振り返ってみれば、人生の中でたった6年間に過ぎない日々。名門中高卒の肩書き、それは勲章だろうか、それとも烙印だろうか。

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 今ではもう、あの制服も校章も身につけることはない。卒業後、名門校のブランドを剥がされ、生身で勝負する人生。その中でもがきながら、同級生たちからは遅れて、あるいは離れて、社会に「居場所」を見つけた“アウトロー”たちがいる。

 それは親や先生たちが期待していたような進路ではなかったかもしれない。だが、彼らが放つ規格外の魅力こそが、名門校の懐の深さを示しているようにも感じる。――そんな“アウトロー卒業生”に話を聞いた。(全2回の1回目/後編に続く)


 

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 ジョジョが来た。岡崎雄一郎は、全身を派手な星柄のドルチェ&ガッバーナに包み、取材会場のドアを開けて入ってきた。それは先日、ドルガバの試着室で「完全にジョジョ(の奇妙な冒険)」とツイートしていた服ですよねと指摘すると、照れを隠すように「あ、そうです」と素っ気ない返事をした。

 現在30歳の岡崎は、いわゆる「男子御三家」の一つ、東大合格者数39年連続1位の開成中学校・高等学校を卒業した。だが、そこからの経歴が“アウトロー”だ。まずは米国の大学へ留学するも、中退。帰国後は解体工、型枠大工、歌舞伎町の黒服として働いたのち、小学校時代からの友人とともに退職代行を手掛ける「EXIT株式会社」を創業した。会社に不満があるのに辞められない、そんな悩める会社員たちの退職手続きを代行する新たなビジネスだ。

 一時期はプロボクサーを目指していたことがあるとか、首にまでタトゥーが入っているとの事前情報から、どんな闇を背負った刺青男が登場するのかと覚悟していた取材チームは、肩で風を切るでもない、シャイでマナーの良い好青年を目の前にして、新鮮な驚きを隠せなかった。

 だが、口を開くと曲者の片鱗が見え隠れし始めた。「自分でも小さい頃からぼちぼちイケメンだと思ってるんですけど、なかなか僕がイケメンだというイメージが世間に広がっていかないなと。そうは言っても、イケメンを売りにしていけるほどのレベルではないとも思ってます」。それは謙虚なふりなのか、傲慢なふりなのか。どちらにせよ、一筋縄ではいかなそうだ。

「弟と最後に話したのが中学生ぐらい」

 神奈川県鎌倉市で育ったという岡崎に、まず家族についてきいてみると、「付き合いは薄いんですよ」と軽く突き放したような構えを見せた。「1歳下の弟が1人いるんですけど、最後に話したのが中学生ぐらい。僕、彼が何をしてるか全然知らなくて。あんまり気が合わなかったみたいです」と、他人事のように語る。

「親から聞いたんですけど、弟が結婚するらしいんです。もはや嫌いとかはないですけど、あえて話す機会もないじゃないですか。でも、結婚式には呼ばれたみたいなんで、行こうかなと思ってて」

 父親は財閥系企業のサラリーマンで、母親は専業主婦。その両親との付き合いも「年に1回か、2年に1回ぐらい実家に帰るか、帰らないかぐらい。たまにLINEとかは来るので、それは普通に返すんですよ」。

 幼少期を振り返ってもらうと、当時の岡崎はちょっとした“問題児”だったようだ。「親が言うには、幼稚園では隣の奴に噛みついたり、髪の毛引っ張ったりして、1人だけ席を離されてたみたいです」。だが母親には特に可愛がられ、「男前、男前」と言われて育ってきた。「それもあって、こうやって男前になったんじゃないかと思います」

小学校のクラスでは“圧倒的”だった

 県内有数の文教地区たる鎌倉の小学校では、中学受験をして有名校へ進むような生徒は岡崎以外にもちらほらいたという。「小学校で100点取っちゃうような子は他にもいますから、校内で特別頭がいいみたいに認識されてたかどうかはわからないです」。そうかと思うと、「自分では最強だ、天才だと思ってたんですけど。クラスでは圧倒的だったのは間違いないです」。

 小学校時代は、「そこそこ」モテたそうだ。「運動はすごく得意で、たぶん学年で2番目ぐらいに足が速かったですかね。バレンタインデーのチョコレートも、数個はもらいました。まあ、義理チョコみたいに配っている人もいたと思いますけど、僕が本命だった可能性は大いにある(笑)」。当時の写真を見ると、すっきりとした、賢そうな男子だ。「左下の、こいつです。小学校の頃はそんなイケメンでもないです」

 岡崎の話には、謙虚さとビッグマウスが交互に出てくる。「10点満点でいうと、自分では7か8ぐらいの男前だと思ってるんですよね。だから、積極的に自分で言っていかないと、そういうイメージはつかないなと思って、けっこう言いまくってるんです」。一見、実に不思議な岡崎の二極性は、子供時代から培われた自己肯定感を土台に、彼が意識的に“イキった”発信をしているがゆえのようだ。

開成と浅野に合格。栄光は不合格

 中学受験をする子どもたちの多くがそうであるように、岡崎もまた、親の方針に従って塾に通い始めた。「あくまでも、決めたのは自分だったと思うんですけど。確か小4ぐらいのときに、やってみるか、みたいな感じで。でも最初は塾に行くのも週2、3回で、勉強漬けだった気はあんまりしてない。小6はしっかり勉強したのかな、たぶん。一番覚えてるのは、漫画を読んでいたことです。勉強机の下に『NARUTO』と『HUNTER×HUNTER』が置いてあって、深夜になって親が入ってこない時間になると、それを2時か3時ぐらいまで読んでた記憶があります」

 受験4科目中、算数がダントツに好きだった岡崎は、暗記科目では苦戦したとも語る。「社会とかは全然できなかったです。開成志望者が集まる模試で、社会は後ろから7番目くらい。算数は得意だったんですけど、計算問題のような細かいのを出す学校は得意じゃなくて。開成みたいな、大きい問題を考えて解くのが好きでしたね。受験勉強をしてて、唯一楽しかったのはそういうときだったかもしれない」

 受験校は、2月1日から順に開成、栄光、浅野。栄光は不合格だった。「栄光は算数も計算問題が多くて、それでミスをしまくってたと思います。本当の天才はそんなもんさらっとやっちゃうんでしょうけど。社会はマジで空欄ばっかりでしたから、やってる最中からこれは無理だろうな、落ちるだろうなって思いました」

開成中学で味わった“名門校の洗礼”

 中学受験の最難関を突破し、第一志望の開成中学に晴れて入学したものの、西日暮里にある学校は鎌倉の自宅から電車で2時間ほどと、12歳の少年には遠かった。「僕、毎朝5時に起きて、6時に家を出てましたよ。東海道線で行くと速いけど、混んでて座れないんで、大船からずっと座って行ける京浜東北線を使ってました」

 学校では、名門校らしいともいえる洗礼を受けた。「一番びっくりしたのは、中1の1学期の中間試験でした。あれだけの受験勉強をして、一旦開成に入るという目標を達したんだから、しばらく勉強はいいだろう、みんなそうだよね、と思ってたんですけど、全員ちゃんとやってるんですよ。えっ、そんなにやるなんて、ふざけんな、なんだよ、と思って。いろんな人の点数を聞く限り、僕がほぼビリだったと思います」

 それまで、特別劣っているなどという意識は持っておらず、自分は開成の中でも平均くらいだろうと思っていた。「入学した直後くらいに、数学の授業で配られた問題をガーッと解いて、バッと見たらみんな終わってなかったんで、やっぱり俺は最強だ、なんて思ってました。たぶん、それが開成の中での全盛期でしたね(笑)」

 開成は中学の定員は300人だが、高校の募集で100人が加わり、1学年400人という大所帯になることでも知られる。「高校に入ると、全校模試で順位が完全に出るんです。すると、みんなが『裏100』と呼んでいた、下からの100人に入っちゃって。やってないからできないのはしょうがない、やればできる、と思ってたんですけど、やりゃあできると言ってる奴は結局やらないんですよね。それが完全に僕でした」

生徒主体の部活にも「熱中することはなかった」

 男子名門校は生徒主体で知られる学校が多い。開成もその例にもれず、部活には顧問の教師があまり関わらない形で、生徒が中心となって運営されていた。岡崎は上下関係のそれなりに厳しい硬式テニス部に所属し、高2の時には「高1を教える係のチーフ」になるほどには真剣にやっていたが、「熱中するということはなかったです」。

 当時の思い出を聞くと、こんな答えが返ってきた。「ある時、授業をサボって部室でビデオを見てたんです。それがバレて、チーフの役職を降りざるを得なくなって、そこからは部活もなんか別に、って感じになっていっちゃった」。その時に見ていたビデオは、男子高校生らしいAVなどではなく、友達がレンタルビデオ店へ返却する間際だった『チャーリーとチョコレート工場』だったという。

「けっこう速攻でバレちゃって。チャーリーたちがチョコレート工場に着く前に。だからチャーリーたちがその後どうなったのか、僕はまだ知らないんです(笑)」

 中学ぐらいから、誰かがどこかの学校の女子と付き合ってるらしいといった話を聞くことはあったものの、岡崎は「女子校の文化祭に行って、アドレスの交換ぐらいまではやってみたりしてましたけど、女子に免疫がなくて圧倒的に経験値不足だった」と笑う。「でも、高校の間に一応彼女はできたので、男前として最低限のレベルはクリアできたのかなと思います」

担任から言われた“忘れられない言葉”

 のどかな学校生活のようにも聞こえるが、多感な少年たちにとっては概して、自分に起こる一つ一つの出来事が“地味に大事件”だ。「高校の頃は遅刻がすごく多かったですね。家が遠かったんで、眠いんですよ。大船から電車に乗って、座って寝て、本当は西日暮里で降りるんですけど、そのまま埼玉まで行ってしまって。それで、埼玉でぷらっと散歩をしてから、学校に行くみたいな感じでした。早く着いても午前中は寝てるみたいな」

 日々、ただ確信犯的に埼玉まで乗り過ごすのではなく、そこで降りてぷらっと散歩をする。当然遅刻するが、それでも学校には行く。思春期のそんな、自分でも言葉にできない心理と行動に対して、開成の先生たちはうるさく言うことはなかった。

「先生の機嫌が悪いときは何か言われたりしますけど、ほぼほぼ、いつも寝てるんで、いいよあいつは、って感じだったと思います。担任の先生にはすごくよくしてもらったんですけど、特に高3の担任のことは記憶に残っていますね。僕、レゲエミュージシャンのショーン・ポールが好きで、どうしても一度やってみたくて、一時期コーンロウという髪型にしたことがあったんです」

 開成は茶髪もピアスもOKの、自由な校風だ。でもさすがにレゲエ風に編み込んだ長髪と刈り上げを組み合わせたコーンロウは、校内でも相当目立っただろう。ただ、他クラスの先生たちが色々と言う中で、担任の先生だけは「まあ、別に俺はいいと思うんだけどなあ」と声をかけてくれた。「それが嬉しかったというか……さすがだなと思ったんです」

なぜ高3の夏にタトゥーを入れたのか?

 そして高3の夏、岡崎は「家族にはもちろん内緒で」腰にタトゥーを入れた。日本トップの名門校に通いながら、なぜタトゥーを入れたのか。しかし、そこに私たちが想像するような強烈なトラウマやコンプレックスは存在しない。岡崎にとっては、高校生にして身体にタトゥーを刻むことすら、日常の延長線上だったようだ。

「高1のときに本屋でタトゥーアートの本を読んで、カッコいいなって思ったんです。で、高3のときに入れようかと。でも普通のタトゥースタジオって、20歳未満は親の同意書が必要なところが多いので、18歳の高校生でもできるところを探して、入れてもらったという感じです。3から5万円ぐらいかな。当時、バイトとかはしてなかったんで、親の小遣いで彫りました」

 彫り師には我慢強いほうだと褒められたが、それでもやっぱり痛かったという。

志望校は「東大→慶應→アメリカ」

 一方で、大学受験は迫っていた。学内試験では結果を出せていなかった岡崎も、高1の終わりぐらいまでは「東大なんて普通に余裕だ」と思っていた。「全力を出せば全然追いつけるでしょ、と。でも高2に入った頃から、いや、ちょっと待てよと」。東大の受験科目数はかなり多い。「全部やるのはさすがにきついなと思って、志望校を変えて、慶應法学部に行こうと思ったんです。英語と世界史と小論文、3つだけ。これなら余裕だろうと(笑)」

 だが、岡崎は世界史が苦手で、模試では「7点とか14点」を叩き出してしまった。そんなとき、留学の話を見つけたのだ。「現実問題、あのまま行ったら慶應法学部は難しかったと思うんですけど、ただ、アメリカに行くと決めたのはその道が厳しかったからというよりも、何か面白そうだったからです」。初めてその考えを親に話した時は、「何を言ってる、ふざけるな」と叱られた。

「でも、自分の中ではもう、行くことが決まってたんで。そこからはひたすら、英語をやるようになって。中高を通して初めて真剣に勉強をしたのが、そのときだったかもしれないです。英語も全校模試でビリみたいな感じだったんですけど、めっちゃやったら、英語だけは上位50人までの順位表に載って、校内に貼り出されるぐらいになったんです。たしか、48位か49位ぐらい。他の教師は爆笑だったみたいですけどね、岡崎載ったよって。でも、それで親に僕の熱意が伝わったんだと思うんです」

人生で初めて本気になった瞬間

 今でこそ、ハーバードなどの海外名門大学へ進む生徒も増えてきた開成ではあるが、当時はアメリカへ行くなんていう生徒は、“変わり者”の岡崎くらいだった。海外大学への進学を斡旋してくれる団体に費用を払い、岡崎はとにかく英語を勉強し続けた。一旦は語学留学という形で現地へ飛び、半年ほど州立大学付属の語学学校でTOEFLの点数を伸ばして、大学へ編入するというコース。受け入れてくれた大学は、テキサス州立大だ。

「別にテキサスに行きたかったわけではなかったんです。でも、あっちの大学入学には高校の成績が要るんですが、開成と言ったって向こうの人にしてみたら知ったこっちゃねえやという感じで。学校のランクはほとんど考慮されずに、単純に高校での成績が低いと、行けるところが限られてしまったんです。本当はカッコいいからカリフォルニアがよかったんですけどね」

 中学受験にも高校の部活にも熱中することのなかった岡崎が、人生で初めて「本気」になった瞬間。それがこのときだったのかもしれない。しかし、そうしてテキサスで大学生活を始めた岡崎だったが、結局は卒業に至ることなく中退してしまう。その原因は、現地で出会い、学生生活を破綻させるまでにのめりこんだボクシングだった。

(後編に続く)

写真=松本輝一/文藝春秋

岡崎雄一郎(おかざき・ゆういちろう)
1989年生まれ。退職代行を手掛ける「EXIT株式会社」代表取締役社長。私立開成高校を卒業後、アメリカに留学。テキサス州立大学へ入学するも、ボクシングに熱中して中退。帰国後は解体工、型枠大工、歌舞伎町での勤務を経て、現職。Twitter(@okazakithe)でも情報発信中。

歌舞伎町の黒服を経て“辞めさせ屋”に……開成卒の30歳起業家が明かす「退職代行ビジネスの裏側」 へ続く

(河崎 環)