ザ・ウィークエンド(Courtesy of Universal Music)

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改めて言うまでもなく、ザ・ウィークエンドことエイベル・テスファイは21世紀屈指のメガポップスター。最新作『アフター・アワーズ』は世界中で記録的な大ヒット。TikTokで彼の曲に火がついたことで、遂に日本でも本格ブレイクの兆しが見えている。今こそが絶好のタイミング。現代の北米メインストリームの最高峰、ザ・ウィークエンドを知ろう。

1:2010年代のポップを定義し、2020年を象徴する存在

ザ・ウィークエンドは2010年代の北米メインストリームポップを定義しただけではなく、早くも2020年代を代表するトップスターの座を手にしている。それは、最新作『アフター・アワーズ』で打ち立てた数々の記録を見れば明らかだろう。

『アフター・アワーズ』は、アメリカで2020年最大の初週売上を記録。ビルボードの総合アルバムチャートでは、初登場から4週連続で1位をキープした。これは、ドレイク『スコーピオン』以来となる約2年ぶりの快挙だ。もちろん本作は、現時点で2020年に世界で最も売れているアルバムでもある。

そして、アルバムに先駆けてリリースされたシングル「ブラインディング・ライツ」は、全米通算4週1位、更には世界23か国で1位を獲得。ザ・ウィークエンドのキャリア最大のメガヒットとなった。

The Weeknd - Blinding Lights

「ブラインディング・ライツ」の80s風シンセイントロを使ったダンスチャレンジ(日本では通称エアロビチャレンジ)も、TikTokを中心に日本を含む全世界でバイラル。その勢いをさらに加速させている。

2020年6月現在、ザ・ウィークエンドの圧倒的な勢いには誰一人として追いつけていない。疑いようもなく、彼は2020年を象徴するトップスターだ。

 
2:「COVID-19パンデミック」という時代の
サウンドトラックとなった『アフター・アワーズ』

2020年3月以降、COVID-19パンデミックが世界を覆ったことによって、音楽フェスや個々のアーティストのツアーは次々と延期/中止が発表された。それに伴い、アルバムのリリース延期を決めるアーティストも多かったが、ザ・ウィークエンドは敢えて当初の予定通り、パンデミック真っ只中の3月20日にアルバムを送り出している。その理由について、彼はバラエティ誌にて「ファンが待っていたから、届けなくてはならないと感じた」と話している。

「今は音楽ストリーミングが10%落ち込んでいて、店も閉まっていて、コンサートもできない。でもそんなの関係なかった。ファンにとってはこのアルバムがすごく重要なことを俺はわかっていたから。もし俺がいま世界で起こっていることから1時間だけでもみんなを引き離すことができたら、それよりいいことなんてあるかい?」

また、ローリングストーンのアルバムレビューでは、『アフター・アワーズ』はパンデミック下のムードとリンクしていると評価されている。

「ザ・ウィークエンドのトレードマークである荒涼とした心象風景は『アフター・アワーズ』でも健在だ。覆いかぶさるような孤独感は、不安や恐怖を癒すのか、浮き彫りにするのか、あるいは増幅させるのか。それは聴き手の受け取り方次第である。だが、今作が現在の世界を覆うムードと見事にリンクしていることは確かだ」

実際、COVID-19パンデミックの最中に最も聴かれたアルバムである『アフター・アワーズ』は、この奇妙な時代のサウンドトラックとなった。

3:『ビューティー・ビハインド・ザ・マッドネス』のジャケットは
元恋人ベラ・ハディッドが飾る予定だった

アルバム冒頭の「アローン・アゲイン」で、「孤独に耐えきれるかどうかわからない / 1人で眠れる自信がない」と歌われる『アフター・アワーズ』は、元恋人ベラ・ハディッドとの別れが重要なモチーフとなっている。ローリングストーンが評するには、このアルバムは「本物の胸の痛みと孤独が描かれている」「失恋がもたらした心の死亡診断書」だ。

ベラとザ・ウィークエンドの交際が始まったのは2015年4月のこと。その4か月後にザ・ウィークエンドはメジャー二作目のアルバム『ビューティー・ビハインド・ザ・マッドネス』をリリースしているが、実は当初、ベラにアルバムジャケットのモデルを頼んでいたらしい。ローリングストーンのインタビューで、ザ・ウィークエンドはこのように明かしている。

「俺は彼女に、『ビューティー・ビハインド・ザ・マッドネス』のアートワークのモデルになって欲しいって頼んだんだ。ただ彼女と一緒に仕事をしたかったんだよ」

残念ながらベラには断られてしまい、最終的に同作のジャケットにはザ・ウィークエンド本人の顔写真が使われている。

The Weeknd - Beauty Behind The Madness

4:『アフター・アワーズ』に散りばめられた、
映画マニアならではの無数のリファレンス

学生時代は映画学校に通うことも考えていたザ・ウィークエンドは、大の映画好き。ローリングストーンのインタビューでは、「俺は昔から熱心な映画ファンで、スコセッシとデニーロがタッグを組んでるやつは全部好きだった」とも公言している。

そんな無類の映画好きだけあって、『アフター・アワーズ』のタイトルトラックのミュージックビデオには、映画のリファレンスが満載。バラエティ誌のインタビューで、ザ・ウィークエンドはこのように明かしている。

「(『アフター・アワーズ』のミュージックビデオの中で)鼻を怪我しているのは『チャイナタウン』のリファレンスだし、地下鉄のシーンは『ジェイコブス・ラダー』のリファレンス。ジミー・キンメルの番組の出演シーンは『キング・オブ・コメディ』だし、エレベーターのシーンは『ガーゴイル』『ポゼッション』『殺しのドレス』だよ。もちろん『アフター・アワーズ』っていうのはマーティン・スコセッシの映画(と同じタイトル)で、明らかにインスピレーションになってる。一晩の間にいろんな狂ったことが起こることとかもね」

5:鏡に映る自分を嫌ってハイになり続けていた
ザ・ウィークエンドの暗黒時代

『アフター・アワーズ』のリリックの大半は元恋人ベラ・ハディッドとの別れがモチーフとなっているが、唯一、「フェイス」は「2013年、2014年頃の、自分の人生で最も暗かった時代」がモチーフになっているという。

The Weeknd - Faith

2013年、2014年頃というと、ちょうどザ・ウィークエンドがスターの階段を上り始めた時期。当時の彼はその目まぐるしい勢いに翻弄されてしまい、ラスベガスで警察を殴って逮捕されるという事件を起こしている。「フェイス」はその時期を振り返ったもので、曲の最後に聴こえるサイレンの音はパトカーに乗せられた時のことを表現しているのだという。

今になって当時のことを振り返ることにした理由を、ザ・ウィークエンドはバラエティ誌でこのように説明している。

「このアルバムが完璧にちょうどいいタイミングだと思ったんだ。(アルバムに登場するキャラクターは)失恋か何かの後でエスケープを求めているから。俺はまたそんな男になりたかったんだよ――神を嫌い、信仰を失い、鏡に映る自分が嫌でハイになり続けている『ハートレス』な男にね。この曲はそんな男についてだよ」

6:匿名性によって現代の過剰さへの
アンチテーゼを表明したデビュー初期

ザ・ウィークエンドは、2011年に公開したフリーダウンロードのミックステープ三部作『House of Balloons』『Thursday』『Echoes of Silence』でアンダーグラウンドのシーンの話題をかっさらい、鮮烈なデビューを飾っている。今でこそ誰もが顔と名前が一致する大スターだが、当時の彼は匿名性にこだわっていて、音源以外の情報をほとんど外に出していなかった。実際、メディアもリスナーも、ザ・ウィークエンドがバンドなのか、ユニットなのか、ソロアーティストなのか、しっかりとわかっていなかったほどだ。

初期のザ・ウィークエンドが取材を拒否していた理由のひとつは、自身が口下手だと思っていたからだという。しかし、何ヶ月もの間、ザ・ウィークエンドが何者なのか誰も知らないという状況が続いたことで、彼は「謎に包まれた存在」というコンセプトを考えついた。テスファイはローリングストーンの取材でこのように話している。

「その戦略が裏目に出ていたら、俺は取材も受けていただろうね。でも世間は、ザ・ウィークエンドの謎めいたところに惹かれたんだ。何もかもが過剰な今の世の中、『こいつ一体何者だ?』みたいな正体不明の存在って新鮮だと思うんだよ。俺のキャリアは長くなると思うね。だって俺は、まだ自分のすべてを晒してはいないからさ」

7:同郷のスーパースター、
ドレイクに対する複雑な思い

ザ・ウィークエンドの名前が最初に世間に知れ渡ったのは、2010年にドレイクが手掛けるライフスタイルブランド、OVOのブログで曲が紹介されたことがきっかけだ。だが、そのブログの投稿はドレイクによるものではなく、ドレイクのマネージャーのオリバー・エル・ハティーブによるものだったという。ザ・ウィークエンドはローリングストーンのインタビューでこのように話している。

「最初のうちは、ドレイクは全く興味を持ってないようだった。プッシュしてくれたのはオリバーだったんだ」

その後、ザ・ウィークエンドはドレイクの『テイク・ケア』(2011年)に参加し、その知名度は飛躍的に向上。しかし、テスファイはドレイクのフックアップには感謝しながらも、複雑な思いを抱いていた。というのも、『テイク・ケア』に収録された「Crew Love」は、もともと『House of Balloons』のために書いていたものだったからだ。

ザ・ウィークエンドは2013年のインタビューでこのように語っている。

「とにかく飢えてた俺は、『好きなのを使ってくれ』みたいな感じで曲を差し出した。俺は自分のアルバムの半分近い曲を手放すことになった。正直辛かったよ。もちろん彼にはとても感謝している。彼が光を当ててくれなかったら、今の俺はきっとなかっただろう。それに、あらゆる出来事は起こるべくして起こるからね。今の成功を手にしていなかったら、俺がそんな風に考えたかどうかはわからないけど」

Drake - Crew Love feat. The Weeknd

8:2010年代のポップを定義した
ミックステープ三部作の功績

メジャーレーベルとの契約後、『Trilogy』という三枚組として再リリースされたザ・ウィークエンドのミックステープ三部作は、2010年代の音楽シーンを様々な側面から定義した。その事実については、ザ・ウィークエンド自身も誇りに思っているようだ。彼はローリングストーンの取材でこのように語っている。

「『Trilogy』だけで、俺は死ぬまでツアーを続けられたと思う。あの作品は間違いなくカルチャーを変えた。今後三部作の作品を発表するアーティストは、誰もがザ・ウィークエンドの影響を受けていることになる。あれ以降、多くのアーティストが以前よりもずっと早いペースで作品を発表するようになった。ジャスティン・ティンバーレイクは1年でアルバムを2枚出し、ビヨンセはサプライズアルバムを発表した。それに、名前は挙げないけど、ラジオを聞けば明らかさ。どの曲も『House of Baloons』の焼き増しだってことがね」

The Weeknd / House of Baloons

また、バラエティ誌の取材では、より具体的に彼のミックステープが影響を与えた曲について言及している。

「『House of Baloons』は文字通り、俺の目の前でポップミュージックのサウンドを変えたんだ。アッシャーの『クライマックス』を聴いた時は、『クソ、これはザ・ウィークエンドの曲じゃないか』と思ったね。すごく嬉しかったんだよ。自分が正しいことをやっていると思えたから。でも同時に、俺は怒ってもいた。歳を取るにつれて、あれはいいことだったじゃないかと気づけたんだけどね」

なお、「クライマックス」の共同ソングライター/プロデューサーであるディプロは、同曲がザ・ウィークエンドに影響を受けていることを認めている。

Usher - Climax

9:バスキアのように象徴的な存在へと
自分を生まれ変わらせたヘアスタイル

ザ・ウィークエンドのトレードマークのひとつと言えば、その特徴的なヘアスタイルだろう。ローリングストーンのインタビューでは、その髪型が80年代に活躍したニューヨークのグラフィティアーティスト、ジャン=ミシェル・バスキアにインスパイアされている部分もあると明かしている。

「象徴的で特異な存在として記憶されたかったんだ。特に何もせず、ただ伸ばし続けることにした。視界を遮るようになったら切るだろうけど、今はまだ平気なんだ。でも髪を切ったら、俺はどこにでもいそうな男に見えるだろう。それじゃつまらないんだよ」

ちなみに、ザ・ウィークエンドによると、髪の毛の手入れは時折ハードなシャンプーで洗うだけなので簡単らしい。とは言え、やはり不便な面もあるという。

「寝るときだね。起きた時に首が痛いってことも多いよ。あとは人目につきやすいってことだな」

10:テイラー・スウィフトお気に入りの
ザ・ウィークエンドの曲とは?

2015年に行われた第57回グラミー賞授賞式の後、ザ・ウィークエンドはサム・スミスが所有する8000万ドルの豪邸で行われたパーティーに出席した。そこで彼は、テイラー・スウィフトと初めて会話を交わしたという。

「彼女は俺の曲を知ってたんだ。彼女は『The Morning』(『House of Baloons』に収録)を何年も聴いてて、一番好きな曲のひとつだと言ってくれた。単にググっただけなのかもしれないけど、社交辞令のようには聞こえなかった」

また、ザ・ウィークエンドによると、テイラーはその後15分間ほど喋りっぱなしだったという。

「でも喋りながら、なぜかずっと俺の髪を撫でてるんだよ。相当気に入ったんだろうね、ちょっと飲み過ぎてたことは確かだけどさ。やめてくれとは言わなかったよ、正直悪い気はしなかったからね。そんな風にしているうちに、『もう飲むしかない』ってなったんだ」

11:ザ・ウィークエンドにとって最大のアイコン、
マイケル・ジャクソンに惹かれた理由

ザ・ウィークエンドの歌い方やステージでのパフォーマンスを観れば、彼がマイケル・ジャクソンから影響を受けていることは明らかだ。実際、ザ・ウィークエンドがシンガーを志したのはマイケルがきっかけであり、『Echoes of Silence』では「ダーティ・ダイアナ」のカバーも披露している。

The Weeknd - D.D.

しかし、なぜザ・ウィークエンドにとってマイケルは特別な存在になったのか。その理由のひとつは、ザ・ウィークエンドがエチオピア系移民二世のカナダ人であることが関係しているという。ローリングストーンのインタビューで彼はこのように明かしている。

「誰も覚えてないけど、(マイケルが作詞、作曲、ヴォーカルで参加した1985年のチャリティーソング)『ウィー・アー・ザ・ワールド』はエチオピアに捧げられた曲だったんだ。うちじゃエチオピア音楽と並んで、いつもマイケルの曲が流れてた。彼は俺たちのアイコンだったんだ」

U.S.A. For Africa - We Are the World

12:ザ・ウィークエンドを形成した
幼い頃のハイブリッドな音楽的志向

2010年代のポップを定義したザ・ウィークエンドの斬新な音楽性はどのように形成されたのだろうか。まず影響を受けたのは、幼い頃に聴いていたアリーヤやミッシー・エリオット、ティンバランド、ネプチューンズなどといった「R&Bの黄金時代」のアーティストだった。ローリングストーンのインタビューで彼はこのように語っている。

「俺のスタイルは90年代後半のシーンがベースになってる。セクシーなダウンテンポのバイブさ」

その後、彼は50セントなどのヒップホップに夢中に。そして、中学校にあがるとマリファナを吸い始め、ジミ・ヘンドリックスやレッド・ツェッペリンなどのロックも聴くようになったという。

「ピンク・フロイドのTシャツを着て、イヤホンでジニュワインを聴いてるような子どもだったんだ」

R&Bやヒップホップから、60〜70年代のクラシックロックまで――そのハイブリッドな志向が、後にザ・ウィークエンドの特異な音楽スタイルを作り上げることとなったのだろう。

13:『House of Balloons』というタイトルは
当時のヒップで退廃的な生活から取られた

ザ・ウィークエンドのデビューミックステープであり、後の音楽シーンに絶大な影響を与えた『House of Balloons』。そのアルバムタイトルは、高校中退後に暮らしていたトロントの新興地域、65 Spencer Avenueでの生活にインスパイアされたものだという。

ローリングストーンの取材によると、当時のザ・ウィークエンドは「ストリートで一目置かれる存在」だった。ヒップなバーやクラブが立ち並んでいた同地域のシーンは、「俺たちが作ったようなもの」だという。

そして、その頃の彼は「女の子を招いてロクでもないパーティーを開き、祝福ムードを出そうと風船をたくさん持ち込ん」でいた。「House of Balloons=バルーンでいっぱいの家」というタイトルは、そこから取られたものだとテスファイは話している。

14:「ザ・ウィークエンド以前」に経験した
どん底の下積み時代

エイベル・テスファイにとって、ザ・ウィークエンドは初めての音楽プロジェクトではない。他の多くのアーティストと同じように、彼も下積み時代を経験している。

まずテスファイはBulleez N Nerdzというヒップホップデュオを結成。Kin Kane(旧約聖書の『創世記』に登場する、AbelとCainの兄弟にちなんでいる)という名前でラップをしていた。しばらくして、彼はNoiseという地元のプロダクションチームに加わり、ジャスティン・ティンバーレイクやドレイク、クリス・ブラウン等が歌うことをイメージした曲を作り始めている。

ローリングストーンのインタビューで、ザ・ウィークエンドは当時のことをこのように振り返っている。

「2008年から2010年頃だったと思う。あの頃の記憶は曖昧なんだ。俺の曲に『地に堕ちることは怖くない / 俺は過去にどん底を経験しているから』っていう歌詞があるんだ。この業界において、俺は失敗することを少しも恐れていない。底辺がどういうものか、俺は既によく知ってるからね」

15:初期ザ・ウィークエンドを特徴づけていた
セクシーで退廃的なリリックの世界観

ザ・ウィークエンドの最大の魅力のひとつは、リリックにおけるダークで退廃的な世界観だ。ローリングストーン曰く、「彼の描く世界はセクシーでありながら、感覚が麻痺したかのような無情さに満ちている。その放蕩ぶりの根底には、暗く不気味な何かが漂っている」のである。

例えば、『House of Balloons』収録の「High for This」では、女性を徹底的に酔わせてベッドインする過程が歌われている。また、『Echoes of Silence』収録の「Initiation」では、テスファイが演じる語り手は、自分と寝たがる女性にクルー全員の相手をさせようとしているのだ。

特に初期のミックステープにおいて特徴的だったこうした過激な描写について、ザ・ウィークエンドはローリングストーンにこう説明している。

「当時はこんな感じだった。『俺と遊びたいかい? ならこいつらの相手をしてやってよ』。俺は自分の周りで起きたことを伝えようとしただけさ。俺自身が経験したこともあれば、俺が目にした出来事を歌ってる場合もある。誰かが誰かに何かを強要することは決してない。俺は心の底から、女性は好きなことを好きにやれるべきだと信じてるんだ」

16:『キッス・ランド』の失敗を経て辿り着いた
ザ・ウィークエンドの「闇」を育んだLAの街

デビュー当初から華々しいスター街道を歩んできたように見えるザ・ウィークエンドだが、ミックステープ三部作の次にリリースした待望のメジャーデビュー作『キッス・ランド』(2013年)は、周囲や自分が思い描いていたほどの成功を収めることができなかった。しかし、その失敗があったことで、彼は成長することができたとローリングストーンに明かしている。

「おかげで少し謙虚になれたよ。現実は受け止めなくちゃいけない。反響が乏しいと分かっていて作品を出すわけにはいかないからね」

The Weeknd - Kiss Land

その後テスファイは、陰鬱なムードの中で想像力が刺激されることを期待してシアトルへの移住を検討したが、最終的にはL.A.を選んだ。最新作『アフター・アワーズ』には「エスケイプ・フロム・LA」という曲があるように、L.A.での生活は新作にもインスピレーションを与えている。それほどL.A.への移住は大きなものだった。

LAという街の印象について、ザ・ウィークエンドは2015年にこのように語っていた。

「三部作を作ってた頃の俺の毎日はダークだったけど、この街の闇の深さはその比じゃない。LAは闇そのものだ」

17:商業的失敗を経て、覚悟を決めて
身を投じたポップスターへの道

ザ・ウィークエンドがアンダーグラウンドのヒーローからメインストリームのポップスターへと転身することになった分岐点は、大ヒットメーカーのマックス・マーティンがプロデュースし、全米7位を記録したアリアナ・グランデとのデュエット曲「ラヴ・ミー・ハーダー」(2014年)だ。

Ariana Grande, The Weeknd - Love Me Harder

ザ・ウィークエンドがこの大きなチャンスを手にしたきっかけは、彼自身がレーベルに「ヒット曲を作る手助けをしてほしい」と申し出たこと。おそらく、前年にリリースした『キッス・ランド』の商業的な失敗を経て、覚悟を決めたところもあったのだろう。

「ラヴ・ミー・ハーダー」でのブレイクについて、ザ・ウィークエンドはこのように振り返っている。

「レーベルが俺にアリウープ(バスケットボールの用語。空中でパスをキャッチし、着地する前にシュートを決めること)を決めさせようとしてるような感じだった。あれは運命の女神が俺に微笑んだ瞬間だったと思う。活路を見出した気がしたんだ。そして見事に突破したのさ」

18:レノン=マッカートニーの黄金タッグに匹敵する
盟友マックス・マーティンとのコラボのマジック

「ラヴ・ミー・ハーダー」で初のタッグを組んだマックス・マーティンとは、その後、蜜月が続いている。同シングルの翌年2015年にリリースされたブレイクスルー作『ビューティー・ビハインド・ザ・マッドネス』では、全米1位を記録した「キャント・フィール・マイ・フェイス」を筆頭に、マーティンは3曲をプロデュース。続く『スターボーイ』でも3曲、そして最新作『アフター・アワーズ』では5曲でプロデュースを手掛けている。

The Weeknd - Cant Feel My Face

そんなマーティンとの関係について、ザ・ウィークエンドはローリングストーンでこのように話している。

「彼はそういうタイプじゃないって聞いてたけど、マックスは俺たちと一緒に腰を据えてアイディアを出してくれた。コラボレートはしても、あんな風に積極的になってくれることは少ないんじゃないかな。すごく光栄だったよ。スタジオでの彼はまさに魔術師だった。マイケルとクインシー、ジョン・レノンとポール・マッカートニー、そういう黄金タッグのマジックが生まれてた」

19:稀代のポップスターが考える
優れたポップソングの条件とは?

アルバム単位で見ると、ザ・ウィークエンド最大のターニングポイントは『ビューティー・ビハインド・ザ・マッドネス』だろう。ローリングストーン曰く、「『トリロジー』や『キッス・ランド』の曲は雰囲気やムードを重視する傾向にあり、フックはコデインの深い煙に覆われていた」のに対し、『ビューティー〜』は「より短くタイトでエネルギーに満ち」ていた。要するに、『ビューティー〜』からのザ・ウィークエンドは、よりポップソングを書くことにフォーカスし始めたのである。

ザ・ウィークエンドはポップソングを書くことの難しさについて、ローリングストーンでこのように話している。

「『セルアウトしてポップをやればいいじゃん』なんて簡単に言うやつがいるけど、『ならお前がやってみろよ!』って言い返したくなるね。マジで簡単なことじゃないんだよ。最近のキッズがみんな作ってるような曲、あんなのは寝ながらでも作れるさ。ああいうのを聴いても、少しも感化されたりしない。女の子をこんな風に踊らせる曲なんて簡単に作れる(と軽くシミーダンスを披露)。ビートを乗っけてさ。マジで朝飯前だよ。でも過去に散々やったから、もうやりたくないんだ。じゃあポップはどうかと言えば、とんでもなくハードなんだよ」

ザ・ウィークエンドが言うには、優れたポップソングの条件はピアノだけで再現できることだという。

「(『ビューティー〜』の)プロダクションはクールでぶっ飛んでるけど、あれは特殊効果にすぎない。全部削ぎ落としてピアノだけで再現できなきゃ、それは優れた曲だとは言えないんだ。俺もレディオヘッドは大好きさ。彼らは史上最高のバンドの1つだと思う。でも彼らの曲をピアノだけで再現できるかどうかと言えば、それは怪しいと思うね」

20:初コーチェラの失敗を糧に磨きをかけた
ポップスターとしてのパフォーマンス

ザ・ウィークエンドの初のアメリカ公演、そして初のメジャーフェス出演は、2012年のコーチェラだった。しかし、その出来はとにかくひどいものだったという。ザ・ウィークエンドはローリングストーンのインタビューでこのように振り返っている。

「ゾッとするほどにひどい出来だった。バックステージに戻った時点では満足してたんだけど、映像を観たら目を覆いたくなるほどひどかった。コメントを読むたびに死にたくなったよ」

そこで、ザ・ウィークエンドは自分のライブパフォーマンスに磨きをかけるべく、ダンスレッスンを受け始めた。また、「できるだけ多くショーをブッキングしてくれ。今のザ・ウィークエンドはスターじゃない。レジェンドはあんなに無様であるべきじゃない」とエージェントに申し出て、たくさんのショーをこなすことにしたという。

「俺は全身全霊でライブに臨むようになった。アーティストにとって一番の屈辱って『期待外れだった』って言われることだと思う。『あいつはビッグスターになれる可能性を持ってたのに』って言われることを、俺はずっと恐れてた。自分がいるはずの舞台に立っている誰かを見て、『あいつが俺よりも優れてるっていうのか? なぜだ? いくつかヒット曲を持ってるからか? ヒット曲なら俺にも書ける。今に見てろよ』なんてことを口にする自分を想像して怖くなってたんだ。(しかし、努力をした結果)ツアーの動員数は右肩上がりだった。みんな驚いてたよ、ヒット曲もない俺がRadio Cityで2デイズだなんてさ。ビヨンセのレベルではなくとも、そこに近づいているっていう実感があった。そして俺はそれを成し遂げたんだ」


『アフターアワーズ』
ザ・ウィークエンド
ユニバーサル ミュージック
発売中
https://umj.lnk.to/Weeknd_AfterHours