地球へ

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「少年ジャンプ」の『鬼滅の刃』が最終回を迎えた。

単行本は20巻が出たところで、書店店頭にはマスクのように「おひとりさま一冊のみ」との貼り紙があったが、それでも発売日に売り切れ、人気絶頂での最終回だ。

テレビアニメになり、秋には劇場用アニメーションの公開も予定されている。

数週間前から連載が終わるらしいと話題になっていた。

「少年ジャンプ」は作者が終えたいと思っても、アンケートの上位にあり、単行本が売れ続ける限り、連載を終わらせてくれないので知られている。その逆に、人気がなければ、作者が続けたくても、打ちきりになる。

『鬼滅の刃』も人気絶頂なので、予定していたストーリーが終わっても、いろいろ工夫して続くのではないかとの憶測もあったが、きっぱりと完結したので、驚かれた。

女性マンガ家による少年マンガ

『鬼滅の刃』では、もうひとつ、作者の「吾峠呼世晴(ごとうげ こよはる)」が女性だということが話題になった。

「吾峠呼世晴」という名前を見て、多くの人がペンネームだと思うだろう。「こよはる」という音からして、男性をイメージさせる。

いままで、女性と知られていなっかたので(男性と称していたわけでもないので、読者を騙したのではない)、話題になった。

これまでも、男性的ペンネームで少年マンガ誌に描いた女性マンガ家は何人もいる。

思いつくままに挙げれば、『シュート!』の大島司、『鋼の錬金術師』の荒川弘、『3.3.7ビョーシ!!』『モテキ』の久保ミツロウ、『ゴッドハンド輝』の山本航暉、『金田一少年の事件簿』のさとうふみや、『聖☆おにいさん』の中村光、ほかにもいるだろう。

高橋留美子のように、女性名で少年マンガを描いている人は、少ない方かもしれない。

それぞれの意図と事情があるのだろうが、「少年マンガは男が描いて男が読むもの」という固定観念が、この業界にあるのは否定できないだろう。

その逆に少女マンガは、1950年代の最初期は、女性マンガ家が少なかったので、手塚治虫をはじめ、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、ちばてつや、横山光輝、松本零士など、男性マンガ家が描いていた時代があった。

1959年に「少年サンデー」「少年マガジン」という少年週刊誌が創刊されると、彼らは、そっちが忙しくて少女雑誌には描かなくなり、同時に女性マンガ家が次々とデビューしたので、少女マンガは女性が描くのが当たり前となった。

このように少女マンガは、「男が描くものから女が描くもの」へという歴史を持つが、少年マンガには「女性マンガ家が描く」伝統はなかった。

最初に少年マンガ週刊誌に描いた女性マンガ家は矢代まさこと思われる。1968年に「少年マガジン」に読み切りを描き、以後も、「少年ジャンプ」「少年サンデー」「少年チャンピオン」に74年頃まで、読み切りを描いていた。

続くのが里中満智子で、1974年に「週刊少年マガジン」に連載していた水島新司の『野球狂の詩』のエピソードのいくつかを合作し、それが好評だったので、75年12月から『さすらい麦子』を連載した。しかし、連載は半年ほどで終わり、以後も続かなかった。

次が竹宮惠子で、週刊誌ではなく、月刊の「マンガ少年」に1977年1月号から『地球(テラ)へ…』を連載し、長編アニメ映画にもなるほど、話題になった。

それを追って、萩尾望都が1977年8月から、「週刊少年チャンピオン」で光瀬龍のSF小説『百億の昼と千億の夜』を連載した。

当時、「女性マンガ家が少年雑誌に描く」ことそのものが「事件」だった。

以後も「少女マンガでデビューして少年マンガへ」というルートで描く女性マンガ家は、少ない。

萩尾望都、竹宮惠子も、少年誌に継続して描くことはなく、少女雑誌に戻った。

一方で、高橋留美子のように最初から少年マンガを描く女性マンガ家は多くなったが、前述のように男性的ペンネームを使うことが多い。

「萩尾望都」は少女雑誌でデビューしたが、当時は男性マンガ家が少女マンガを描くことも普通だったので、その名前から男性だと思っていた読者もいる。

たしかに、当時としては「子」とか「恵」「代」「美」がつかず、女性の名前らしくはない。といって、男っぽくもないが。

手塚・石ノ森の正統な後継者

昨年出した、『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)では、「少年サンデー」「少年マガジン」創刊されたところで物語を終え、あとは後日譚とした。

おかげさまで好評だったので、その後日譚部分を本格的に書こうかとも考えた。手塚治虫を中心にした少年マンガのその後、あるいは青年マンガの話である。しかし、1960年代以降のマンガはかなり拡散していくので、焦点がしぼりにくい。

いずれ書く機会があるかもしれないが、その前に、手塚・石ノ森の正統な後継者として、萩尾望都と竹宮惠子を位置づけるべきと感じ、『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』(幻冬舎新書)を書いた。

なぜ、この2人なのか。

萩尾望都と竹宮惠子は昭和24年度生まれで、彼女たち以外の、山岸凉子や大島弓子などとあわせて「24年組」として語られることが多い。そのなかで、萩尾望都、竹宮惠子に共通するのは、小学校の頃から、手塚治虫と石ノ森章太郎のマンガ、それも少年マンガを好んで読んでいたことだ。

別に正式な学校があるわけではないが、萩尾・竹宮は手塚・石ノ森スクールの生徒なのである。

手塚・石ノ森スクールであるだけでない。2人とも、「女にはSFは分からない」と言われていた時代から、SFマンガを描いていた点で、他の女性マンガ家と異なっていた。

それゆえに、少年誌でも2人を受け入れることができ、SFマンガである『地球へ…』と『百億の昼と千億の夜』が生まれた。

手塚治虫・石ノ森章太郎を愛読していた60・70年代の少年にとって、この2人は少女マンガのなかでは、その絵も、コマ割りやストーリーの運び方も、なじみのあるものだったのだ。

さらに、萩尾・竹宮の2人は、第二のトキワ荘を目指して、共同生活をしていた時期がある。

いうまでもなく、トキワ荘とは、手塚治虫が暮らし、その後に、藤子不二雄の2人、石ノ森章太郎、赤塚不二夫が6年にわたり暮らしていたアパートだ。

それに影響されて、竹宮惠子は萩尾望都を誘い、練馬区大泉の古い二軒長屋で共同生活を始めた。それが、通称「大泉サロン」である。

トキワ荘に始まったマンガのある部分は、大泉サロンの2人に引き継がれている。

マンガ週刊誌時代の始まり

1959年春に「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」の2誌が創刊され、週刊誌時代に突入した。

先に少年週刊誌の創刊を決めたのは小学館で、「少年サンデー」の編集者がすぐに手塚治虫を訪ねて連載を依頼、承諾してもらった。続いて、トキワ荘グループの寺田ヒロオと藤子不二雄の連載も決まる。

講談社が「少年マガジン」創刊を決めて編集者が手塚を訪ねると、週刊誌2誌は無理だと断られた。藤子不二雄のもとを訪ねたのは、小学館に連載を引き受けたと返事をした数日後だった。

トキワ荘で暮らすうちに、藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎は人気が出て、仕事も増え、アシスタントを雇うようになり、お金も貯まった。同年代の若いサラリーマンの何倍もの収入があった。

彼らがトキワ荘に入居したときは月刊誌、1961年秋から冬に出るときは週刊誌の時代になっていた。

トキワ荘を出た後、藤子不二雄の2人は川崎市に住んでいたが、石ノ森と赤塚はその後もトキワ荘の近くに暮らし、そして石ノ森は桜台に住居兼仕事場を建てた。

手塚治虫はトキワ荘を出た後、雑司が谷、初台と引っ越したが、1960年に西武池袋線の富士見台駅近くに住居兼仕事場を建て、ここに虫プロダクションもできる。

手塚がこの地を選んだのはアニメーションを作るには、大泉にある東映動画のそばがいいのではないかと考えたからだった。

こうして手塚治虫は西武池袋線に戻った。石ノ森章太郎も、それを意識したのかどうかは分からないが、西武池袋線の桜台を住居兼仕事場の地に選んだ。

そして、手塚、石ノ森が西武池袋線沿線に暮らしたのを追って、萩尾望都と竹宮惠子も、この沿線に住むようになる。

西武鉄道には何の戦略もなかっただろうが、この鉄道は、マンガとアニメの歴史を乗せて走っているのだ。

講談社から小学館へ

萩尾望都がデビューしたのは1969年、20歳の年で、講談社の「なかよし」夏休み増刊号に載った短編『ルルとミミ』が最初に商業雑誌に載った作品だ。

その前に集英社の「別冊マーガレット」に「まんがスクール」に応募して金賞を取ったが、編集者から「こう直して」と助言されても従わなかったので、デビューできなかった。

そこで、知り合いのつてをたどり、講談社を訪ねたのだ。

「なかよし」でも、デビューはしたが、描いても編集者とセンスが合わなかったのか、なかなか採用されない。

一方、同じ学年の竹宮惠子は、すでに講談社と小学館の雑誌に連載を持っていた。

1970年春、竹宮惠子が締め切りが迫り講談社の別館にカンヅメになっていたとき、編集部の紹介で、デビューしていたがブレイク前の萩尾望都がアシスタントをしたのが、2人の出会いだった。

竹宮惠子は雑誌で萩尾望都のマンガを読み、「この作者は男に違いない、こういう人と結婚したい」、と思っていたという。

出会った当時、萩尾望都は福岡県、竹宮惠子は徳島県で親と暮らしていた。

竹宮は萩尾と出会った直後に東京で暮らすようになり、最初に住んだのは西武池袋線の桜台駅の近くだった。

この地を選んだのは、竹宮が師と仰ぐ石ノ森章太郎が住んでいたからだ。

桜台でひとり暮らしを始めた竹宮惠子は、萩尾望都の紹介で、西武池袋線大泉学園駅の近くに住む増山法恵というマンガファンと親しくなった。

その増山の自宅のそばに、古い二軒長屋があり、ひとつ空いた。

そこで竹宮惠子は、「女のひとり暮らしはダメ」と親に言われ、上京できないでいた萩尾望都を誘い、2人で暮すことになった。

竹宮と増山は、女性版トキワ荘を目指そうと、盛り上がっていた。

それと前後して、萩尾望都は竹宮惠子から小学館の編集者を紹介してもらい、これまでに講談社でボツにされた作品を見せると、すべて採用してくれた。

小学館の「少女コミック」は1968年に創刊されたばかりだった。小学館は少女マンガでは講談社にも、子会社の集英社にも出遅れていた。

新しい雑誌が苦労するのは、作家の確保である。すでに他紙に描いている人気マンガ家はなかなか描いてくれない。

同時期に少年週刊誌としては後発として創刊された集英社の「少年ジャンプ」も、最初は人気マンガ家に依頼したが断られ、新人の起用に方針を変えて、これが大成功する。

「少女コミック」という場を得ると、萩尾望都は自由に描かせてもらい、従来の少女マンガにはなかった斬新な作品で、人気を得ていく。

講談社は1959年の「少年マガジン」創刊時には、手塚とトキワ荘グループを逃し、1970年にはいったん摑んでいた萩尾望都と竹宮惠子を逃してしまう。

もっとも、講談社には里中満智子をはじめ、少女マンガ家はたくさんいたので、それで屋台骨が揺らぐことはない。

トキワ荘と大泉サロンの違い

萩尾望都と竹宮惠子が暮らしていた二軒長屋は、「トキワ荘」のような名はなかった。

だが、2人を訪ねて、マンガ家の卵たちがやってくるようになると、「大泉サロン」と呼ばれるようになった。

すでにデビューしていた者もいるが、山田ミネコ、ささやななえこ、伊東愛子、佐藤史生、坂田靖子、花郁悠紀子、たらさわみちなどが大泉サロンからデビューしたとして知られている。

しかし、大泉での共同生活は1972年暮れに終わる。

その後2人は西武新宿線の下井草駅周辺に、それぞれ住居兼仕事場を設けて、しばらくは交流があったが、やがて途絶える。

トキワ荘のメンバーが、その後何十年も交流を続け、対談や座談会、テレビ番組でトキワ荘時代を語り、マンガやエッセイに書いているのに対し、大泉サロン解散後、萩尾望都と竹宮惠子が公の場で会うことはない。

大泉サロンについては断片的に語られるのみだった。

2016年に竹宮惠子が自伝『少年の名はジルベール』で、この時代について詳細に書いたので、広く知られるようになった。

しかも、もうひとりの当事者である萩尾望都は、一緒に暮らしていたことを、インタビューなどで問われれば隠しはしないが、積極的に語ることはない。

それゆえ、大泉サロンはトキワ荘ほどは知られていない。

共同生活の私生活の詳細を知る必要はないが、この時代、どういう作品が同時に描かれていたのかは、もっと知られていいと思うのだ。