【小川 たまか】性暴力の被害者が、驚くほど「自分を責めてしまう」理由 自傷行為に走ってしまう人もいる…

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性暴力の加害者は他責をし、被害者は自責する傾向がある。専門家や支援者の中ではよく知られた事実だが、世間一般に広く浸透しているとは言えない。被害者に追い討ちをかけるような強姦神話やセカンドレイプ的な言説がまかり通る理由のひとつとしては、このような実態が知られていないことがあるのではないか。

映画『Spotlight』の加害者と被害者

性暴力の加害者は堂々としていて、被害者は自信がなさそうに見えることがある。

2015年にアカデミー賞作品賞などを受賞した映画『Spotlight』(邦題は『スポットライト 世紀のスクープ』)。カトリック教会内での性虐待、それをスクープしたボストン・グローブ紙の実話を基にしたこの映画では、性暴力の被害者(子どもの頃に協会に通っていた男性たち)と加害者(神父たち)の対照的な姿が描き出される。

〔PHOTO〕iStock

この作品に出てくる被害者は、被害後、それまでのような生活を続けられなくなる。ある被害者は何年も問題を訴え続け、早口で顔色が悪く少し病的に見える。ある被害者は突然泣き出し、ある被害者は恐らくドラッグを常用している。ある被害者はすでに亡くなっている。

一方で、加害者の神父たちは守られ、告発を受けるまでは、それまで通り堂々と教会で人々に教えを説きながら過ごしていた。

地域から信頼を集めている神父たちの証言と、経済的に裕福ではなかった家の子どもたちの話――。事件の告発が報道によって成功するまで、人々がどちらを信じていたかは明白だ。映画を見れば、長年にわたる被害者の訴えにメディアがようやく目を向けたのがこのときだったということがわかる。

黙っていればそれで地位が揺るがない加害者と、絞り出すように真実を語ってもほとんど取り合ってもらえなかったであろう被害者のコントラスト。性暴力の取材を続けてきた私の目には、生々しい現実に基づく描写に映った。

被害者は日常生活を続けられなくなり、加害者はこれまで通りに暮らす。被害者は戸惑い、加害者は堂々と振る舞う。

法廷で被害者を貶める加害者たち

こうした被害者と加害者の非対称な関係のなかでも、ことに目立つのが、「被害者が自責し、加害者が他責する」という構図だ。私が日本で性暴力の取材をしていても、被害者が自分の被害について「私に非があったのではないか」と自問し、加害者は「自分が犯罪行為に及んだのは被害者のせいだ」と他責する…という構図を、たびたび目にする。

たとえば、3月12日に判決が出た、「リアルナンパアカデミー(通称RNA)」事件。主犯である「塾長」の男は、3件の準強制性交等事件で懲役13年の実刑となった。共犯者の「塾生」たちと共に、ナンパした女性たちに大量に飲酒させ、酩酊させてレイプに及んだ事件だ。

裁判で塾長の男は、共犯者や被害者の「非」を挙げ、さらに自分がいかに女性たちから受け入れられていたかを雄弁に語った。被告人の自己弁護は権利とはいえ、その主張をそのまま引用すれば被害者へのセカンドレイプになりかねない。

一方で、この事件の被害者たちが公判で証言台に立った際はどうだったか。もちろん男たちの行為を非難したが、悲痛な声で「私も悪かった」「隙があった」と語る場面があった。一緒に傍聴していた編集者のM氏は、その様子が「一番印象的だった」と漏らした。

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また、この事件と同日に判決が出た名古屋高裁での実父から娘への準強制性交等事件。逆転有罪は大きく報道された。この事件は「抗拒不能」(身体的、精神的に抵抗するのが難しい状態)が争点となったため、これ以外に被告人が一審でどのような主張をしていたかはあまり報じられていない。

一審で被告人は、「被害者は被告人と性交を行うことを条件に、専門学校への入学にかかる費用の援助を求めた(つまり、被害者から性交を望んだ)」「被害者が中学生の頃に陰部に触るなどしたことがあるが、これは夜尿の指導のためで、性的なものではない」などと主張していた。こういった主張は一審判決でも、「信頼できる被害者の証言と矛盾する」「およそ考えがたい」と否定された。

対して、判決後に発表された被害者の文章には、「『逃げようと思えば逃げられたんじゃないか。もっと早くに助けを求められたらこんな思いを長い間しなくて良かったんじゃないか…』。そう周りに言われもしたし、そのように思われていたのはわかっています。」と書かれていた。

被害者は自責し、加害者は他責する。他の犯罪行為や暴力でもあることだろうが、性暴力の場合は特に顕著だと感じる。また、こういった傾向があることについて説明すると、「確かにそうだろう」と理解を示す人と、「なぜそうなるのか」と驚く人がいる。どちらの反応ももっともだと思う。

今回はどちらかというと、後者の人に対して、「被害者の自責、加害者の他責」の実態を伝えたい。前編では「被害者の自責」、後編では「加害者の他責」を専門家の声を交えて紹介する。

被害者を縛る強烈な自罰感情

まず、被害者の自責である。どちらかというと、加害者の他責よりも被害者の自責の方を、より知ってもらいたいと思っている。

もちろん、「被害者」とひとくくりに言っても、その感情はさまざまであり、複雑だ。被害に遭ったことを、すぐに人に話せる人もいれば、そうでない人もいる。周囲から見て大きなショックを受けているように見える人もいれば、何も変わらず過ごしているように見える人もいる。加害者を訴えたいと思う人もいれば、思わない人もいる。

だから自責する人もいればそうでない人もいる、ということは前提である。自責するのが正しい被害者だ、などと言いたいのではない。

ただ、被害者たちから下記のような「自責」を聞くことは珍しくない。どれも、性被害に遭った人の言葉だ。

・(路上での被害)終電で帰ってきた自分が悪い。「だからそんな目に遭うんだ」と親から怒られると思い、誰にも言わなかった。
・(幼少期の家庭内の性虐待)自分も共犯者で、人に話したら自分も警察に捕まると思った。
・(電車内の痴漢被害)狙われるような弱さのある自分が悪いと思った。
・(知り合いからのレイプ)自分の運命が悪いのだと思い、死のうとした。

夜に歩いていた、格好に問題があったというような、直接的な「自責」から、自分の人間性や運命への否定まで。「自分の悪かったところを探している」ようにも感じる。加害者が「他人が悪かったところを探す」のと対照的だ。

「私も悪かったのだけど」と前置きをしないと被害を語れない人も少なくない。そう言わないと、「お前がそんな格好をして夜道を歩いていたから犯罪にあったんだ」などと、セカンドレイプ(二次加害)によって傷つけられる可能性が高いからかもしれない。

被害当事者の中には、自傷行為をする人もいる。「こうすればいつでも死ねるという安心感があった」「生きていてはいけないと思い、自分で自分を罰した」といった声を聞く。自傷は被害のショックからであると単純に理解されがちだが、中には「被害に遭うような運命を持った自分は生きていてはいけない」というような、強烈な自罰に絡め取られていることがある。

信念に合わせた「調節」と「同化」

性被害者の心理について複数の論文を書いている臨床心理士の齋藤梓さんは、被害者の自責・自罰感情についてこう説明する。

「どのように社会や自分をとらえてきたか、というところが大きいと思います。人は、物事をとらえる枠組みと、現実に起こった体験がかみ合わなかったときに、両極端の反応をします。『過剰調節』と『同化』です」

「調節」とは、起こった事象に合わせて自分の信念(スキーマ)を変化させること。性被害は衝撃的なできごとであるため、この調節が過剰に行われる

たとえば、「世の中は安全だ。性被害が起こるのはレアなケースだ」と社会を捉えていた人が性被害を受け、「調節」の反応が起こった場合、「世の中はいつでも安全なわけではない。性被害はレアケースではない」と思う。これが過剰調節になると、「社会は絶対的に危険な場所。他人は一切信用できない」となる。

一方で「同化」は、起こった事象を信念(スキーマ)に取り入れる。たとえば、「性被害が起こるのはレアケース」であり、「良い行いをしていれば報われるし、悪いことをすれば罰があたる」と考えている人が、「同化」によって「こんなにひどいことが起こったのは私が悪かったからだ」と思い込むことがある。この「同化」が自責・自罰につながる。

ちなみに、PTSD治療の一つである認知処理療法(CPT)では、この「同化」「過剰調節」などの認知に取り組んでいく。

信頼していた相手から被害にあったときの混乱

齋藤さんは、被害者が自責しやすい理由は下記の3点にあると説明する。

(1)性被害の場合、規範意識から「同化」が起きやすい。
(2)人に話せないことが自責につながる。
(3)犯罪と日常の区別がつきづらい。

(1)について、この場合の規範意識とは「知らない人について行ってはいけない」「お酒を飲んでハメをはずしたら襲われても仕方ない」「派手な格好をする女性ははしたない」といった規範意識のこと。現代の日本ではこうした規範意識が個人の社会や自分のとらえ方に影響しており、このような規範意識を持つ人ほど被害に遭った際に自責しやすい。

(2)に関しては、たとえば「今日、恋人とセックスした」と親に報告したことがあるという人は少数派だろう。性に関しては、たとえ相思相愛のカップルの同意の行為であっても人に話しづらい。

「性暴力は「暴力」であるにも関わらず、性に関わるので、人に話してはいけないことのように思ってしまうことがあります。特に子どもの場合、人に話してはいけないことをした=自分が悪いことをした、という心理に陥ることがあります」(齋藤さん)

また(3)について、齋藤さんは次のように説明する。

「通常、身体的な暴力ならば、暴力を振るったほうが悪いと理解しやすい。しかし性暴力は、それを暴力だと思えない場合が多い。特に、相手が信頼している人など知り合いだった場合がそうです。相手が悪いと思えないから自分が悪い、になる」

知人や顔見知りからの性被害の場合も、加害者から「君が誘ったんだよ」「君もその気だったはずだ」と言われることがある。被害者は、被害後も変わりなく接してくる加害者を見て混乱し、「傷つく自分がおかしいのだ」あるいは「関係を受け入れてしまったほうが楽だ」と考えてしまうことがある。

被害者を自責に追い込む罠

齋藤さんによれば、「暴力や脅しの伴う性暴力の場合も自分を責める被害者は多いが、分かりやすい暴力を振るわれているので、被害者本人も理不尽さを認識することがある」という。

これはわかりやすい。殴られたり脅されたりすれば、被害者本人も理不尽さを認識しやすい。しかし一方で、そうでない場合、被害者は「なぜ逃げなかったのか」と自分を責めるし、同様のことを周囲からも言われやすい。さらに最近では知られてきた通り、暴行や脅迫を伴わなければ、たとえ同意がなくても現場では強制性交等罪(旧・強姦罪)には問えない。

たとえば「レイプ被害」と聞いたとき、夜道で見知らぬ人から襲われたり、一人暮らしの住居に侵入されての被害を思い浮かべる人の方が未だに多いかもしれない。実際はそうではなく、レイプの多くは、家族や親族を含む「知人・顔見知り」から行われる。

「まさかこの人がそんなことをしないだろう」という信頼を逆手に取られ、言葉巧みに陥れられることがある。ここでは詳細しないが、齋藤さんたちの研究チームは、その構造を「エントラップメント(罠)型」と名付けて発表している。


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(図:齋藤・大竹,2019より引用)

「たとえば最近話題になっている就活セクハラのような構図ならわかりやすいと思います。加害者は被害者より社会的地位が高く、被害者からの好意や尊敬を利用することがあります。さらに、『目上の人に言い返すべきではない』『飲み会の席で断るのはノリが悪い』といったその場のルールもうまく利用します。

被害者は次第に「言うことを聞かないといけない」「逆らってはいけない」と抵抗や拒否ができなくなっていき、追い込まれていくのです」

加害者は被害者の自責を利用する

私が残念に、そして悔しく感じるのは、加害者たちの中には、被害者のこのような自責感情を知ってそれを利用する者がいることだ。自責するから誰にも言えず、一人で抱え込む。警察に届けない。そうした行動は加害者にとって、とても都合が良い。だから加害者は被害者に自責を植え付けるようとする、と感じることがある。

そして、よく言われる「被害者に“も”隙があったのだろう」という無責任な放言は、被害者を加害者と同じ位置まで引きずり下ろし、加害者に強力に加担することとなる。

なぜ被害者を責めてはいけないのか。「被害者“が”悪いではなく、被害者“も”隙があった、と言っているのだから間違いではない」と思う人もいるだろう。しかし、何気なく放ったその言葉が、自責にかられながらも何とか被害者が伸ばした手を振り払い、社会から切り離す最後の一言になり得ると、これからも伝えていく。

後編では加害者の他責を説明する。

【後編は5月26日公開】

【参考】
齋藤梓・大竹裕子「当事者にとっての性交「同意」とは:性暴力被害当事者の視点から望まない性交が発生するプロセスをとらえる」年報公共政策13, 185-205(2019)