サッカー日本代表・心を揺さぶられたベストゲーム
第1回:
1992年11月3日 アジアカップ グループリーグ
日本1−0イラン

見る者の想いを背負い、世界トップクラスを目指して走りつづけてきたサッカー日本代表。その長い戦いのなかで、歴史を大きく動かした名勝負がある。このシリーズでは、各筆者がそれぞれの時代のベストゲームを紹介していく。

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 3万7000人の観客で埋まった広島広域公園陸上競技場「ビッグアーチ」で、日本代表はイランと戦っていた。


92年アジアカップのイラン戦。終盤にカズが決勝ゴールを決める

 日本はアラブ首長国連邦(UAE)とは0−0、北朝鮮とは1−1と、共に引き分けに終わり、グループ3位で最終戦を迎えることとなった。2位イランとは勝点1差だが、”直接対決”に勝たなければ、そのままグループリーグ敗退となってしまう。

 引き分けでも準決勝進出が決まるイランは、当然のように守備を固めてきた。しかも、GKのアーマッド・レザ・アベドザデやCBのメフディ・フォヌーニザデガン、SBのジャバッド・ザリンチェなど、イランの守備陣は高さもあり、とても強力だった。そして、53分にFWのジャムシッド・モハマディが2枚目のイエローカードで退場となったことで、イランの守備意識はますます高くなっていた。

 日本は前半の立ち上がりから主導権を握って攻めるのだが、なかなか決定機をつかめなかった。なにしろ、攻撃をリードするはずのラモス瑠偉が、この大事な試合で体調不良のためベンチを温めていたのだ。

 エースとして期待された三浦知良(カズ)も試合後に「あきらめはなかったが、焦りはあった」と認めている。残り時間は少なくなり、このままではグループリーグ敗退となってしまう……。

 1992年は、日本サッカーの歴史のなかでとても重要な年だった。

 翌93年にJリーグがスタートすることが決まっていた。92年9月には、そのプレ大会として「Jリーグヤマザキナビスコカップ」が開幕。多くの観客がスタジアムを埋め、熱狂的な雰囲気のなかで試合が行なわれていた。すでに準決勝まで終わっており、アジアカップ終了直後に東京・国立競技場で行なわれる決勝戦は、ヴェルディ川崎と清水エスパルスの対戦と決まっていた。

 日本代表も、92年には大きく変わった。

 日本代表史上初めての外国人プロ監督としてハンス・オフトが就任。オフトは94年のアメリカワールドカップ出場を目標に掲げ、実際、8月に中国・北京で行なわれた第2回ダイナスティカップ(現在のE-1選手権の前身)では、PK戦の末に韓国を下して優勝を決めていた。それまでアジアの大会にどうしても勝てなかった日本が、ついに国際大会でタイトルを獲得したのだ。

 そして、迎えた広島アジアカップ。代表への期待は大きく膨らみ、連日多くの観衆が詰めかけ、歌を交えた応援でバックスタンド全面が揺れる光景は、それまで日本では見ることのできないものだった。

「サッカーのプロ化は成功しそうだ」と誰もが信じていた。

 だが、地元開催のアジアカップでグループリーグ敗退に終わってしまったら、そんなサッカー界全体の盛り上がりに水を差されてしまう。イランに勝つことができるかどうか、残り時間にイランの堅守を破ることができるかどうか……。日本サッカーの将来が懸かっていると言っても過言ではなかった。

 オフト監督は68分にベンチにいたラモス瑠偉と”スーパーサブ”の中山雅史を投入するが、それでもゴールは遠く、82分の中山のヘディングシュートも右ポストをかすめただけだった。

 スコアレスのまま、時計の針は87分を指していた。イラン陣内でボールを受けたDFの井原正巳が、アウトサイドに掛けたスルーパスを前線に送ると、ボールはイランのDFラインの裏へバウンドしながら抜けていく。そこに走りこんだのがカズだった。

「ボールが弾んだのがラッキーだった」とカズ。

 カズは、落ち着いてボールをコントロールすると「魂を込めて」右足を振りきった。ボールはGKアベドザデの肩口を抜いてイランゴールのネットを大きく揺らした。

 試合後、カズは「逆サイドを目掛けて蹴った。イメージどおり」と語ったが、取り巻く記者たちに「ニアサイドに入った」と告げられると、「え、ニアから入ったの?」と問い直し、そして明るく言いきった。

「ま、入ったからいいでしょう!」

 こうしてグループリーグを突破した日本代表は、準決勝で中国との激戦を制し、決勝戦では高木琢也のゴールを守りきって、大会3連覇を狙ったサウジアラビアを下し、見事にアジアカップで初優勝を飾ったのである。