コロナ後、また「いつもの日常」に戻るのが辛くてたまらないあなたへ 世界は少しだけ、だが劇的に変わる

写真拡大 (全2枚)

ウイルスが救った人もいる

現在、全世界で猛威をふるい、多くの人命を奪い、社会を恐怖に陥れている新型コロナウイルスが――しかしある側面では、誰かを救っていたのかもしれない。

〈厚労省などによりますと、先月の全国の自殺者数は前の年の同じ月に比べ359人少ない1455人で、19.8%減ったことがわかりました。少なくとも最近5年間では最も大きな減少幅だということです。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、家族ら同居する人が外出せず家にいることや、職場や学校に行く機会が減り、悩むことが少なかったことなどが要因とみられています〉(TBS NEWS、5月13日「4月の自殺者数、前年比約20%減」より)

驚くべきニュースだ。たしかに、この状況下で自殺率が改善するとすれば、職場や学校における社会的関係・人間関係的要因の改善によるところが大きいと推測しても差し支えないだろう(一般に自殺動機の上位を占めるのは健康要因や経済因子、就労要因だが、これらはコロナウイルス禍で改善するどころか、逆に増悪因子として働いていると考えるのが自然だ)。

胃が裏返りそうなほどつらい仕事、近づくだけで動悸やめまいがしてくるような学校――皮肉なことに、ウイルスがそれらを回避するための迂回路をつくったといえるのかもしれない。けっして少なくない人にとっては、未知のウイルスよりもはるかに恐ろしかった「いつもと同じ狭い空間に赴き、いつもと同じメンバーとまじわり、コミュニケーションする日々」が、あくまで一時的とはいえ来なくなったことはたしかだ。

Photo by gettyimages

「ステイホーム」が求められる状況下において、好きな職場、好きな学校に行けず、楽しい時間を過ごせず、好きな人と会えなくて、それこそ死ぬほどにつらい思いをしている人が大勢いる。しかしその一方で、嫌いな職場、嫌いな学校に行かず、苦手な人、嫌いな人に会わずに済んでいることで、心から胸をなでおろしている人もいる。不謹慎であることは承知しつつも、できれば緊急事態宣言が終わってほしくない――心中ではそう願ってやまない人も、この記事の読者の中にはきっといるはずだ。

はじめに断っておきたい。今回の記事はそのような人のために書かれたものだ。

「あなたがなんとなく過ごした今日という日は、昨日死んだ人がどうしても生きたかった明日だ」

――だれが語ったのかもはや知れないが、印象によく残るフレーズだ。ほとんどの人が、どこかでこの一文をいちどは目にしたことがあるだろう。

たしかにそうだ。「生きたい」と懸命に願っても、それが叶わなかった人がいる。だが暗がりに光を当ててみれば、違った世界も見える。すなわち「今日という日は、昨日自殺した人がたとえ死んででも回避したかった明日」でもあるのだと。

こうした傾向がいつまで続くのかはわからない。これから経済が徐々に再開し、景気の落ち込みが明らかになるにつれて、むしろ自ら命を断つ人は以前より増えてしまうのかもしれない。しかし、新型コロナウイルスは少なくとも、「明日を迎えたくない人」にひと月の猶予を与えてくれたらしい。

私たちが生活の大部分を過ごす「快適な社会参加の場」を維持するための人間関係や社会関係、あるいはコミュニケーションの負荷こそが、人を少なからず死に追いやっていたのではないだろうか。これまでの社会は、そのことにあまりにも無自覚だったのかもしれない。

「今年の4月に死ななくて済んだ400人弱」は、コロナ以前の世の中が続いていたならば、「社会にとって必要な犠牲」とされ、ほとんど顧みられることのなかった人々なのだ。

Photo by gettyimages

「快適な社会」の犠牲者たち

「快適な社会参加」を遂げるためには、コミュニケーション能力が必須と考えられている。そしてコミュニケーションというのは、単純に「ことば(音声言語・文字言語)」だけで決するわけではない。

顔立ち、容姿、身体的特徴、服装、声色、ふるまい、立場、性別――さまざまな非言語的情報が統合されて、その人のコミュニケーション能力を形作る。こうした「ことば」以外の複雑なチャンネルの統合が苦手で、意図せず相手に望ましくないメッセージを発信してしまうような人にとって、リモートワークや自宅学習は快適な面も大きいだろう。

先進国の社会はこれまで「コミュニケーション能力」の重要性をますます高めてきた。「社会人としてのマナー」「会社のローカル・ルール」「新人はこうあるべき」「ビジネスパーソンとして望ましいビヘイビア」などが数多く考案され、それらを身に着けることで「社会人」として認められるという仕組みが確立した。

だが、これらは同時に「ふつう」の水準を高め、「社会の成員」に要求されるハードルをぐんぐんと上昇させていった。私たちは内心では気疲れを感じつつも、しかし多くの人がそれに従っているからこそ、「一人前の社会人」というロールプレイに参加しないという選択肢を持つ余地はほとんどなかった。

もちろん、これには相応の利点もあった。社会参加するメンバーのだれもが懸命に「望ましいコミュニケーション」の高い要求水準にキャッチアップしているかぎりにおいて、自分たちの視界に「不愉快な存在」が立ち入ってくる可能性は大幅に減ったからだ。しかしその利点も、「望ましいコミュニケーション」を取れない者は徹底的に冷遇され排除されるからこそ実現しているという残酷な側面を、私たちはしばしば忘れてしまっていた。あるいは、見て見ぬふりをしていた。

そうして排除されてきた人々にとっては、この「快適な社会」は、時に文字どおり死んででも回避したい「恐ろしい社会」として眼前に現れていたのではないだろうか。

「一人前」という演技

いま多くの人がリモートワークになっている。

人が物理的に集合して活動するからこそ必要だった「快適な社会を維持するためのビヘイビア」から、程度の差はあるものの、少なからぬ人が一時的に解放されている。

自分たちがいままでどれだけ重たい荷物を背負って「外の世界」に赴いていたのか、平日の自宅でその荷物を降ろしてはじめて気が付いたという人も多いことだろう。あるいは、立場によっては「快適な社会」「快適なコミュニケーション」に適応する能力によって、自分がいかに「ゲタを履かされていたのか」に気づくこともあるかもしれない。

Photo by gettyimages

緊急事態宣言が解除されれば、一時的な措置として行われていたテレワークやリモート学習も終わってしまう。Twitter社など一部のIT企業では恒常的にリモートワークを選択可能になるという話もあるが、日本の一般企業では、あくまで暫定的な措置にとどまるだろう。

しかし、この数か月間「重荷」を下ろして暮らしていた人びとは、果たして「もとの暮らし」に戻れるのだろうか? 

社会というのはある種の共同幻想で、だれもがそれに乗っているからこそ、だれもそのことに疑問を感じてこなかった。だが、自宅の一室でゆったりと椅子に腰かけながら仕事をしていると「つい数か月前まで、どうして毎朝つらい満員電車に揺られて会社に行き、あんなに肩ひじ張って『バリバリと仕事をしている真面目で優秀な自分』を周囲に演出していたのか、しなればならなかったのか……いまとなってはよくわからない」と感じている人もいる。もしかしたら、いまこれを読んでいるあなたも、そのような不思議な感覚に襲われている最中かもしれない。

いわば「一人前の社会人しぐさ劇場」から離れ、緊張感から解放され切った後で、ふたたびあの演劇の舞台に戻って、前と同じようなロールプレイを取り戻すことができるのだろうか。そのような「身振り」に疑問を持たずにいられるだろうか。だれかを死ぬほど追いつめてしまう「会社」や「学校」のルールに、はたしてそれほど意味があったのだろうか――という自問が発生せずにはいられなくなるだろう。

「まっとうなビジネスパーソン」という名の熱狂の舞台からいちど降りて、その熱も酔いも「醒めて」しまったら、もういちどあの日々と同じ熱量で踊ることは難しい。どれだけ自分を鼓舞しても「これは茶番ではないか?」と小さな疑念を抱く自分を誤魔化しきれなくなる。無理もない。実際に「まっとうなビジネスパーソンのコミュニケーション」というのはまさしく演技なのだから。

「これまでやっていた息苦しいコミュニケーションは、本当に必要不可欠なものだったのか?」――いま、他者と離れ離れで暮らす多くの人にうっすらと共有されはじめたこの「醒め」は、日本社会における「社会人のコミュニケーション」が、アフター・コロナに大きく変貌する起爆剤となりえる。

「演技」から醒めるとき

〈政府は、東京など首都圏の1都3県と北海道で継続している緊急事態宣言を解除する方針を固め、25日開く諮問委員会に諮ることになりました。
これにより、先月7日から出されていた宣言は全面的に解除となる見通しです〉(NHK 首都圏NEWS WEB、5月24日「緊急事態宣言 全面解除へ」より)

自分の住まう街で緊急事態宣言が解除されたり、あるいはもうまもなく解除されようとしていて、登校や出勤が再開され「かつての日常」が帰ってくることに恐々としている人もいるかもしれない。

だが、絶望するのは早計だ。

しばしば悲観的な論調とあわせて耳にすることの多いフレーズ「コロナ以前の日常は二度と帰ってこない」――というのは、これまでの人間関係や社会関係にも当てはまるからだ。

6月になり、再びオフィスや学校に集まった人びとがみな、これまでのような熱量と距離感で「かつてと同じように綿密な人間関係を復活させ、『一人前の社会人しぐさ劇場』をやり直そう」と考えるとはとても思えない。以前の距離感は「新しい日常」では少々近すぎるからだ。

「新しい日常」では、かつてのような「快適なコミュニケーション」は味わえなくなるが、しかし同時に「望ましいコミュニケーションが取れない者」に対する排除も、それほど苛烈ではなくなる。

むしろ、あえて「かつてのコミュニケーション」を復活させようと、他者との距離を詰めようとすればするほど、自宅でのんびりと働いた数カ月のうちに芽生えた「これは茶番ではないか?」という疑念は大きくなる。ゆるい格好で大あくびをしながら、好きなタイミングでコーヒーを飲み、休憩時間には足を広げてベッドに寝そべって仕事をしていた日々の記憶が、パリッとしたスーツに身を包んで「だれにとっても望ましい社会人しぐさ」を再演しようとする自分を相対化し、やたら滑稽なものにしてしまう。

アフター・コロナにおける人間関係やコミュニケーションは、少なくともかつてより「つかず離れず」の方向へとシフトするだろう。6月から、私たちは人間関係でも「新しい日常(ニュー・ノーマル)」を体感していくことになるはずだ。

繰りかえそう。もしも、あなたがいま、学校や会社に行きたくない、戻ればまた押し潰されてしまうと苦しんでいるのであっても、絶望するのは早計だ。アフターコロナとともに訪れる次の時代において、私たちは人間関係の「快適さ」を大幅に失う可能性が高いが、その喪失と同時に得るものもある。嫌いなあの場所、あの人のために、わざわざ死ぬことはない。

いうなれば、私たちはこの社会の俳優だ。舞台の上の俳優は、あくまで模造品のナイフで胸を刺したふりをし、血糊をつけているものだ。本物のナイフで心臓を突く必要はどこにもない。