメルソン
本名マルシオ・パッソス・ジ・アルブケルケ。1978年9月6日生まれ。サンパウロでデビュー後、2000年にコンサドーレ札幌へ移り、J1昇格に貢献。その後、川崎フロンターレ、浦和レッズでも活躍した。2005年、アル・サッド(カタール)に移籍。さらにフラメンゴ、フルミネンセ、コリンチャンスなどプレーした。カタール代表歴がある。