中国を脅かし続けてきた北方民族が、ついに南宋を征服! 大帝国の存在しないアジアの諸民族を次々と服属させ、中東、ロシア、東欧にまで迫りました。

インフォグラフィックで「北方諸民族の活動(後)」〜『新 もういちど読む山川世界史』より〜

モンゴル帝国の成立

はじめ遼・金に服属していた
モンゴル系諸部族はしだいに勢いを増し,
13世紀初めチンギス・ハン
(テムジン〈位1206〜27〉)が
高原を統一して
モンゴル(蒙古)帝国
(1206〜1388年)
をたてた(1206年)。

当時アジアは分裂していて
強大な国がなかったので,
モンゴルの強力な騎馬兵は
たちまち各地を征服し,
東西にまたがる大帝国をきずいた。

東方では西夏・金を倒し,
高麗を服属させ,
西方では中央アジアの
ホラズム(フワーリズム,1077〜1231年)を
ほろぼし,バトゥは
ロシアから東欧にせめいった。
またフラグは西アジアに進出して,
1258年アッバース朝を倒した。
(バトゥ、フラグは共にチンギス・ハーンの
孫で遠征軍の指揮官を務めた)

モンゴル帝国の領土は広大で,
遊牧と農耕の地域にわかれ,
民族や宗教も複雑多様であったので,
全体を画一的に統治することは
不可能であった。

チンギス・ハンが占領地を
息子たちに統治させたことから,
ロシアにキプチャク・ハン国
(1243〜1502年),
中央アジアにチャガタイ・ハン国
(1227〜14世紀後半)
が形成され,
さらにイラン・イラク方面に
イル・ハン国
(1258〜1353年)
が成立した。

フビライ・ハン
〈位1260〜94〉
の代になると,
各ハン国はそれぞれ独立し,
大ハンのもとにゆるやかに連合した。


元の中国支配

フビライ・ハンは
都をモンゴル高原のカラコルムから
大都(現在の北京)に移し,
国号を元(1271〜1368年)と
称した(1271年)。

ついで南宋をほろぼして(1279年),
中国全土を完全に支配し,

さらに日本・ベトナム・ジャワなどに
遠征軍をだしたが,これは失敗した。

元は中国支配にあたり
服属した順に協力者とし,
高級官僚はモンゴル人や
中央アジア・西アジア出身の
色目人が独占した。

儒学は軽視され,
科挙もはじめはおこなわれず,
中国の知識人は大打撃をうけた。

遊牧民のモンゴル人は
商業の利益を重視し,
駅伝制を設けるなど
交通路の整備につとめたので,

貿易が陸・海ともにさかんになり,
泉州・杭州などの
海港都市はさらに繁栄した。

元はまた江南の豊かな物資を
北方に輸送するため,
大運河の整備や沿海の海運を
ひらくことにつとめた。
商業がさかんになり
貨幣の流通も広がり,
交鈔(紙幣)が普及した。

元はやがて王室の相続争いや,
財政の悪化などでおとろえ,

14世紀なかごろ白蓮教徒による
紅巾の乱(1351〜66年)などの
農民反乱のなかから明がおこり,
大都を攻略したので,
元はモンゴル高原にしりぞいた
(北元,1371〜88年)。

同じころ西方の諸ハン国も衰亡し,
モンゴル民族の支配時代はおわった。

東西交流と元代の文化

モンゴル帝国は広大な地域を支配したので,
東西の交通が発達した。
そのころ十字軍を
西アジアに送っていた
ローマ教皇らが,
使者をモンゴル帝国へ
派遣したこともあり,
交流は東西から進められた。


こうして元代には
ローマ・カトリックが伝えられ,
マルコ・ポーロらがおとずれた。

また西方からイスラーム教も伝えられ,
イスラームの自然科学の影響で
中国の天文学や数学が発達した。

一方,中国の絵画は,
イランのミニアチュール(細密画)に
影響をあたえ,
火薬・羅針盤はイスラームに伝えられた。

元ではモンゴル語を公用語とし,
ウイグル文字や
チベット文字系の
パスパ文字が用いられた。

中国固有の学問・思想は
ふるわなかったが,
戯曲や小説などの庶民文芸は
モンゴル人にも好まれ,
宋代に続いて発達した。
ことに戯曲は元曲とよばれるように
多くの傑作がつくられた。

関連用語

チンギス・カン

Chinggis Khan 1155/61/62/67〜1227(在位1206〜27) モンゴル帝国の建国者。本名テムジン。廟号は太祖。生年について多数異説がある。モンゴル部族のリーダー,イェスゲイの長男として誕生。1190年代中頃ケレイト王国のワン・カンに協力し敵対する遊牧勢力を次々と破った。1203年彼の台頭を恐れたワン・カンに襲撃されるが,逆に奇襲でワン・カンを討ちケレイト王国を滅ぼした。翌年ナイマン王国を討ち,06年即位してチンギス・カンとなった。即位後,軍事行政組織,宮廷制度を整え,諸子・諸弟に遊牧地と部民を与え7ウルスからなるモンゴル帝国の原型を完成。11年から金へ遠征し中国北部を支配下に入れ,19年から西方遠征を開始し,ホラズム・シャー朝を討ち,中央アジアを版図に入れたが,26年からの西夏遠征の途中で病死した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

モンゴル帝国(モンゴルていこく)

Yeke Mongghol Ulus 1206〜1388 13世紀初めにチンギス・カンがモンゴル高原に建国し,そののち満洲,中国,中央アジア,東イスラーム世界,ロシアを版図に入れた多民族世界帝国。1206年テムジンはモンゴル高原の諸部族を統一し,即位してチンギス・カンとなり,大モンゴル国(ウルス)(モンゴル帝国)を建国。諸子,諸弟に分封し7ウルスの集合体として帝国の原型を確立,対外遠征を開始した。以後も拡大政策は継承され,バトゥの南ロシア,東欧遠征,フレグの西アジア遠征,クビライの南宋遠征により版図が拡大。一時カイドゥが中央アジアに大カアン(カガン)に対抗する勢力を結集したが,彼の死後は,大カアンのいる元を中心にキプチャク・ハン国,イル・ハン国,チャガタイ・ハン国がゆるやかに統合する帝国となり,「モンゴルの平和」といわれる繁栄を実現した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

駅伝制(えきでんせい)

前近代の交通・通信制度の一形態。支配地域の主要道路には一定の距離ごとに施設が設けられ,宿泊施設,交通手段を提供し,旅行者や物資を搬送した。モンゴル帝国は支配地域にジャムチ(漢字では站赤と表記)と呼ぶ駅伝制をしき,やがて中国にも適用,元朝治下では站戸(たんこ)が民戸100戸をもって編成され,車馬・食糧を供給した。なお站は駅を意味し,その利用には牌符(はいふ)の携行が必要であった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

キプチャク・ハン国(キプチャク・ハンこく)

Kipchaq Khan 1243〜1783 ジョチ・ウルス(Jochi Ulus)ともいう。チンギス・カンの長子ジョチがアルタイ山脈方面に有したウルスが起源。バトゥの西征により中央ユーラシア西方のキプチャク草原に拡大した。キプチャクとはロシア人がポロヴェツと呼んだ同草原のトルコ系遊牧民。ジョチの子孫が統治し,14世紀前半のウズベクの時代が最盛期。都のサライでは商工業が栄え,対外的にマムルーク朝との友好に努めた。同世紀後半に統一は失われたが,ジョチの第13子トカ・テムルの子孫のオロスとトクタミシュがあいついでウルスを統一。同世紀末のティムール軍の侵攻で弱体化し,西部に大オルダ,カザン・ハン国,アストラハン・ハン国,クリム・ハン国,東部にウズベクとカザフの各政権,北部にシビル・ハン国が成立したが,18世紀末までにすべてロシア帝国に併合された。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ハンこく)

Chaghatai Khan チンギス・カンの第2子チャガタイの名に由来し,その子孫たちを君主とする中央アジア地域の政権の通称。チャガタイ・ウルスともいう。イリ河畔のアルマリクなどを拠点とし,オアシス地域も統治した。14世紀半ばに東西に分裂し,西部の政権は消滅したが,東部の政権はいわゆる東チャガタイ・ハン国(モグーリスターン・ハン国)として存続する。天山山脈北側の草原地帯を拠点として南側のタリム盆地周縁オアシス地域を勢力下に置いた。15世紀後半,カザフ人やウズベク人など新興の遊牧勢力の進出によって衰退する。支配者集団は天山南側のオアシス地域に分散して定着し,同時にトルコ化した。16世紀の前半には,カシュガル・ハン国が成立した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

イル・ハン国(イル・ハンこく)

Il Khan 1258〜1411 フレグ・ウルスともいう。モンゴル帝国の諸ハン国の一つ。始祖はチンギス・カンの孫フレグ。1258年,アッバース朝を倒し,イラン北西のマラーガ,のち,タブリーズを都として建国した。地中海岸からアム川までを領有したが,元朝を宗主国として戴いた。初めはローマ教皇,キリスト教国と結んでマムルーク朝と争ったが,モンゴル人イスラーム教徒が増加したので,ガザン・ハンの治世(1295〜1304年)にイスラームを国教とし,モスク,神学校などを建てた。歴史家で『集史』の著者でもある宰相ラシードゥッディーンの輔弼(ほひつ)のもと軍制,税制などを改革して財政を再建し,イル・ハン国の黄金時代を築いた。のちハン位争いと有力貴族の跋扈(ばっこ)のため国勢が衰え,チンギス・カンの子孫が絶えた(1353年)。王統が臣下のジャライル家,チューパン家などに移ったのち,ティムールに征服された。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

元(げん)

Yuan 1271〜1368 モンゴル帝国の第5代皇帝クビライ(世祖)が1271年建国,モンゴル高原から進出し,79年南宋を滅ぼして中国を統一し,大都(北京)に遷都して中国風の専制的官僚支配を行った異民族王朝。クビライは対外的にはモンゴル,満洲,中国を中心部とし,チベット,朝鮮を属国とする元朝最大の領土を支配した。対内的にはモンゴル至上主義,遊牧優先の原則に立ち,特に中国に対しては民族的身分制を立て,(1)モンゴル人,(2)色目人(しきもくじん)を支配階級に,(3)漢人(金朝遺民),(4)南人(蛮子(まんじ)=南宋遺民)を被支配階級とした。中央官制では皇帝とモンゴル貴族が絶対権を持ち,地方官制は宋,金の制を受けつつ分権的に統治し,統一維持のために駅站(えきたん)(ジャムチ)・運河などの交通制度,社制などの郷村制度,交鈔(こうしょう)などの貨幣制度を整え,パクパ文字などで国粋保存を図った。しかしカイドゥ(海都)の乱を契機にハン位の相続が不安定となり,宮廷貴族の専横や,モンゴル至上主義による誅求が財政・社会不安を生み,白蓮(びゃくれん)教徒の乱が滅亡をもたらした。元の文化は国際的・現実的で,キリスト教,イスラーム教が流布し,チベット仏教が興り,自然科学も発達した。一方,儒教,詩文などの中国文化は不振で,むしろ元曲,南曲などの俗文学が栄え,また文人画が興って南画,山水画が大成された。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

大都(だいと)

Dadu 元の首都。今の北京。世祖(クビライ)が金の首都中都に遷都してその東北に新城を築き,1272年大都と改称した。カンバリク(モンゴル語でカン〈ハン〉の都)とも呼ばれ,豪壮な宮殿,整然たる市街,その繁栄ぶりなどはマルコ・ポーロらによって西方へ紹介された。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

クビライ

Khubilai 忽必烈 1215〜94(在位元皇帝1271〜94,モンゴル帝国皇帝1260〜94) 元の初代皇帝,モンゴル帝国の第5代皇帝。廟号は世祖。チンギス・カンの孫。兄のモンケ(憲宗)のとき大理(だいり),チベットを服属させた。兄の死後開平府(上都)で即位し,アリク・ブケの乱を平定して,都を大都に移し(1264年),1271年に国号を元と称した。79年南宋を滅ぼして中国を統一し,高麗(こうらい),安南,ビルマ,ジャワを従え,日本征服を計画した。中国的官制の採用,統一通貨の発行など中国王朝化を図ったが,モンゴル人の優遇,モンゴル語の公式使用,モンゴル兵制の施行など,モンゴル的制度の存続にも努めた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

紅巾の乱(こうきんのらん)

元末の宗教的農民反乱(1351〜66年)。標識に紅色頭巾(ずきん)を用い,紅頭の賊,紅寇(こうこう)などともいう。弥勒教(みろくきょう),白蓮教(びゃくれんきょう),明教などの宗教的結社が指導。乱は弥勒下生(げしょう)説で農民を動かした白蓮教の明王韓山童(かんざんどう)に続き,子の小明王韓林児(かんりんじ)らが起こした。結局乱は失敗したが,代わって首領となり紅巾の性格を克服して帝位につき,元を退けたのが明の太祖朱元璋(しゅげんしょう)である。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)