サッカー日本代表・心を揺さぶられたベストゲーム
第4回:
2002年6月9日 日韓W杯 グループリーグ
日本1−0ロシア

見る者の想いを背負い、世界トップクラスを目指して走りつづけてきたサッカー日本代表。その長い戦いのなかで、歴史を大きく動かした名勝負がある。このシリーズでは、各筆者がそれぞれの時代のベストゲームを紹介していく。

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 現在W杯6大会連続出場中の日本代表が、初めてW杯の舞台に立ったのは、1998年フランス大会のこと。しかし、このフランス大会では3戦全敗に終わった。アルゼンチンとクロアチアに負けるのは仕方ないにしても、消化試合となったグループ最終戦で、32チームの中で最弱と目されていたジャマイカにも負けてしまうとは……。


02年日韓W杯ロシア戦で、W杯初勝利を挙げた日本。稲本(写真右端)のゴールに日本中が歓喜した

 W杯は簡単じゃない。肩を落としてジャマイカ戦が行なわれたリヨンのスタジアムをあとにした時、日本と世界の間にある果てしない距離を痛感したのを思い出す。同時に、4年後の02年にホスト国として迎える日韓大会が、とても心配になったこともよく覚えている。

 日本は本当にW杯で勝てるのか? ホスト国に課せられるノルマはグループリーグ突破。それまでの開催国はいずれもそのノルマを果たしてきた。のちに10年大会で南アフリカがその歴史に終止符を打ったわけだが、その時は日本がホスト国のグループリーグ敗退第1号として、W杯の歴史に刻まれてしまうのではないかという不安が、日本サッカー界全体に蔓延していた。

 そういう意味で、2002年日韓大会で日本がW杯初勝利を収めたロシア戦は、日本サッカー界にとって大きな意味を持つ。あの1勝がなければ、おそらくその後の日本サッカーは現在とは違った道を歩んだに違いない。

 日本にはホスト国のアドバンテージがあった。グループHで日本と同居したのは、ベルギー、ロシア、チュニジアの3カ国。過去のW杯優勝国がすべて名をつらねた日韓大会において、ベスト8を狙えそうなチームがひとつもないこのグループは、ポルトガル、ポーランド、アメリカと同居した韓国のグループDよりも恵まれていた。

 ただし、開幕前のトルシエジャパンの力からすると、グループ突破の可能性はよくて五分五分。W杯初勝利というハードルを越えられるかどうかも微妙な状況だった。実際、初戦のベルギー戦では、逆転後に同点に追いつかれる嫌な展開で2−2のドローに終わり、手にしかけた初勝利を逃している。

 そして、運命の2002年6月9日日曜日。もはやホスト国のノルマを達成するためにはあとがない状態のトルシエジャパンは、初戦のチュニジア戦で順当に勝利を収め、日本戦に勝てばグループリーグ突破が決定するロシアを、横浜国際総合競技場に迎えた。ロシアはグループ最強と目され、日本にとっては勝ち点1をもぎ取ることができれば御の字という力関係にあった。

 6万6108人が埋め尽くしたスタジアムは、期待と不安が入り混じった異様な雰囲気に包まれていた。いや、スタジアムだけではない。その夜はほとんどの日本国民が午後8時半キックオフのその試合に熱い視線を注ぎ、全国各所で歓声と悲鳴が交錯する歴史的90分を同時体験することになったのである。

 試合自体はスペクタクルとは言えなかった。序盤から硬直した試合はお互い様子を見合うような時間がつづき、決定機はほとんどなし。それでも、日本が前からプレッシャーをかけたことで、司令塔アレクサンダー・モストボイを負傷で欠くロシアの調子を狂わせていたのは確かだった。

 そんななか、0−0で後半を迎えた51分。日本は中田浩二が左サイドから入れたグラウンダーのクロスを柳沢敦がダイレクトで稲本潤一につなぐと、稲本がワンコントロール後に右足インサイドでシュート。ボールがゴール上のネットを揺らすと、6万を超えるスタンドのファンと、日本全国でテレビ観戦していた人々の感情が一気に爆発。スタジアムはおろか、文字どおり日本列島が歓喜に包まれた。

 その後のロシアの反撃をしのいだ日本が、初めて手にしたW杯の勝利は、日本国民共通の記憶と財産になった。その試合の平均世帯視聴率は66.1%。あれから18年経った現在も、その数字を超えたサッカー中継は存在しない。今では風物詩にもなった渋谷スクランブル交差点のハイタッチも、その夜に生まれたと記憶する。

 だから、02年W杯のロシア戦の勝利は単なる1勝ではない。日本サッカーが世界の仲間入りを果たす第一歩になった1勝であり、サッカーW杯が4年おきの国民的行事として日本社会に浸透したという点においても、かけがえのない1勝だったのである。