遺骨調査で証明?江戸幕府で一番のイケメン将軍はコンプレックス多き徳川家重だった説

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江戸幕府には初代・徳川家康(とくがわ いえやす)から15代・徳川慶喜(よしのぶ)まで15人の将軍がいる中で、一番イケメンだったのは誰でしょうか。

家康の古狸みたいな顔(肖像画)を見る限り、その子孫たちもそんなにイケメンだったとは思えないものの、それでも武家の棟梁として天下に号令する立場ともなれば、相応の品位や覚悟が容姿に表れていたことでしょう。

そこで今回は、江戸幕府で一番のイケメン将軍・徳川家重(いえしげ)を紹介したいと思います。

「小便公方」徳川家重のコンプレックスと功績

徳川記念財団蔵「徳川家重肖像(狩野英信筆)」えーと……イケメン?

家重は江戸中期の正徳元1712年12月21日、第8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の長男として生まれました。幼名は長福丸(ちょうふくまる)と言います。

後世「暴れん坊将軍」の異名で知られ、享保の改革などバイタリティあふれる父とは違って生まれつき病弱で、吃音(どもり)のコンプレックスで引きこもりがちだったそうです。

ゆえに吉宗の後継者として相応しくないとする声も少なからず、一時は廃嫡騒ぎ(聡明であった弟の宗武を擁立する動き)も起こりますが、お家騒動を未然に防ぐ吉宗の意向で第9代将軍に就任しました。

しかし、将軍になった重責からか家重の吃音はますます悪化し、ついには側近の大岡忠光(おおおか ただみつ)しか聞き取れなくなってしまったと言います。

また、排尿障害を患っていたらしく頻尿に悩まされ、江戸城から徳川家の菩提寺である上野寛永寺まで約5kmの参詣ルートに23ヵ所もの厠(かわや)を設置させたため、人々は「小便公方(しょうべんくぼう)」と陰口したそうです。

その一方で、消極的な自分の代わりに田沼意次(たぬま おきつぐ)や大岡忠光と言った優秀な人材を登用し、吉宗の政治的遺産もあって天下はよく治まったと高く評されています。

「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に俗しけるは、有徳院(吉宗)殿の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」
※幕府の公式史書『徳川実紀』より。

そして宝暦十一1761年6月12日、嫡男・徳川家治(いえはる)に後を託して51歳の生涯に幕を下ろしたのでした。死因は尿毒症と推測されています。

遺骨調査でイケメンだったことが証明

……こうして家重の人生を振り返ってみると「小便公方」なんて綽名からして「さぞイケメンとは程遠い、不細工な容姿だったのだろう」などと先入観を持ってしまいがちです。

しかし、戦後に墓所・増上寺の改修に伴う発掘調査が行われた際、家重の遺骨を確認したところ、歴代将軍の中で最も顔立ちが整っていたとする『徳川実紀』の記述が証明されました。

※一説には家重は脳性麻痺を患っており、時おり顔面が麻痺して歪んでしまうことがあったため、その時の印象で前掲のような肖像画を描かれた可能性があります。

大和国・長谷寺蔵「徳川家重肖像」。現代的なイケメンかはともかく、英雄・徳川家康の風格を受け継いでいる。

よく「人は外見じゃなくて中身だ」と言いながら、往々にして「容姿と能力・功績は比例する」ものと思い込んでしまいがちですが、イケメンや美女にだってコンプレックスや欠点はあるし、その逆もまた然り。

偏見を排した公正な視点から歴史を見直し、先人たちの魅力に学び続ける姿勢を心掛けたいものですね。

※参考文献:
鈴木尚ら編『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』東京大学出版会、1967年
鈴木尚『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』東京大学出版会、1985年